祖父のこと


  何だか物騒な見出しの新聞記事。実はこの記事の中にボクの祖父の名前が出ている。逮捕者の一人として…。

昭和28年(1953)の事件だったと思う。

この記事を見つけたのは昨年の秋。内灘にある歴史民俗資料館「風と砂の館」で開催されていた企画展・『写真で見る内灘闘争』の中で、だ。一緒に行っていた相棒が、「ナカイトクタロ―って名前出てますけど、知ってる人ですか?」と、何気に聞いてきた。

そこには、内灘の漁民たちが逮捕されたという記事があり、その逮捕された八人の中に、祖父の名前があったのだ。

「オレの祖父さんだよ」なぜか誇らしげに、ボクは答えた。

身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても尋常ではない。しかし、ボクはこの事件を知っていた。かつて自分たちの海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎた。だから、ボクはいくらか微笑ましいという感覚ももちながら、その記事の内容を追っていた。

記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたらしい。その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

ボクの祖父は、中居徳太郎という。明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。

生まれた時代はようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した一年後だ。大日本帝国憲法が発布される三年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃なのだ。もちろん、祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…?などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由に伸び伸びと力を発揮していった背景が見えないでもない。

話が中途半端に展開しているが、祖父はなぜ逮捕されたかだ。それには、厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。

………昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。そこで目をつけたのが、なんと当時貧しい漁村だった内灘なのだ。

政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業を奪われる死活問題でもあった。

しかし、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなっていく。しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい内灘にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、ある人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、ボクは五木寛之氏初期の小説『内灘夫人』などで表現された青春小説の中の内灘の姿などに目を向けてきた。しかし、最近になって、この出来事にあるような住民たちの当時の日常などに関心が高まっている。

拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』のあとがきにも書いたが、自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…などについて、深く思いを馳せるようになっている。

もうこの世にはいないが、当時若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと言った。幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返った。日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていたのだ。

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。たぶんすでに衰退していた遠征漁業からは手を引き、河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたと思う。

戦前から祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた生家の座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた、中居徳太郎あての感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色になっていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだったと記憶している。その堂々とした筆跡や大きな額は、見ているだけでも気持ちを高ぶらせてくれた。

誰からも、祖父は凄い男だったという話も聞かされていた。祖父たちは漁業で財をなしていた。親分肌であったろうボクの祖父もまた、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったことだろう。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりすることも忘れなかった。そのような話は『内灘町史』にも名前入りで出てくる。

一度、金沢から家まで乗ったタクシーの年配の運転手さんがこんなことを言っていた。「私の父親が、昔、黒津船の人の船に乗っていたらしいですがね。あの辺の男たちはとにかく、キッツイ(強い)者ばかりやったと言ってましたわ」と・・・

先に書いたボクの生まれた家は、祖父が大工を呼び、現金を目の前に積んで「これで頼む」と建てさせたと聞いた。二階の“あま”という屋根裏空間には、網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。かつて家の座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたのかも知れない。

ボクが生まれたとき、祖父は62歳か63歳だった。まだまだ元気だったが、かつてのような逞しさは影を潜め、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。ボクは祖父のことを“ジジ”と呼んでいた。最近、同じような呼び方が流行っているみたいだが、少しニュアンスが違う。

最近のは“ジィジィ”だ。見ての通り前にも後ろにも小さな“イ”が入っている。口にしてみるとすぐに分かるが、最近の呼び方には、“甘さ”がにじみ出ている。ちょっと語尾を延ばすことで“ねえねえ”みたいな甘ったるさが見えてくる。最近のおじいさんたちは、おしゃれでカッコよくて、孫のためなら何でも言うことを聞くらしいので、それでいいのかも知れない。

しかし、ボクの祖父さんは語尾を延ばしてはいけなかった。“ジジ”と、シンコペーションを効かすくらいでしか、あの武骨でクソ真面目で飾り気のない老人を呼ぶ方法はなかった。ちなみに、祖母は“バァバ”と呼んだ。小さな“ア”が一個だけ付くのが、ジジとは違う愛着の表れだったのかも知れない。

忙しかった母の代わりに、ボクは祖父に子守をしてもらって育った。大きな背中に背負われたボクのことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルか何かを買ってもらい、祖父の横に小さくなって座っていたのを、かすかな記憶として覚えている。昔の、五右衛門風呂をコンクリートで固めた、今となってはどう表現していいのかと悩んでしまう我が家の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという、ますます複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

