カテゴリー別アーカイブ: 著書・周辺編

ボクらの浜のゴミ拾い

砂浜

6月最後の日曜日は、6月最後の日でもあった。

が、そんなこととは特に関係ないと思うが、わが内灘町では、町の代名詞とも言える海岸の一斉清掃に、朝から町民たちは汗を流していたのだ。

と言っても、当然ながら内灘28000人の町民が全員海岸に押しかけたのではない。

もし、内灘町民全員が海岸に集まってしまったら、砂浜は立錐の余地もなくなり、ゴミ拾いどころか、身動きもとれない状態になってしまって大変なのだ。

そんなわけで、有志と各種団体、家族連れなどが参加し、それでもかなりの人数で賑々しく砂浜のゴミ拾いが続けられたのである。

公式開始時間は、午前7時。

しかし、ボクなどの地区役員はなぜか6時集合と聞かされていた。

ボクたちの拠点となるのは、権現(ゴンゲン)森海水浴場だ。

小さな海水浴場だが、夏真っ盛りの頃になると、それなりに金沢などから客が来る。

会社などのレクリエーションなどにも使われるケースが多く、人気がある。

海水浴場はというか、最初の浜茶屋がボクが小学生だった頃、地元のよく知っている人たちによって作られたと記憶する。

それまでは何にもない、ただの広い砂浜だった。

海水浴場が作られる時、権現森に一台のブルドーザーが入り込んで、まるでバリカンでアタマを刈るようにしながら森の中に一本の道を造ったのだ。

あの時代は、自然保護がどうのこうのなどと言う人もいなかったのだろう?

実を言うと、我々「悪ガキ隊」(もしくは「全ガキ連」とも言う)は、いち早くそのニュースをキャッチしていた。

そして、工事の始まるその日、すぐに権現森の手前にあったニセアカシヤの林の入り口へと走っていたのだ。

真新しいブルドーザーに跨り(実際、運転席に座っていたのは言うまでもないが)、颯爽と道を切り開いていく運転手のお兄さんとは、すぐに仲良しとなっていた。

それからは、毎日学校が終わると権現森に出かけ、ブルドーザーにも乗せてもらったりした。

その日の作業が終わり、開いた道を戻る時に乗せてもらったのだと思う。

樹木や雑草などで暗く薄気味悪かった権現森が、明るく開放的なイメージになり、もうビクビクしながら森の細い道を歩いて行かなくていいと思うと、高いブルドーザーの席から勝ち誇ったような気持ちで森を見下ろしていた。

本題とはあまり関係ないが、そんなわけで、とにかく権現森海水浴場は出来たという話である。

時計は6時半になっていた。しかし、ボクを入れて四人が集まっているだけで、あとは誰も来ない。

どうせ7時からだし、みんなはまだだろうと思っていると、後から来た一人が手にゴミ袋を持って砂浜に下りて行った。

聞くと、海水浴場駐車場のずっと手前で、ゴミ袋が渡されているという。

つまり、我々は事務局よりもちょっと早く来すぎていたのだ。

一人がわざわざゴミ袋を取りに戻ってくれた。

いよいよ浜茶屋あたりから砂浜に下り、ゴミ拾いをしながら進んで行くと、先の方には大勢の人だかりが見える。

あの集団はいい時間に来たので、そのままゴミ袋を手にゴミ拾いを始めていた。

早く来ていながら不覚をとったと、川中島の合戦における武田軍の山本勘助になった心境でいる……(それほど深くはない)

