みねさんは、やっぱドルフィーだ・・・
1月28日土曜の北國新聞朝刊に、「一調一管」の乃莉(のり)さんと、峯子さんが紹介されていた。以前にもNHKが制作した番組で二人のことが紹介され、その反響も大きく英訳されて世界で放映されたというから凄い。
今更必要ないかとも思うが、県外の読者の皆さんのために書いておこう。
この二人は、金沢のにし茶屋街で茶屋を営む間柄であり、それぞれが鼓と横笛の名手でもある。
「一調一管」というのは、打楽器と笛とのデュオ(二重奏)をさすが、二人の演奏は凄まじいくらいの緊張感にあふれていて、最近金沢の街中で開催されているジャズ何とかの連中のよりも、はるかに“ジャズ的音楽”である。いっそのこと、そのジャズ何とかに出てもらって、金沢のジャズ的感性の粋を街の人たちに感じてもらうのもいいかもしれない。
特に峯子さんは、まるでE・ドルフィーであって、彼のフルートに負けないくらい、峯子さんの横笛の音には全身を凍らせるようなシャープさがある。
ボクにとって、その峯子さんには懐かしい思い出がある。
それは、にし茶屋街に平成8年(1996)にオープンした「金沢西茶屋資料館」の仕事に関わっていた頃のことだ。
その資料館では、一階で大正時代、20歳にして『地上』という大ベストセラー小説を発表し、一躍時代の寵児的地位にのし上がった島田清次郎の生涯を紹介している。
清次郎の祖父がかつて茶屋を営んでいたところで、現在の白山市美川に生まれた清次郎が、父を失い、まだ幼い頃に母と二人この茶屋に移り住んだ場所だ。検番の隣り、甘納豆のかわむらさんのお向かいさんになる。
清次郎のことは最近になってそれなりに知られるようになっているが、ドロドロしたところは不鮮明なままだ。
極貧から這い上がり英雄になったはずの清次郎は、『地上』による大出世後の傲慢な言動などから、世の中を敵に回すようになり、最後は狂人扱いされたまま、31歳の若さで死ぬ。
清次郎研究の第一人者である小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)は、最後に収容(監禁)されていた保養院から出した手紙(徳富蘇峰あて)に、清次郎の思いがすべて凝縮されているとされた。ボクもそう思った。
清次郎はもう一度、世の中に戻って頑張りたかったのだと……
そのことが展示ストーリーに色濃く映し出されている。
実を言うと、ボクは学生時代、東京で『地上』を読んでいた。本好きだった金沢の友人が、読んでみない?と貸してくれたのだ。しかも、その後、清次郎の生涯を題材にして書かれた『天才と狂人の間』(七尾市出身の杉森久英著で直木賞受賞)という本まで貸してくれて、ボクは非常に稀な清次郎通になっていた。
そのことに小林先生も驚かれ、今でもボクのことを可愛がってくれているきっかけになったのだ。
ところで、清次郎の歪んだ精神には、幼い頃から見てきた茶屋での芸者たちの扱いなども反映していると言われるが、そのことを頭に置きつつ、実際に現在の茶屋の女将から話を聞くというのは複雑だった。
資料館の二階には、茶屋の雰囲気が再現された一室がある。
その部屋の手前に、木板の上に記されたちょっと長めの文章があるが、それはボクが当時、峯子さんから聞き取った話をもとに書いたものだ。
今84歳の峯子さんは、あの頃68歳。今もお元気そうだが、あの頃は当然さらにお元気で、峯子さんのお店である「美音」へ行く際に同行してくれる市役所の担当者の方も、よくやり込まれておろおろになっていた。
峯子さんのことは、ミネさんと呼んでいて、何度もお邪魔し、展示したいものを借りられないかとか、開館セレモニーの際の詳細な打ち合わせなどをさせてもらった。
ボクはずっと、資料館二階の部屋の壁に物足りなさを感じていて、そこに扇子を何本か置きたいと思っていたのだが、なかなか思うようなものは手に入らずにいた。
仕方なく、練習用だという扇子を三本壁に置き、それらしい雰囲気を醸し出そうとやってみた。もともとボクにはそういうものを愛でる趣味もなかったせいか、何となくそれらしく見え、ボクはもうこのままいこうと思っていたのだ。
すると、ある時、峯子さんが二階に上がってきて、
「あんな安物(もん)出しといたらダメや。あんたに開館からしばらくだけ、これ貸すさけえ、ちゃんと盗られんように展示しとけんぞ」
と、上等そうな扇子を三本置いていってくれた。眼鏡の奥の目が最後に愛らしく笑っていたのを、ボクは忘れない。
そして、前に書いた、峯子さんの話をもとに書いたという文章なのだが、この企画は展示の仕事も終わりに近い付いた頃、ボクが思いつきで言い出したことだった。
それは、昔のにし茶屋街の風情を、下働きの少女の日常生活をとおして伝えようというもので、峯子さんから話を聞くのがベストだとボクは思った。
しかし、そのことを市役所の担当の方に話すと、そういう話はなかなか難しいのではないかと言われた。しかも、そういう世界では、複雑な事情もあるかも知れないと。
結局、ボクが直接峯子さんにお願いすることになり、恐る恐る問い合わせた。返事はとりあえずOKだった。
「美音」の居間に置かれた長火鉢を囲んで、いつものように鉄瓶から注がれたお湯が急須に渡り、そして熱いお茶が前に置かれた。
それから40分間ほど、峯子さんの話を聞いた。
峯子さんは、たしか幼い頃東京から来たと言った。戦前のことだが、当然、その事情は聞けなかった。
朝早く起き、いろいろと仕事が待っていたが、その頃は、小学校(野町)に行けることが嬉しくて、小学校にいる間は、店の仕事のことを忘れられるから楽しかったなどと、茶目っ気たっぷりに話してくれた。
もともとが童顔の愛くるしい峯子さんだから、そう言う話を聞いていくうちに、幼い頃の峯子さんが想像できた。本人は淡々と話していたが、あの時ボクは妙にセンチメンタルになっていたかも知れない。
NHKの放送で見た時、当たり前だが、たしかに峯子さんはその年齢に相応していた。自分の芸も謙遜しながら語っていた。
茶屋などはまったく縁がないから行けないが、機会があれば、また生で聴いてみたい。
ボクはジャズプレイヤー・峯子さんの大ファンなのである……
金沢らしい、いいお話ですね。
島田清次郎のこととか、
西茶屋街にも、いろいろと物語があるんだ・・・
もっともっと、
こんな話が読みたいですよ…
初めてコメントします。
この二人の奏でる音?
一度聞いてみたいというか、
見てみたいというか、
金沢の奥深さを感じます。
縁のないような世界ですが、
中居さんのエッセイから知ると、
身近にも感じてきました。
ジャズ的って言葉が好きです…