祖父は毎晩コップ一杯の日本酒を飲んだ。そのコップを出すのがボクの役割だった。時々、祖父のその酒をボクは舐めたりもした。

その頃、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。もちろん、河北潟が今のように干拓される前のことで、その頃は内灘の名が示すとおり、前にも後ろにも大きな水域があった。漁ではハネと呼ばれた淡水魚が多く獲れ、家の前まで運ばれた網を広げて、早朝家族で魚を網から外す作業が行われていた。近所の人たちが小さな鍋や籠のようなものを持って集まり、その場で一匹いくらかで買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、15分ほどかけて、いやもっと時間がかかったかも知れないが、とにかく漁港へと向かった。その自転車にはボクも便乗していた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、ボクは必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は凄まじいものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いなかった。しかし、そのお金の中からだろう、姉はボクに必ず何かお菓子を買ってくれた。今から思えば、ボクはとにかくみんなから可愛がられていたのだ…

ところで、ハネという魚は子供の記憶でもはっきりと覚えているほど、激しく美味い魚であった。醤油で煮たやつは、いつも食卓に出ていたが、ハタハタに目覚める前はこのハネに惚れていたように思う。幼い頃の初恋のようなものか…

祖父のことで最も印象深く覚えているのは、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことだ。この話は『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』の中でも書いている。

当時の内灘の砂丘地では、さつまいもがよく作られていた。他にもいろいろあったように記憶するが、現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れるものだったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ向かう。舟には母と親戚の叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。そして、ボクはその舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く陸にたどり着けと願いつつ、静かにまたしても便乗していた。

舟は行くときは大して揺れなかったが、帰りにはそれなりに揺れた。あんな潟の水面なのだが、夕暮れ時の風には小舟は敏感だった。

ボクがそこで見た光景は、後にかなり物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。小説の中では、主人公のナツオがその場で感じたように書かれているが、ボクは当時その光景を、ただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、後に感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

人生の最も華やかな時代を海の男としてならした祖父が、さつまいもごときを売り歩くためにペコペコと頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手拭いで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。対岸の町と言えば、水田が広がり米の多く獲れるところだった。米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が、ボクには眩しく映っていた。その町の人の中には金ではなく米で支払う人もいたが、その頃の自分たちが、それほどまでに貧しかったのかと、それから後に思い返したりもしていた。

ボクはあの時の祖父の姿に何か特別な思いを持っている。それほど深い意味はないと言ってしまえばそれまでだし、たしかに自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れない。しかし、ボクはそんな祖父にどこか虚しいものを感じて仕方がなかった。

祖父はボクが18歳の時に死んだ。全く病気などしたことはなく、老衰と言う祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。ボクが生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であったボクは、帰宅した時に祖父の死を知った。普通の家では信じられないと思われるかも知れないが、ボクには祖父の死は知らされなかった。だから、バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話にはボク自身も違和感がないから不思議だ。

祖父の屍が焼かれようとしている時、母が何か一言口にして泣き顔になった。母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての祖父の存在が、母をずっと勇気づけてきたことは間違いなかった。

ボクは、祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。ボクの前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、今にも嗚咽が聞こえてきそうだった。涙は出なかったが、ボクはその時はじめて、自分の祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、中居徳太郎。大らかないい名前だ……


“祖父のこと” への4件の返信

  1. ええ話しや。(T-T)
    N居の祖父さんの名前の一字、オレの祖父と親父、そしてオレの戸籍名に入っていて、我が家に代々伝わる一字と同じだ!
    なんとなく、親近感を覚えてしまいましたよ (^ー^;
    まぁ、なんつぅか、若い頃に暴れてマッポの世話になるって話しはよくある話しよ♪(^-^)
    ま、オレなんか、傷害嫌疑で取調室は常連だったからさ、、、
    あ、いや、30歳代半ばまでの話です!

    祥稜拝

  2. 心やさしい祥稜さま。
    悪ぶるのはやめましょう。
    歳のわりには絵文字も多いことだしね。

    河北潟研究、期待してます。
    祖父は、河北潟で小舟を浮かべて魚を獲っていたけど、
    いつだったか、どこかにカメラマンに写真撮られて、
    その写真がなにか載っていたことがった。
    河北潟が残っていたら、
    そんなことが現実のこととして、伝えられたのになあと思う…

  3. あれ?後半2行がダブってんな…消しといて。…( - -)

    祥稜 拝

  4. それと、歳のわりにはって、、、( ̄□||||!!

    オイラはな、顔文字は15年前から使ってんだぉ!
    年季が違うだぞ、おぉ!iiii( `O´)oガゥウゥ

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