ゴミは無数に、しかも時折悪意のようなものを匂わせながら、ボクたちの足元に落ちていた。

しかも砂浜だから、ほとんどは砂に埋まっている。

ハングル文字の入ったものも多くある。

悪意を感じるのは、四駆車が入り込んできたあとに散乱しているペットボトル類だ。

大きなものが、海浜植物の隙間に多く散乱している様は、目にしただけでも気分が悪くなる。

と言っても、ゴミ拾いの面々は地元の仲間だ。やらねばならぬ的にやるしかないと思っている。

7時を過ぎてからか、雲が切れ、本格的に太陽が出はじめた。

海の朝はそれなりに空気も冷たいが、東からの陽光を受けるようになると一気に暑くなる。

鼻が高いせいだろうか、いつの間にか鼻のアタマに熱気を感じるようにもなっていた。

数百メートルにわたって、人のかたまりが動いて行く。

清掃部隊に少し遠慮しがちな釣り人たちも増えてきた。

ところどころに設置された、ゴミの集積場に流木などと一般的なゴミなどが分けられ、その量は見る見るうちに増えていく。

見た目に分かるほどに、砂浜はきれいになった。

そして、そろそろゴミも目途が立ち、少し身体も疲れてくると、そこかしこに立ち話チームが出てきた。

昨日の夜は一緒に飲んでいたという人たちもいれば、久しぶりに会ったということで会話が弾んでいるグループもある。

役場の中の委員会に参加したりして、かなりストレスが溜まったりするケースもあるのだが、こういった場はむずかしく考えなくていいから楽だ。

クルマに戻ろうと、砂浜をずっと歩いて行くと、砂の上に朽ち果てた椰子の実があった。

実は朝一番に目に付き、これはゴミではないと自分で決めていた椰子の実だった。

誰もこれをゴミ袋に入れようとしなかったことに、なぜかホッとした。

陽が出る前は、小さく波打っていたような海面が、今はもう穏やかに揺れている。

すぐには帰らずに、海浜植物の群れの中を高台に登ってみた。

かつては、完全に砂の山で、一気に浜へ駆け下りるといった醍醐味があったが、今は植物が執拗に拒む。

狭く小さくなった砂浜を見下ろしたが、特に何の感慨もなかった。

沖には小さなボートが浮かび、釣り人の赤いウエアがあざやかに浮かび上がっている。

小さかった頃は、毎日のようにこのあたりで遊んでいたような気がするが、こうして海岸清掃という行事をとおして来てみると、地元の人たちの顔もあってか、急にその思い出も濃くなったような気がする。

よくは分からないが、とにかく不思議なものだ……

狭くなった海岸海を背景にしたスコップヤシの実穏やかな海に釣り船砂の感触

ボクらの不発弾事件

不発弾

先日の、東京・不発弾処理の記事。

不発弾のことなら、黙っていられない。

早速、本題に入る……小学校四年の頃のことだ。

その十数年前、ボクたちの育った内灘の砂浜は、

アメリカ軍の砲弾試射場として接収されていた。

特にわがゴンゲン(権現)森の海岸は、着弾地点になっていて、

そこでは座り込む地元の母ちゃんたちのそばで、

轟音、そして地響きとともに砂塵が舞っていたのだ。

この事件は、日本中を揺るがし、当時の貧乏な漁村は一躍有名になった。

しかし、ボクらはそんなことなど、な~んにも知らないまま育ち、

一応子供としての社会的地位?を得るようになると、

ごくごく普通に砂浜で遊ぶようになっていた。

夏休み終わりがけのある日。

ボクと、一つ年上のTと、もうひとつ年上のYは、

砂浜に埋まっていた不発弾を見つける。

信じてもらえないかもしれないが、ボクたちの砂浜には、

このような不発弾がいっぱい?埋まっていて、

ボクらはこれらを「バクダン」と呼んでいた。

今から思えば、当たり前すぎる呼び方だが、

その響きは、子供心にもなかなか痺れるものがあった。

ボクたちが見つけたバクダンは、いつも見るものとは

少し変形?して見えていた。

後部の方が抜け落ち、そこには芯棒のようなものがあった。

その棒が、子供心にも持ち運びの利便性を認識させていたのだった。

夏休みの終わり頃と言うのは、

少年たちにとって、夢や希望が一度に消え失せ、

もうすぐ訪れる二学期への疑念や、極度の脱力感に襲われる時だ。

……誰言うとなく、このバクダンを持って帰ろうということになる。

ボクたちは代わる代わる持つところを変えながら、

ゴンゲン森を抜け、砂丘の畑の中を歩いた。

当然だが、何度も何度も足を止め、バクダンを砂の上に放り投げ、

自分たちもその度にドスンと座り込んでいた。

普通であれば、三十分ほどの行程が、その何倍もの時間を要した。

そして、夕暮れ近くになって、ようやくYの家の後ろの崖に辿り着き、

そこにバクダンを埋めたのだった。

数日後、全く何事も無かったかのように二学期が始まった。

しかし、学校で久しぶりに友人たちの顔を見てしまうと、

あの“偉業”について、黙ってはいられなくなった……。

そのまた数日後、Yの家の前に二台の軍用トラックが止まる。

数人の自衛隊員が、ボクたちが埋めたバクダンを調べている。

そして、バクダンは、そのままトラックに載せられて行ってしまった。

当然、当たり前のように、ボクたちは超大目玉を喰らった。

もし、もし、あれがああなって、こうなっていたらと考えると、

今でも背筋が寒くなるのである。

ついでに、最近知った話だが、昔使われていたバクダン、

いや砲弾にはテスト用に砂が詰められていたものもあったそうだ。

それには、SANDの頭文字「S」と記されていたらしい……

砂浜の枯草-1024x685

ゴンゲン森で、子どもたちに語った

九月のアタマあたりだったろうか、町役場から突然電話があって、「うちなだ夢教室」の講師をやってくれないかと頼まれた。

一応、こちらのことをいろいろと調べてあって、断わる理由もなく引き受けることにした。

「うちなだ夢教室」というのは、内灘町が主催する小学生やその親たち向けのイベントで、内灘の主に自然について勉強しようというテーマで開催されていた。

ボクの場合は、「ゴンゲン森」がテーマになっていて、ボクは自分の本の中に描かれているような内灘の子供たちのことを語りましょうと担当者に告げた。

担当者はそれなりに喜んでくれてもいた。

ところが、どうなったかよく分からないまま、役場から案内が届き、その内容を見た途端、これでは引き受けられないと思ってしまった。

そこに書かれていたのは、ゴンゲン森の木々や動物などについて学ぼうというもので、ボクが伝えていた内容とは異なっていたのだ。

なにしろ、ボクはゴンゲン森に限らず動植物などに詳しいわけではない。

話してみようと思ったのは、自分たちの小学生の頃、ゴンゲン森や砂丘で何をしていたか、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』に描かれたことそのものだったのだ。

