東京で志賀の油揚げを考えた
これは、東京・新丸の内ビルディング、通称「新丸ビル」の一階にあり、東京駅の煉瓦造りの建物を眺めながらコーヒーが飲める、天井が高くてガラス張りになった某カフェの中で走り書きしている文章である。
念のために言っておくと、東京駅の駅舎はまだ工事中で、仮設のプレハブや仮囲いで覆われていて、ほんの一部しか見えない。ただし、見えている部分はそれなりにかっこいい。
いつの間にか、このあたりはかなり歩き慣れてきた。さっきも道を尋ねられたが、なぜかすらすらと伝えられるから不思議だ。
一年に五、六回しか入らないであろうこの店も、陽の当たり具合とかが分かるようになっていて、直射日光を避けられる隅っこの席を確保したりする。
で…、ここで、東京駅前の人通りを眺めながら書くのは、石川県能登半島の志賀町にあった小さな豆腐屋さんがやめてしまったことについての、かなりセンチメンタルな雑感および雑想である。
なのだが…、本題に入る前に、やむなく不幸にもこのページへと来てしまった読者の皆さんのために、予備知識的な話をしておかなければならない。
(と、ここまで書いたところで約束時間となり、続きはまた後にする…)
(続きは、有楽町国際フォーラムの、だだっ広いカフェでとなった…)
それ(つまり、予備知識的な話)は、ボクがいかに豆腐屋さんの作り出す食材と親しく付き合ってきたかだ。
モノ心が付いた頃、ボクは自分の家の親戚に豆腐さんがあることを何となく知った。
それはUノ気という隣町にあり、歩いても走っても行けるところではなかったが、時々バスに乗って、母と出かけることがあった。
親戚はH田さんと言った。その家に着くと、ぷゥ~んといい匂いが漂ってくる。ボクはすぐにおろおろと豆腐づくりの現場をうろついたりした。
居間に上がると、お菓子が出ていたが、そんなお菓子よりも、店の商品の方に強く激しく魅かれていたのだ。
行くと、帰りには必ず新聞紙にくるまれ、さらにそれをビニール袋に入れたおみやげが渡された。
H田のおばちゃんが愛想よく笑いながら、母に渡すのだ。すると、母はすぐにそれをボクに回す。
それとは、油揚げだった。何度も書いてきたし話もしてきたが、ボクは小さい頃から、油揚げが大好きな子供だったのだ(小さい頃から子供だったというのは妙だが、ここは思い入れの強さが露見したということで理解してもらうしかあるまい……)。
その好きさ加減としては、たとえば正月のおせち料理に、我が家では油揚げが大量に煮られたが、その約九十五パーセントはボクが食っていた。おかずと空食いの比率は六:四くらいで、純粋に油揚げの味を理解していた証と言える…?
ボクは母から回された油揚げの入った袋を膝にのせて、バスの座席に座っていた。
ほのかな温もりはボクを幸せにしてくれた。が、大好きなあの匂いはすぐにバスの中に漂い始め、それがかなりの範囲に行き渡っているなと感じられた時には、ちょっと恥ずかしくもなった。
今何かに活かされているというものではないが、貴重な体験だった。
相変わらず前置きが非常に長いが、そんな油揚げ大好きニンゲンにとって、昨年羽咋市滝町の「港の駅たき」(当時の名)で見つけた一品の美味さは格別で、ボクの情報を入手した金沢柿木畠・「ヒッコリー」のマスター、M野K一さんが激しく反応したという話は、昨年の重大ニュースのひとつになっている。もちろんヒッコリー内部でのことで、カウンター席周辺で大いに話題になったものだ。
ヒッコリー・M野K一さんといえば、ご存じあの「大洋軒の焼き飯」を復活させた人だ。
人のやさしさと庶民の味に敏感なM野さんが、あの油揚げの味に飛び上がったのも当然で、それから何度も愛用のオートバイで風を切りながら(かどうか知らないが)、頻繁に出かけていたのである。
その油揚げこそが、志賀町の田舎にあった某豆腐屋さんで作られていたもので、材料も吟味されたいいものを使い、油揚げらしい素朴な風味を余すところなく出した絶品だったのである。
先日、「汐風の市場滝みなと」(これが港の駅たきの新名称)に立ち寄った時、棚にはその油揚げが並んでいなかった。
豆腐を入れる四角いビニール容器に、小さく三角に切った油揚げを無作為に入れたものだが、歯応え十分、口の中に残るあの雑然とした感触は、素朴な油揚げの象徴でもある。
厚揚げの方がもてはやされている今日(「こんにち」と読んでほしい))では、あの感触はなかなか味わいにくい。
棚になかったのを確認した時、夕方だったこともあって、もう売り切れたのだろうと普通に思っていた。
その代りに(でもないが)、地元の元潜水夫さんが目の前の防波堤付近に潜って採ってきたという「寒ナマコ」がバケツに入れて置いてあり、店のO戸さんとの話はそっちの方に多く時間を割いていたのだ。
そして結局、豆腐屋さん営業取りやめのニュースは、後日ヒッコリーで聞くに至ったのだった。
ボクはカウンターの椅子から落ちそうになった。
M野さんの話では、その豆腐屋さんは決して営業的に行き詰ったというわけではないらしかった。
もちろん生活に困窮しているわけでもなく、むしろ豆腐屋稼業は一種こだわりの中でやってきたものであって、原材料の確保などで無理があったのかも知れない。
ただ言えるのは、油揚げや豆腐を生活の中の大切な友としてきた者たち(たとえば、ボクのような)は、これから先一体どうすればいいのだろう…?ということである。
誰か志賀町で、あの豆腐屋さんのあとを継ぐような青年はいないだろうか?
青年でなくてもいい。オトッつァんでも許す。当然おっかさんでもいいのだ。
テメエがやりゃいいじゃねえかという人もいるかも知れないが、どうも朝早く起きれる自信がないし、出来たものをついつい摘み食いばかりしてしまいそうな予感がする。
ボクには豆腐屋になる適性はない…。食べる方の適性は完璧にあるが……
それにしても、あの油揚げがこの世から消えていくことは、能登の文化のひとつの損失である…と言えるかもしれない。
ボクの知る限り、穴水や輪島には、美味いいなりそば(うどん)を食べさせてくれる店がまだまだ存在しているが、どうも「いしる」などと同じように、自家製っぽさの風土が消えていきそうな危機感がある。
よそ者の、都合のいい戯言なのだが、なんかセンチメンタルなのである………
http://htbt.jp/?p=2558 「B級風景と港の駅の油揚げ・・・」
あの三角揚げ、本当に残念です。ところで最近、大事な靴を補修してもらいました。預かり証も無く、ただ一週間後と、おやじの返事。顔が預かり証です。代金は申し訳無いほど。
職人気質な、修理も販売も自ら営んでる、小さな靴店を見てると、なぜか三角揚げの豆腐屋の、おやじを連想しました。
そんな店、最近、本当に少なくなりました。
いい話ですね。
Facebookに転載させてもらいました・・・