ゴンゲン森で、子どもたちに語った
九月のアタマあたりだったろうか、町役場から突然電話があって、「うちなだ夢教室」の講師をやってくれないかと頼まれた。
一応、こちらのことをいろいろと調べてあって、断わる理由もなく引き受けることにした。
「うちなだ夢教室」というのは、内灘町が主催する小学生やその親たち向けのイベントで、内灘の主に自然について勉強しようというテーマで開催されていた。
ボクの場合は、「ゴンゲン森」がテーマになっていて、ボクは自分の本の中に描かれているような内灘の子供たちのことを語りましょうと担当者に告げた。
担当者はそれなりに喜んでくれてもいた。
ところが、どうなったかよく分からないまま、役場から案内が届き、その内容を見た途端、これでは引き受けられないと思ってしまった。
そこに書かれていたのは、ゴンゲン森の木々や動物などについて学ぼうというもので、ボクが伝えていた内容とは異なっていたのだ。
なにしろ、ボクはゴンゲン森に限らず動植物などに詳しいわけではない。
話してみようと思ったのは、自分たちの小学生の頃、ゴンゲン森や砂丘で何をしていたか、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』に描かれたことそのものだったのだ。
ボクは担当者にメールを入れ、与えられたテーマでは自分は不適任であることを伝えておいた。
休日を隔てて電話が入っていた。
いろいろあったが、結局引き受けることになり、当日を迎える。
三十人ぐらいの子供たちと十人弱のお父さんとお母さんたち。
それに初めて会った元気印の担当者Wさんと、以前から存じ上げていた町の文化活動をリードするTさん。
そして、ボクの未知の部分、つまり動植物について教えてくださるI氏や、その他スタッフの人たち。
かつては砂丘の中の畑か、ニセアカシヤの林だったところに建つ白帆台公民館に集合した。
紹介されたあと、それではとゴンゲン森の入り口に向かって歩く。
森への入り口は小さな坂道になっていたとか、子供にとっては森に入り込むことは非常に勇気が要ったという話をし、すぐに頭上のクルミの木を指さす。
植物のことはIさんが詳しく話してくれるので、こちらも聞き手にまわる。
森に下ってしばらく行くと、左手の崖になっている方を見上げながら、上部はかつて大きな砂の台地だったというようなことを語る。
すると、自分自身もその記憶の中に入り込んでいく。
もう体感するのはむずかしいが、ボクたちはその砂の大きな台地からゴンゲン森を見下ろしていたのだ。
そして、その台地で野球をし、その台地から海の方に下って、米軍試射場があった時の残骸である着弾観測所で遊び、そこからまた砂丘に植えられていたグミの実を取りに下ったりもした。
ボクたちが野球をしていた砂の台地の先で、試射に反対する母親たちが座り込みをしていたといったことなど、知る由もなかった。
ボクは、砂のことを話し始めた。
砂の感触が、子供の頃の強烈な記憶なのだ。
裸足になって、砂山から駆け下りる爽快さを、ちょっと力を入れて語ったが、実際に子供たちには伝わっただろうか?
道がまた下りになっていくと、海が見えてくる。
しかし、ボクの子供の頃、つまりゴンゲン森がまだ生きていた頃は、森から海は見えなかった。
海はゴンゲン森を抜け、その出口を塞ぐようにしていた砂山を登らないと見えなかった。
小学生の頃、たった独りでこの森を駆け抜けた経験の中では、この最後の坂道が最も興奮する場所だったと思う。
恐怖心から解放されるという思いで、一気に下った。
一度だけ飲んだ記憶のある森の中の湧水は、今何でもない平凡な場所にある。
そこに皆が集まり、ボクは貝殻に水をため、それを飲んだ時の話をした。
ゴンゲン森に廃屋があり、そこに何か恐ろしい者がいる?
そんな話がゴンゲン森をより恐ろしい場所にしていたことなども話した。
ボクたちは、恐(畏)ろしいものは何でも「オーカミ」と呼んでいた。
この湧水は、ゴンゲン森のオーカミの水で、水を飲むところを見られると、オーカミに殺される。
そんな想像がはたらいた。
とりとめもなく時間が過ぎ、公民館に戻った後、もう一度みんなの前で話すことになっていた。
話は、大人向けの方に転化していき、ボクは自分の本を読んで感想を綴ってくれた人たちの話などをした。
子供たちに話すという機会は今までほとんどなく、少し戸惑ったが、やはり大人が子供たちに伝えていくことの大切さを知らされた。
内灘も含め、多くの土地では子供たちに日常の歴史、あるいは歴史の中の日常というものを伝えていない。
あらためて、そういうことを思った時間だった……