ボクは担当者にメールを入れ、与えられたテーマでは自分は不適任であることを伝えておいた。

休日を隔てて電話が入っていた。

いろいろあったが、結局引き受けることになり、当日を迎える。

 

三十人ぐらいの子供たちと十人弱のお父さんとお母さんたち。

それに初めて会った元気印の担当者Wさんと、以前から存じ上げていた町の文化活動をリードするTさん。

そして、ボクの未知の部分、つまり動植物について教えてくださるI氏や、その他スタッフの人たち。

かつては砂丘の中の畑か、ニセアカシヤの林だったところに建つ白帆台公民館に集合した。

紹介されたあと、それではとゴンゲン森の入り口に向かって歩く。

森への入り口は小さな坂道になっていたとか、子供にとっては森に入り込むことは非常に勇気が要ったという話をし、すぐに頭上のクルミの木を指さす。

植物のことはIさんが詳しく話してくれるので、こちらも聞き手にまわる。

森に下ってしばらく行くと、左手の崖になっている方を見上げながら、上部はかつて大きな砂の台地だったというようなことを語る。

すると、自分自身もその記憶の中に入り込んでいく。

もう体感するのはむずかしいが、ボクたちはその砂の大きな台地からゴンゲン森を見下ろしていたのだ。

そして、その台地で野球をし、その台地から海の方に下って、米軍試射場があった時の残骸である着弾観測所で遊び、そこからまた砂丘に植えられていたグミの実を取りに下ったりもした。

ボクたちが野球をしていた砂の台地の先で、試射に反対する母親たちが座り込みをしていたといったことなど、知る由もなかった。

ボクは、砂のことを話し始めた。

砂の感触が、子供の頃の強烈な記憶なのだ。

裸足になって、砂山から駆け下りる爽快さを、ちょっと力を入れて語ったが、実際に子供たちには伝わっただろうか?

 

道がまた下りになっていくと、海が見えてくる。

しかし、ボクの子供の頃、つまりゴンゲン森がまだ生きていた頃は、森から海は見えなかった。

海はゴンゲン森を抜け、その出口を塞ぐようにしていた砂山を登らないと見えなかった。

小学生の頃、たった独りでこの森を駆け抜けた経験の中では、この最後の坂道が最も興奮する場所だったと思う。

恐怖心から解放されるという思いで、一気に下った。

一度だけ飲んだ記憶のある森の中の湧水は、今何でもない平凡な場所にある。

そこに皆が集まり、ボクは貝殻に水をため、それを飲んだ時の話をした。

ゴンゲン森に廃屋があり、そこに何か恐ろしい者がいる?

そんな話がゴンゲン森をより恐ろしい場所にしていたことなども話した。

ボクたちは、恐(畏)ろしいものは何でも「オーカミ」と呼んでいた。

この湧水は、ゴンゲン森のオーカミの水で、水を飲むところを見られると、オーカミに殺される。

そんな想像がはたらいた。

 

とりとめもなく時間が過ぎ、公民館に戻った後、もう一度みんなの前で話すことになっていた。

話は、大人向けの方に転化していき、ボクは自分の本を読んで感想を綴ってくれた人たちの話などをした。

子供たちに話すという機会は今までほとんどなく、少し戸惑ったが、やはり大人が子供たちに伝えていくことの大切さを知らされた。

内灘も含め、多くの土地では子供たちに日常の歴史、あるいは歴史の中の日常というものを伝えていない。

あらためて、そういうことを思った時間だった……

方言だから伝えられる

拙著「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」の読者になっていただいた多くの皆さんから、あの話の中の子供たちが使う方言が、とにかく楽しくて面白かったという感想が寄せられていた。

方言については、全く反対のことを言う人もいて、方言がきつくて、読むのに時間がかったという感想もあった。

特にやや若い年齢層の女性からは、方言は読んでいて恥ずかしくなるし、なかなか馴染めなかったとも言われた。

そう言えば、あの話に登場するのは少年たちばかりで、あとはちょっと若い東京育ちの母親とおばあちゃんぐらいだ。

若いおねえさんや少女といった登場人物は全く出てこない。

だから、少年たちのあっけらかんとした方言は、きついと感じられたのかも知れなかった。

しかし、方言は決して単なる面白さを演出するために用いているのでない。

ある方からいただいたお便りには、こう書かれている。

『 中居さんの本を読ませていただいて、まず新鮮だったのは、方言でした。バンバン出てくる同じ地域の方言。でも、心地よい響きの使い方で、「あれ、全国区になれる」と感動したからです。 』

この後に梅田佳代さんの方言についても言及されていて、方言の使われ方(日常的に当然使っているのだが)が、活字になった時の別な意味を感じ取ってくださっている。

懐かしい子供時代を思い出したという話は、無数にいただいているが、その感想の裏側にあるのは、少年たちの純粋さと、無邪気でいられるところなのだろうと勝手に解釈している。

そのことは、多くの人たちに共通していたのだろう。

そして、そのことをさらに裏付けているのが、ボクとしてはあの伸び伸びとした方言の響きだったのだろうとも思う。

東京の山手線の中で読み終えたという中年サラリーマンの方も、実は伊豆の田舎町の出身だった。

読んでいく上で方言はきつかっただろうが、それが醸し出す何か得体の知れない懐かしさに納得してくれたみたいだった。

読者のうち、東京で働く方々から多く感想をいただいたのは、そういう背景があったからだろうと思う。

 

ところで、最近の若者たちは都会へ行っても、意図的に自分の地方の方言を使うらしい。

うちの長女も、京都の大学に通っている時は、親しい友人であればあるほど会話に金沢弁を使っていたみたいだ。

今でも電話している時は、まったく京都弁を使っていない。相手は京都・大阪が多いにも関わらずだ。

自分たちの麗しき青年時代は、東京にいて、「だってさあ~」だったが、今うちの娘は、電話でも「そうねんよ~」と平気で言っている。

この違いはいったい何なのだろうか?

