方言だから伝えられる
拙著「ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり」の読者になっていただいた多くの皆さんから、あの話の中の子供たちが使う方言が、とにかく楽しくて面白かったという感想が寄せられていた。
方言については、全く反対のことを言う人もいて、方言がきつくて、読むのに時間がかったという感想もあった。
特にやや若い年齢層の女性からは、方言は読んでいて恥ずかしくなるし、なかなか馴染めなかったとも言われた。
そう言えば、あの話に登場するのは少年たちばかりで、あとはちょっと若い東京育ちの母親とおばあちゃんぐらいだ。
若いおねえさんや少女といった登場人物は全く出てこない。
だから、少年たちのあっけらかんとした方言は、きついと感じられたのかも知れなかった。
しかし、方言は決して単なる面白さを演出するために用いているのでない。
ある方からいただいたお便りには、こう書かれている。
『 中居さんの本を読ませていただいて、まず新鮮だったのは、方言でした。バンバン出てくる同じ地域の方言。でも、心地よい響きの使い方で、「あれ、全国区になれる」と感動したからです。 』
この後に梅田佳代さんの方言についても言及されていて、方言の使われ方(日常的に当然使っているのだが)が、活字になった時の別な意味を感じ取ってくださっている。
懐かしい子供時代を思い出したという話は、無数にいただいているが、その感想の裏側にあるのは、少年たちの純粋さと、無邪気でいられるところなのだろうと勝手に解釈している。
そのことは、多くの人たちに共通していたのだろう。
そして、そのことをさらに裏付けているのが、ボクとしてはあの伸び伸びとした方言の響きだったのだろうとも思う。
東京の山手線の中で読み終えたという中年サラリーマンの方も、実は伊豆の田舎町の出身だった。
読んでいく上で方言はきつかっただろうが、それが醸し出す何か得体の知れない懐かしさに納得してくれたみたいだった。
読者のうち、東京で働く方々から多く感想をいただいたのは、そういう背景があったからだろうと思う。
ところで、最近の若者たちは都会へ行っても、意図的に自分の地方の方言を使うらしい。
うちの長女も、京都の大学に通っている時は、親しい友人であればあるほど会話に金沢弁を使っていたみたいだ。
今でも電話している時は、まったく京都弁を使っていない。相手は京都・大阪が多いにも関わらずだ。
自分たちの麗しき青年時代は、東京にいて、「だってさあ~」だったが、今うちの娘は、電話でも「そうねんよ~」と平気で言っている。
この違いはいったい何なのだろうか?
ボクにとって方言が面白いのは、やはり北関東だった。
北関東はイントネーションが面白い。これは当然蔑視などしているのではなく、温かみを感じるということが基本にある。
大学時代、体育会系の寮に住んでいたが、一年の時は静岡、群馬、青森、北海道の先輩と同部屋であった。
「でさァ~」はもちろん使うのだが、それぞれイントネーションが微妙に異なるので、それなりに楽しい。
こっちは、石川の中途半端な方言では対抗できず、先輩諸氏の四県ブレンド方言にポカンと口を開けているだけになるが、いつの間にか、北関東と東北とが中心になった混成方言に耳も慣れていたのだ。
学校では大阪出身の親友がいたが、彼は大阪弁をほとんど使わなかった。
大阪でのそれまでの自分を変えたいと考えていたらしく、東京言葉を使っていた。
ただ、そういう彼であったが、どうしても大阪弁でしか語れないことがあった。
それはスポーツ新聞を見て、阪神タイガースが負けたことを知った時だ。
「また負けよった。何しとんねん」 今彼は、大阪に住んでいる。
最近また、拙著を読んでくれたと言う人から便りが来た。
方言のことは書いてなかったが、読んだ後に清々しい気分になれたと書いてくれていた。
やはり、方言がよかった…ということにしておこう……
そのとおりだと思いますね。
方言には暖かいものがあります。
日常的に、普通に使っていますが、
ゆっくりとそんなことを考えました。
どんどん、方言使うっちゃ・・・かな?
その本は、まだ入手可能なんですか?
基本的にメールいただければ、対応させていただきます。