湯涌温泉とのかかわり~しみじみ篇


 休日の湯涌温泉で夢二館主催のイベントがあり、その顔出しとともに、最近整備されたばかりの『夢二の歩いた道』を歩いてきた。

 その前に、かつて温泉街の上に存在していた白雲楼ホテルの跡地へと上り、不気味なほどの静けさの中、歩ける範囲をくまなく歩いた。

 白雲楼というのは皇族も迎えたかつての豪華ホテルで、20代の頃に仕事で何度か、そして、どういう経緯だったかは忘れたが風呂だけ入りに行った(ような)覚えがある。暗い階段を下って怖い思いをした(ような)そんな浴場だった。

 仕事ではいつもロビーで担当の方と打合せなんぞをやっていたが、天井や壁面など豪華な装飾が印象的だった。

 閉鎖された後も建物はまだ残っていたが、壊されてからは『江戸村』という古い屋敷などが展示された施設の方がメインとなる。そして、その施設が湯涌の温泉街下に移転し、現在の『江戸村』となったわけだ。その際にも、現在の施設の展示計画に関わらせていただき、古い豪農の屋敷を解体する現場などをナマで見たりしていた。今でもその時のもの凄い迫力は忘れていない。

 金沢城下の足軽屋敷の展示計画をやった時にも、江戸村内にあった屋敷(と言っても足軽だから小さいが)に、足軽が使っていたという槍を見に行ったことがあった。すでに施設は非公開になっており、電気も通っていない。ほぼ真っ暗な屋敷の中で、目的の槍を見つけ懐中電灯で照らしながら寸法などを確認した。今から思えば、夜盗みたいな行動だったような気がしないでもない。もちろん、新しい江戸村では移築された紙漉き農家の中の展示などをやらせてもらっている。

 グッと戻って、生まれて最初に足を踏み入れたのは、十代の終わり頃だったろうか?

 金沢の花火大会の夜、犀川から小立野にある友人の家を経由し、その友人を伴って最終的に湯涌まで歩いて行った。成り行きでそうなったのだが、本来は湯涌の手前にあった別の友人の家をめざしていた。そして、その家に着いてから、皆で湯涌の総湯へ行こうということになったのだ。

 ぼんやりとしか覚えていないが、途中からクルマもいなくなり、真っ暗な道をひたすら歩いていたような気がする。誰かが怪談を語り始め、それなりに周りの雰囲気も重なって恐ろしかったのだ。実はすでにビールを飲んでいた(未成年)のだが、そのころはすっかり酔いも醒めていたのだ。深夜の総湯(昔の)もまた野趣満点で、しかも当然誰一人他の客はなく、のびのびと楽しんだ。ただ、ボクはその時何かの理由で出血した。大したことはなかったのだが、妙にそのことははっきりと覚えている。

 こうして振り返って考えてみると、自分の歴史の中に湯涌は深く?関わっているなあとあらためて思う。

 

 仕事的なことでのピークは、あの『金沢湯涌夢二館』だった。

 西茶屋資料館での島田清次郎から始まった、小林輝冶先生とのつながりは夢二館で固いものになり、その後の一見“不釣り合いな”師弟関係(というのもおこがましいが)へと発展していったのである。

 すぐ上の行の『金沢湯涌夢二館』に付けた“あの”は、まさしく小林先生の表現の真似だ。

 不釣り合いというのは、ボクが決して清次郎ファン(たしかに二十歳にして、あの『地上』と『天才と狂人の間』を読んでいたのだが)でも、ましてや夢二ファンでもなかったのにという意味である。

 そして、ボク自身が同じ文学好きでも、体育会系のブンガク・セーネン(敢えてカタカナに)的なスタンスでいたからでもある。どういうスタンスのことか?と問われても、説明が面倒くさいのでやめる。

 島田清次郎の時もそうだったが、竹久夢二になって小林先生の思考がより強く分かるになってきた。先生はとてもロマンチストであって、“ものがたり”を重要視されていた。

 先生との仕事から得た大きなものは、この“ものがたり”を大切にする姿勢だ。

 声を大にしては言えないが、少なくとも(当方が)三文豪の記念館をそれほど面白くないと感じる要因はそれがないからである。個人の記念館は、総合的に客観的に、当たり障りなく、どなた様にも、ふ~んこんな人が居たんですね…と納得して(知って)帰ってもらえばいいというくらいの背景しか感じられない。もちろん、つまりその、早い話が、N居・コトブキという身の程知らずの偏見的意見であって、お偉いユーシキ者の皆さんからは叱られるだろうが……

 その点、『清次郎の世界』とネーミングした西茶屋資料館一階展示室で展開した、“清次郎名誉挽回”作戦(狂人とされた島田清次郎が深い反省を経て、再び立ち上がろうとしていたというフィナーレに繋げるストーリー)は、小林先生が描いた“ものがたり”だった。

 正直、どう考えてもあの人物は肯定されるべき存在ではない…と、多くの人たち(清次郎を知っていた限られた人たちだが)は思っていたに違いない。実はボクもそうだった(半分、今でも…)。しかし、先生の清次郎を語るやさしいまなざしに、いつの間にか先生の“ものがたり”づくりを手伝っていたようだ。