 

ボクにとって方言が面白いのは、やはり北関東だった。

北関東はイントネーションが面白い。これは当然蔑視などしているのではなく、温かみを感じるということが基本にある。

大学時代、体育会系の寮に住んでいたが、一年の時は静岡、群馬、青森、北海道の先輩と同部屋であった。

「でさァ~」はもちろん使うのだが、それぞれイントネーションが微妙に異なるので、それなりに楽しい。

こっちは、石川の中途半端な方言では対抗できず、先輩諸氏の四県ブレンド方言にポカンと口を開けているだけになるが、いつの間にか、北関東と東北とが中心になった混成方言に耳も慣れていたのだ。

学校では大阪出身の親友がいたが、彼は大阪弁をほとんど使わなかった。

大阪でのそれまでの自分を変えたいと考えていたらしく、東京言葉を使っていた。

ただ、そういう彼であったが、どうしても大阪弁でしか語れないことがあった。

それはスポーツ新聞を見て、阪神タイガースが負けたことを知った時だ。

「また負けよった。何しとんねん」 今彼は、大阪に住んでいる。

 

最近また、拙著を読んでくれたと言う人から便りが来た。

方言のことは書いてなかったが、読んだ後に清々しい気分になれたと書いてくれていた。

やはり、方言がよかった…ということにしておこう……

 

祖父のこと

  何だか物騒な見出しの新聞記事。実はこの記事の中にボクの祖父の名前が出ている。逮捕者の一人として…。

昭和28年(1953)の事件だったと思う。

この記事を見つけたのは昨年の秋。内灘にある歴史民俗資料館「風と砂の館」で開催されていた企画展・『写真で見る内灘闘争』の中で、だ。一緒に行っていた相棒が、「ナカイトクタロ―って名前出てますけど、知ってる人ですか?」と、何気に聞いてきた。

そこには、内灘の漁民たちが逮捕されたという記事があり、その逮捕された八人の中に、祖父の名前があったのだ。

「オレの祖父さんだよ」なぜか誇らしげに、ボクは答えた。

身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても尋常ではない。しかし、ボクはこの事件を知っていた。かつて自分たちの海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎた。だから、ボクはいくらか微笑ましいという感覚ももちながら、その記事の内容を追っていた。

記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたらしい。その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

ボクの祖父は、中居徳太郎という。明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。

生まれた時代はようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した一年後だ。大日本帝国憲法が発布される三年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃なのだ。もちろん、祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…?などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由に伸び伸びと力を発揮していった背景が見えないでもない。

話が中途半端に展開しているが、祖父はなぜ逮捕されたかだ。それには、厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。

………昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。そこで目をつけたのが、なんと当時貧しい漁村だった内灘なのだ。

政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業を奪われる死活問題でもあった。

しかし、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなっていく。しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい内灘にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、ある人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、ボクは五木寛之氏初期の小説『内灘夫人』などで表現された青春小説の中の内灘の姿などに目を向けてきた。しかし、最近になって、この出来事にあるような住民たちの当時の日常などに関心が高まっている。

拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』のあとがきにも書いたが、自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…などについて、深く思いを馳せるようになっている。

もうこの世にはいないが、当時若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと言った。幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返った。日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていたのだ。

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。たぶんすでに衰退していた遠征漁業からは手を引き、河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたと思う。

戦前から祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた生家の座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた、中居徳太郎あての感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色になっていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだったと記憶している。その堂々とした筆跡や大きな額は、見ているだけでも気持ちを高ぶらせてくれた。

誰からも、祖父は凄い男だったという話も聞かされていた。祖父たちは漁業で財をなしていた。親分肌であったろうボクの祖父もまた、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったことだろう。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりすることも忘れなかった。そのような話は『内灘町史』にも名前入りで出てくる。

一度、金沢から家まで乗ったタクシーの年配の運転手さんがこんなことを言っていた。「私の父親が、昔、黒津船の人の船に乗っていたらしいですがね。あの辺の男たちはとにかく、キッツイ(強い)者ばかりやったと言ってましたわ」と・・・

先に書いたボクの生まれた家は、祖父が大工を呼び、現金を目の前に積んで「これで頼む」と建てさせたと聞いた。二階の“あま”という屋根裏空間には、網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。かつて家の座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたのかも知れない。

ボクが生まれたとき、祖父は62歳か63歳だった。まだまだ元気だったが、かつてのような逞しさは影を潜め、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。ボクは祖父のことを“ジジ”と呼んでいた。最近、同じような呼び方が流行っているみたいだが、少しニュアンスが違う。

