タサイであったことについて


気が付くと、多くの人から“タサイなニンゲン”と呼ばれるようになっていたのである。タに濁点は付けないでほしい。

この“タサイ”とは、“多彩”とか“多才”のことであって、当然ながら“多妻”のことではない。

ただ自分としては、一応“多彩”に留めておくくらいが適当だと思っており、それでもまだ自分を過大評価しているように聞こえるかも知れないが、そうでないとも言い切れない。

“多彩”を敢えて“多才”としないのも、そのとおりだからだ。両者は似ているようで異なる。それに、多才には一定レベルの評価がなければならない。

 

自分自身の多感とか、多趣味とか、そういうことをしっかりと意識し始めたのは18歳の頃である。

その頃から生まれた自分の中の矛盾にも、時折苦しめられた。

今の時代は、みなが多彩のように見える。そういられることが羨ましい面もある。

多彩であっても、何らおかしなことでなく、正々堂々と清く正しく多彩でいたりしている。

もし今の時代の多彩さが真実だとすれば、ボクはかなり進んだニンゲンだったと思う。

やってきたことは周辺の同世代人よりは、かなり前にも横にも斜めにも行っていた。

しかし、そんな多彩さとは一体何だったのだろう?

 

ボクが持ち出した例ではないが、サッカーの中田英寿を見ていると、今の彼にはサッカー選手だった頃とは全く方向の違う生き方が見える。

生き方というと同じになるかもしれないが、少なくとも関心の対象が変わった(変えた?)ことによって、その日常も周辺も変わってきた。

彼は優秀な、そして人気サッカー選手だったことによって、自分の存在を広く知ってもらった上で、新しい自分をまた見せようとしているのだろうと思う。

そして、ボクたちが今見ている彼は、風貌などは変わらないにしろ、どこか可能性を秘めた新しいニンゲンにも見えている。

彼の感性から、今まで気が付かなかった何か新しいものが発見できるのかも知れないと、多くの人が思うようになっている。

彼のその多彩さにも、彼なりの多感さなどが大きなモチベーションとして存在しているのは間違いない。

彼の中にあったものが、サッカーという、ある意味仕事的なものから解放されて表に出てきたのだろう。

ただ正直なところ、彼らの世界の多彩さや多才さはよく理解できない…

 

で……

ここ最近、よく自分のことを整理してみたら…みたいなことを言われるようになった。

それが、“タサイなニンゲン”と呼ばれることからの、殺し文句みたいになっている。

整理せよというのは、世の中にアピールせよということだ。

社会の中では、ボクは単なる地方の中小企業の中の、一人のニンゲンに過ぎないから、それだけでいるとN居の存在はまだまだ活かされないと言ってくる人たちがいる。

今の立場で、いろいろとやってきたのだから、素になって、そのことを本気で整理してみたらいいと言うのだ。

もっと、自分からオープンにしていけよという意味なのだろう…。

多感性多趣味エキスが、まるで樽の口から落ちる「いしる」の最後の一滴のようにポトリポトリと音を立てている。

残りわずかなエキスをどうするか…?

日々、ダラダラと考えている………

 


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