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 竹久夢二と金沢の話も、妙な違和感から始まったと言っていい。

 スタッフともどもかなり頑張ったが、夢二が笠井彦乃という愛人を連れて湯涌に逗留したという、ただそれだけのことでこうした記念施設を造っていいのだろうかと、少しだけ思った記憶がある。純真無垢な青少年たちにとっては、なんともはや、とんでもないテーマだな…と正直思った。

 実はその時まで、竹久夢二の顔も知らなかった。にわか勉強でさまざまな資料を読み耽ったが、特に好きになれるタイプではないことだけは直感した。さらに愛人を連れての短期間の逗留をテーマにするなど、先生の物好きにも程がある……などと、余計なことを考えたりもした。

 しかし、やはりそこは小林輝冶(敬称略)の世界だった。先生はこの短い間の出来事をいろいろと想像され、よどみなく語った。先生の、「湯涌と夢二の“ものがたり”」は熱かったのである。これはその後も続いたが、食事の時でも、時間を忘れたかのように先生は語り続けた。

 夢二館の仕事にも、さまざまなエピソードがあって、別な雑文の中で書いているかもしれないが、おかげさまで雑知識と夢二観についてたくさん先生から得たと思う。

 そして、ボクにとって、小林先生は湯涌そのものだったような気がする。湯涌が似合っていた。今でも温泉街の道をゆっくり歩いてくる小林先生の姿を思い浮かべることができる。

 夢二館については、今の館長である太田昌子先生とも妙な因縁?があって、先生が金沢美大の教授だった頃からお世話になっていた。先生が、夢二館の館長になるというニュースを聞いた時、驚いた後、なぜかホッとしたのを覚えている。

 先生との会話は非常に興味深く、先生のキャラ(失礼ながら)もあって実に楽しい。初対面の時のエピソードが今も活きているのだ。

 それは、ある仕事で先生を紹介された方から、非常に厳しい先生だから、それなりの覚悟をもって…とアドバイスされたことと、実際にお会いした時の印象のギャップだった。江戸っ子だという先生の歯切れの良さには、逆に親しみを感じた。こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないが、先生のもの言いには何とも言えない“味”があった。

 今でも図々しくお付き合いをさせてもらっている。自分がこういう世界の方々と、意外にもうまくやっていけてる要因は、やはり大好きな“意外性”を楽しませてもらっているからなのだろう。畏敬の存在そのものである太田先生には強くそれを感じた。

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 話はカンペキに、そして三次元的曲線を描きながら変わっていくが、今湯涌と言えば、やはり『湯涌ゲストハウス』の存在であろう。そして、そこを仕切る我らが足立泰夫(敬称略というか、なし)もまた、すでに長きにわたって湯涌の空気を吸ってきたナイスな人物だ。

 かつては上山町というもう少し山奥に住んでいたのだが、訳あって湯涌ゲストハウスの番頭となって単身移住… 今日その人気を支えている。

 ゲストハウスは国内外の若い人たちから若くない人たちにまで幅広く支持を得て、最近の週末などはカンペキに満室状態である。齢も食ってきたので体力が心配だが、デカくなってきた腹をもう少し細めれば、あと十年は持つのでは…?

 足立番頭の人徳と楽しい話題、そして行き届いたおもてなしなどが受けているのは間違いない。

 今回寄った時も、愛知県から来ているという青年僧侶がいて、かなりリラックスした雰囲気で、何度目かのゲストハウスを楽しんでいた。あの空気感がいいのだ。

 ボクの方も、アウトドアとジャズと本と雑談とコーヒーと酒と……、その他共通項が多く重なって長く親交が続いている。

 

 忘れていたが、今回は『夢二の歩いた道』という話を書くつもりだったので、無理やり話を戻すことにする。

 「夢二の歩いた道」に新しいサインが設置され、独りでやや秋めいた感じの山道を歩いてきたのだった。

 距離はまったく物足りないが、なかなかの傾斜があったりして、雨降りの日などはナメてはいけない。そんな道を病弱の笠井彦乃と、なよなよとしたあの夢二が下駄を履いて登ったとは信じられず……、ただ、昔の人は根本的に強かったのであるなあと感心したりした。

 予算がなかったで済まされそうだが、サインも単なる案内だけで物足りない。二人のエピソードなどをサインに語らせたかった。

 半袖のラガーシャツにトレッキング用のパンツとシューズ。それにカメラを抱えて歩いた。

 日差しも強く、それなりに暑かったのだが、道の終点から、整備されていないさらに奥へと進んで行くと、空気もひんやりしてはっきりと秋を感じた。樹間から見る空も秋色だった。

 イノシシの足跡も斜面にクッキリすっきり、しかもかなりの団体行動的に刻まれていた。

 夏のはじめの頃だったか、ゲストハウスで肉がたっぷり入った「シシ鍋」をいただいたことを思い出す。アイツらを食い尽くすのは大変だ……

 というわけで、目を凝らせば小さな自然との出合いもいっぱいある『夢二の歩いた道』だった。そして、湯涌との関係は公私にわたりますます深くなっているのだと、歩きながら考えていた。

 相変わらずまとまらないが、やはり雑記だから、今回はとりあえずこれでお終いにしておこう…………

 


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