最近のは“ジィジィ”だ。見ての通り前にも後ろにも小さな“イ”が入っている。口にしてみるとすぐに分かるが、最近の呼び方には、“甘さ”がにじみ出ている。ちょっと語尾を延ばすことで“ねえねえ”みたいな甘ったるさが見えてくる。最近のおじいさんたちは、おしゃれでカッコよくて、孫のためなら何でも言うことを聞くらしいので、それでいいのかも知れない。

しかし、ボクの祖父さんは語尾を延ばしてはいけなかった。“ジジ”と、シンコペーションを効かすくらいでしか、あの武骨でクソ真面目で飾り気のない老人を呼ぶ方法はなかった。ちなみに、祖母は“バァバ”と呼んだ。小さな“ア”が一個だけ付くのが、ジジとは違う愛着の表れだったのかも知れない。

忙しかった母の代わりに、ボクは祖父に子守をしてもらって育った。大きな背中に背負われたボクのことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルか何かを買ってもらい、祖父の横に小さくなって座っていたのを、かすかな記憶として覚えている。昔の、五右衛門風呂をコンクリートで固めた、今となってはどう表現していいのかと悩んでしまう我が家の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという、ますます複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

祖父は毎晩コップ一杯の日本酒を飲んだ。そのコップを出すのがボクの役割だった。時々、祖父のその酒をボクは舐めたりもした。

その頃、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。もちろん、河北潟が今のように干拓される前のことで、その頃は内灘の名が示すとおり、前にも後ろにも大きな水域があった。漁ではハネと呼ばれた淡水魚が多く獲れ、家の前まで運ばれた網を広げて、早朝家族で魚を網から外す作業が行われていた。近所の人たちが小さな鍋や籠のようなものを持って集まり、その場で一匹いくらかで買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、15分ほどかけて、いやもっと時間がかかったかも知れないが、とにかく漁港へと向かった。その自転車にはボクも便乗していた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、ボクは必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は凄まじいものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いなかった。しかし、そのお金の中からだろう、姉はボクに必ず何かお菓子を買ってくれた。今から思えば、ボクはとにかくみんなから可愛がられていたのだ…

ところで、ハネという魚は子供の記憶でもはっきりと覚えているほど、激しく美味い魚であった。醤油で煮たやつは、いつも食卓に出ていたが、ハタハタに目覚める前はこのハネに惚れていたように思う。幼い頃の初恋のようなものか…

祖父のことで最も印象深く覚えているのは、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことだ。この話は『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中でも書いている。

当時の内灘の砂丘地では、さつまいもがよく作られていた。他にもいろいろあったように記憶するが、現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れるものだったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ向かう。舟には母と親戚の叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。そして、ボクはその舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く陸にたどり着けと願いつつ、静かにまたしても便乗していた。

舟は行くときは大して揺れなかったが、帰りにはそれなりに揺れた。あんな潟の水面なのだが、夕暮れ時の風には小舟は敏感だった。

ボクがそこで見た光景は、後にかなり物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。小説の中では、主人公のナツオがその場で感じたように書かれているが、ボクは当時その光景を、ただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、後に感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

人生の最も華やかな時代を海の男としてならした祖父が、さつまいもごときを売り歩くためにペコペコと頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手拭いで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。対岸の町と言えば、水田が広がり米の多く獲れるところだった。米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が、ボクには眩しく映っていた。その町の人の中には金ではなく米で支払う人もいたが、その頃の自分たちが、それほどまでに貧しかったのかと、それから後に思い返したりもしていた。

ボクはあの時の祖父の姿に何か特別な思いを持っている。それほど深い意味はないと言ってしまえばそれまでだし、たしかに自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れない。しかし、ボクはそんな祖父にどこか虚しいものを感じて仕方がなかった。

祖父はボクが18歳の時に死んだ。全く病気などしたことはなく、老衰と言う祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。ボクが生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であったボクは、帰宅した時に祖父の死を知った。普通の家では信じられないと思われるかも知れないが、ボクには祖父の死は知らされなかった。だから、バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話にはボク自身も違和感がないから不思議だ。

祖父の屍が焼かれようとしている時、母が何か一言口にして泣き顔になった。母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての祖父の存在が、母をずっと勇気づけてきたことは間違いなかった。

ボクは、祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。ボクの前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、今にも嗚咽が聞こえてきそうだった。涙は出なかったが、ボクはその時はじめて、自分の祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、中居徳太郎。大らかないい名前だ……

『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』を漫画で描いてくれた

「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」を漫画にしてみると・・・といってシミュレーションしてくれたKENSHIN-Zさんから、サンプルが届いた。イメージの違いは少々あるものの、なかなかの力作で、いい感じだなあ。

原作の中の「シンキチおっさん」は、もっと歳食っていて、猫背で、ずんぐりとしている。しかも足を引きずって歩く人だった。でも、新しい解釈でやってくれたKENSHIN-Zさんは偉い。ホンモノだなと思う。最近、なぜか学生などに読まれ始めているが、物語の感触は若者たちにも何か伝わるものがあるのだろうか…

●シンキチおっさん

●ストーリー その1

●ストーリー その2

再び、ゴンゲン森・・・へのメッセージ ~東京より

 

 

『 中居氏の小説は私の子供の頃がオーバーラップし、浦安の失われた自然が甦り、目に浮かぶ、登場人物が多いにもかかわらず、一人一人がよく描けていると思う。シンキチおじさんのような人は私の子供の頃にも居て、なつかしい…… 作中「楽しいことも楽しくないことも、何もかもが仲間という関係の中から生まれてくる」 という一節は印象に残った。』

  これは、東京都北区にお住まいで、新宿ゴールデン街でジャズ喫茶を営むOさんから、金沢のある人に送られてきたハガキのメッセージだ。Oさんは写真家でもある。ボクはまったく面識がないのだが、Oさんの鋭い洞察に涙が出るほど嬉しくなった。

 「楽しいことも楽しくもないことも……」の一節は、『ゴンゲン森と…』との中で、ボクが特別な思いで綴った文章だ。これを見抜いてくれたのは、某出版社のプロデューサーの人とOさんだけ。凄いなあ。

 さらにOさんが浦安育ちだという点。前にも書いたが、椎名誠氏につながる少年時代の思い出が重なっているように感じる。自然がベースにあった少年時代をもつことで、『ゴンゲン森…』の感性が共有されるのだろうと思う…

ゴンゲン森・・・へのメッセージ「感想編」~「蛇足編・・・あるいは大人編」

 

 

●感想編

『 僕が子どものときの庭には海はありませんでしたが、物語に出てくる子どもたちが感じていることを僕も感じていただろうと思います。僕は一度団地に住んでいたことがあって、その周り全てが遊び場でした。友達と自転車置き場の屋根の上に登ってボールを投げ合ったり、団地の周りを競争したり。そこには好きな女の子がいて、むかつく奴がいて、兄弟の友達はなんだか大人でした。公園に行くと友達がいて、みみずの怪我を治してあげたり、水たまりに自転車を突っ込んで水車にしたりしていました。そば屋のジュースを盗もうとしてお店の人にしかられたこともあれば、買い食いが見つかって母に怒られたこともあります。そういう挙げようと思えばいくらでも挙げられる、土と汗と涙の感じがする思い出の大切さをやんわりと気づかされました。』

●蛇足編・・・あるいは大人編

『 過去に大人たちが犯してしまった過ち、それはオーカミの水を飲ませた老人を非難し居場所を奪ったことにあると思います。そうして、ユーイチがミツオのことを非難したとき、同じ過ちが繰り返されようとしたのだとも思います。でも、彼らは同じ過ちを繰り返しませんでした。じゃあ、それで全てがまるく収まるかというとそうはいきません。ミツオではなく、逆にユーイチの居場所が無くなってしまったからです。

 僕は彼らはどうするだろうかと思いながら読み進めていきました。ユーイチを円のなかに戻してあげられるだろうかと不安になりながら読みました。もし、ユーイチについて触れられないまま物語が終わってしまったら、このことについては誰にも言うまいとも思いました。

 でも、そんなことは勝手な気苦労でした。子どもたちは色々とわがままなところや、ずるいところを持っていたりしますが、どんな色に染まろうとも”すきとおった”純粋さを持ち続けていました。そういうところを素直に書ける内灘という舞台と中居ヒサシさんの想いに少し憧れてしまいました。』

 今春、金大大学院に入学し、先日の古本市で『ゴンゲン森…』を買ってくれたS君の読後感想が、彼のブログに記されている。彼の許可をいただき掲載させていただいた。

 札幌出身で 京都から金沢へ移ってきたというS君だが、拙著を計3冊購入してくれ、札幌の図書館に勤務されているお母さんにも送ってくれたという。お母さんが勤務する図書館にも置かれるかも知れないと…

 彼の素朴な感想文を読ましていただき、ボク自身が救われた。それは、少年たちの世界に共通する何かを知らされたからだ。

 時代や環境などとは関係なく、少年たちは、いつでも純粋に生きている。ボクと彼との年齢差は、たぶん33歳ほど。でも、そんな彼が語ってくれた言葉に、とてつもない勇気を得た気がする・・・・・・

ゴンゲン森と・・・へのメッセージ

 

娘に会いに久しぶりに金沢へ行った電車の中で

本を読み終わりました。 

年とったせいか、とお~い昔の自分の子供の頃の情景を思い出し、

最後の別れのところ、涙が出てしまいました。

一回読み終わったも、また読んでみたくなりました。

 良い思い出の本、書いてもらってありがとうございます。

カバンに入れて持ち歩いていたので

表紙がボロボロになっていました。 

うれしいような、さみしいような。

 

嬉しいメールありがとうございました。

尊敬する伊集院静氏の『機関車先生』にも、先生と生徒たちの別れがあります。

ボクは子供たちの別れには、必ず再会があるという文庫解説者の言葉に勇気づけられ、ボクの話の中にも別れを堂々と描こうと考えました。

子供たちに限らず、再会を信じられる別れこそが本当の別れだと、ボクは考えています。

だから力一杯手を振れるし、涙を流せるのだとも考えています。

第2作目はそういう話にしてみたいですね。

夜10時の、東京からのメッセージ…

先ほど、帰りの山手線にて作品を完読しました。

最近、誉めることを忘れてしまった私ですが、この作品は楽しめました。

少年時代に半ズボンにランニングシャツ着て、

三角ベースボールをやったのが、なんとも懐かしく思い出されました。

帰宅と同時に届いた、東京の読者からのメール。うれしい。みんな分かってるんだな…

 

中居ヒサシのワケについて

この写真は、拙著に自分の名前を書いているところだ。

つまり著者としてサインなんぞをしているという図々しい光景?なのである。

ここに書かれているのは、もちろん「中居ヒサシ」だ。

「中居寿」を、「中居ヒサシ」にした理由をときどき聞かれることがある。

なぜ、中居寿ではダメなのかとも聞かれる。なぜ、中居ヒサシがいいのかとは聞かれない。

どうも「中居寿」ではシャープさに欠けるようなイメージがあり、もともと少し物足りなく感じていた。

漢字三文字でいえば、椎名誠、村上龍、高倉健、北野武、加藤茶など、なんだか目で捉えただけで何かを感じさせる名前というのがあるが、ボクの場合はそんなイメージではない。

どこか締まりがない。「中居」も平坦で淡白だし、「寿」はおめでたいだけだ。

そして、繋げてみると、平坦で淡白でおめでたいということになり、そのことの意味することやイメージは、まったく自分の正体とかけ離れているではないかと感じていた。

それで、ボクは図々しくも本の著者という一応の立場として、「中居ヒサシ」を選んだわけだ。

拙著の読者からのメールには、“ 作家としての中居さんは名前がカタカナ(ヒサシ)だったんですね ”と、特別なメッセージがあったりした。

そういうのを読むと、“ そうか、そうだったんだよなあ~。ここはやっぱァ、カタカナのヒサシなんだよなあ~”と、妙に激しく納得せざるを得なかった。

ところで、ボクにはもうひとつ「N居・コトブキ」という名前もあったりして、実は中居ヒサシの登場以来、本名も含めて三つの名前ができたことになる。

N居・コトブキという名前は、ジャズ、活字、その他日々の雑話系で深い付き合いを続けているあるオトコが付けた。プライベート冊子の中で、そのオトコがボクのことをそう書いたのだ。

このネーミングはなかなか好評?で、実はボクも高校時代、持ち物にそのような書き方をしていたことがあった。

だから、特に違和感もなかったのだが、「・」が入って、そのあとに「コトブキ」が来るとは予想していなかった。

このネーミングに喜んだのは、当時(今から18年ほど前)のボクのスタッフたちだ。

今はもういいお母さんたちになっているが、その頃は感性豊かなクリエイターたちで、このネーミングの絶妙な組み合わせに、ひたすらニタニタしていたのを覚えている。

ボクもN居・コトブキを得てからは、文章の書き方を含めた、日々の過ごし方にバリエーションが増えた感じがして、知っている人は知っている、あのN居節を誕生させたのだ……と言っても何のことかよくはわからないだろうが。

その後、ちょっとだけまじめな?雑誌「ヒトビト」を出すようになってからは、雑誌としてのクオリティにも妙な自覚が生まれて、N居・コトブキ的表現だけでは済まされぬぞという、柄にもない理性を含んだ思いに追い込まれた。

N居・コトブキでないとすれば、中居寿しかない。そして、中居寿は、N居・コトブキをかすかに滲ませたりしながらも、その中間的ポジションを目指したのである。

今、中居ヒサシになったわけだが、中居ヒサシのポジションは、中居寿より上なのか、下なのか。右なのか、左なのか。とにかくまだよく分かっていない。

なにしろ、中居ヒサシは作家?なのであるから、一般的には最も上にいるのが普通だろう。

その点、中居寿はただの会社の人間だ。どう見ても、中居ヒサシの方が上になる。

こんなことを考えていると、人の名前というのは不思議なものだなと思う。

せっかくの「中居ヒサシ」なのである。

ますますこの目を鋭くし、脳ミソにはさらに柔軟剤を混入させ、指先の動きもシャープにして、雑文づくりに励もうと思う……

うつのみやさんの広告に掲載

北國新聞26日夕刊。テレビ欄下の「うつのみや」さんの新刊案内に、堂々と、『ゴンゲン森…』が紹介されていた。ちょっと恥ずかしいながらも、ちょっと誇らし気でもあり、ますます気合を入れていかなきゃと、最近ベルトが使えなくなったくらいに痩せてきた腹に力を入れたりしている。

なにしろ、あの伊集院静氏の横に載っているのだ。 うつのみやさま、ありがとうございました。

プロの目からの映像化の提案

 通夜に出ていた最中にメールが来た。『ゴンゲン森・・・」が映画になったら、ああしよう、こうしようといった内容だった。ボクは芋売りの役で使ってくれるよう監督に頼んでやるよと返信した。それから一時間後、家に帰ってパソコンを立ち上げると、ブログの承認待ちのコメントが入っていた。

 その凄い内容が以下の文章だ。「ソバ屋のおやじさん的映像化・・・」に入ってきたコメントだが、表に出すことにする。

 フランスの映画監督ジャック・タチを敬愛する、某映画プロデューサーです。「ゴンゲン森‥‥」はそば屋のおじさんがいうように、素敵な映画になる可能性を秘めた話だと思います。内灘、河北潟の自然、昭和30年代の時代設定、「スタンドバイミー」を彷彿とさせるような少年群像、そしてナットキングコールの音楽‥‥、映像化の要素としてはバッチリです。原作本の拡がりと共に映像化したいという依頼は増えてくるのではと思います。
 「3丁目の夕日」以来、定着化してきているVFXの技術でもって、よしろうさんの言うように、干拓前の河北潟の風景や、当時の内灘砂丘の様子を見事に再現することも可能な時代になってきました。映像化困難といわれた「坂の上の雲」が快調に滑り出しているのも、スターウォーズのエピソード1、2、3が後からできたのも皆、そのCGの技術を待ったからでした。そういった意味でもこの「ゴンゲン森‥」は今だからこそ出来る映画なのだと思います。
 
 ただしそれをするのに莫大な金がかかるのは事実です。ちょっと本腰を入れて見積もってみようと思っています。

ソバ屋のおやじさん的映像化…

会社近くの、よく行く蕎麦屋のおやじさんから、「ゴンゲン森…読みました」といきなり言われた。病院の検査帰り、朝から何も食っていない空腹状態で店に入ったのだが、カウンターに座るなりの左ストレートで膝がよろめいた。

「ワタシゃ感じたんだけど、あれは映画かドラマにしたらいいなあッ。うん、あれは、絶対いい映像になると思うよッ」

驚いた。  『ゴンゲン森と…』のイメージが、このおやじさんにも共通するものを持っていたなんて。当然、嬉しくなった。しかし、おやじさんは続けた。

「あの出だしのところは、まるで『雪国』(古いが、川端康成大先生の代表作)だねえ。意識してそうしたの?」

えっ、とんでもない。『雪国』など全くもってカンペキに頭にない。指先や踵に至ってもないし、鼻毛の先にも付着していない。それに、もしあったとしても、そんな作品の真似をするなど考えられない。そう答えたが、おやじさんは、よく似ていると思うんだけどねえっと、首を捻ってばかりいた。

『雪国』の出だしはどうでもいいのだが、映像にしたらいいねえという話は、なんだか知らないうちに一部で盛り上がってきた。胸が苦しくなってくるなあ~

「表紙がいいねえ・・・・」

「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」は、あの明るい、いかにも美しい海岸線や少年たちのシンプルな心が伝わってくるような表紙のデザインが持ち味となっている…… と、何人もの人から言われる。最初に手に取った段階では、内容を読んでいないから、第一印象としての表紙は、かなりのよい感触を得ているということだ。あの太陽の表現などは、アーだコーだとセッションを繰り返し、ゴンゲン森をビジュアル的にどう表現するかという点でも、スッたモンだを繰り返した。

そのイラスト、デザインを担当してくれたのは、奈良野マキさんだ。とてつもなく若いわけではないが、当然おばさんなんてとんでもない年齢の女性クリエイターだ。 一応今は独身。というとなんか出戻りみたいに聞こえるが、そうでないのは言うまでもない。

彼女はN居・コトブキ的モロモロに異常なほど関心を示し、N居・コトブキ的なところでしかボクを評価してくれない。なかなか“中年社会的責任もあり的オトコ”からすると、うるさい、いや手強い存在なのでもある。かつてやっていた私的エネルギー追求誌「ヒトビト」の中のボクが、彼女の基本ラインにあるのは間違いなく、ボクとしては嬉しいやら、くすぐったいやら、足がつるやら?で、ただひたすら、“ありがとう”と言うだけなのだ。ボクとしては、とにかくよい仲間に恵まれてる。

ある読者からのメッセージ

この物語は今から45年前の真夏、灼熱の日差しに炙られる内灘砂丘を駆け回る少年達が主人公である。
バックグラウンドをちょいと説明させていただくと、、、
内灘砂丘は、金沢市の北辺に隣接する『河北潟』という湖の現存する部分と、現在は干拓された部分の西側に60m以上の高さでそびえたち、日本海と少年達が住む町々とを隔てている。
全長約10km×幅1km。大きさでは日本で3番目に大きい砂丘である。
昭和20年代後半には米軍の試射場が設置され、それに反対する地元住民を応援する学生運動家が全国から集結し一躍全国的に注目されるようになったことがある。
五木寛之氏の『内灘夫人』はこの事件がモチーフとなっている。

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.66038694&lon=136.65866889&ac=17365&az=&v=2&sc=7http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.66038694&lon=136.65866889&ac=17365&az=&v=2&sc=7
↑この地図を拡大していただくと砂丘の中に『権現森公園』という地名が現れるが、これがこの本のタイトルのゴンゲン森のことであり、
この森にまつわるオカルテックな寓話と、昔おきた不幸な事件の残像が小さな町に蘇り、少年達のみならず大人たちの心の中にさざ波を巻き起こしていく、、、

面白い! お世辞抜きでこれは面白い♪ヾ(^▽^)ノ
少年達を含め、登場人物たちが活きている。生き生きと描かれているのでその場面場面が鮮やかなイメージとして目の前に浮かび上がる。
読後感は、焦げ付くような真夏の日差しと砂埃、そして微かに生臭い少年達の汗、、、
お薦めです。