語りながら自分を振り返った日
8月最後の休みの日、能登のN町U公民館で語る機会があった。
小さな会の少人数の場であったが、与えられたタイトルが男の趣味を云々というカッコよすぎるもので初めは躊躇した。
だが、地元の古い知り合い・Sさんからの要請でもあり、やらせていただくことにしたのだ。
かなり前のことだが、N町のあるプロジェクトに関わらせていただいた。その後、隣の町村と合併し町は大きくなったのだが、本質は変わっていないと思っている。
そのプロジェクトの時の町の担当者が、現在のU公民館長であるSさんだった。
静かに故郷を見つめる、素朴な姿勢が頼もしかった。
役場を退職後、今はあごひげを実にかっこよく伸ばし、渋みを増している。
U公民館は、図書館や観光情報センター、特産品の販売ショップなどが一体化された施設の一画を占める。
趣味の話など、ひたすらN居さんの好きなようにやってもらえたらいいんですよ………
最初に電話をもらった時、Sさんがそう言った。
そう言われても、戸惑うのは当の本人だ。
公的にはたまにやってきたが、私的一本でいいと言われたことはない。
たしかに公的にやっていても、終わる頃になると、私的な匂いに包まれていくというパターンもあった。
だが、私的でいいというのは、やはり申し訳ないというか……
最大の理由は、自分の“品質”で、そうした堅気の皆さんのお役に立てるのかどうかという疑問である。
かつて、“私的エネルギーを追求する!”などと吠えていた時代、周囲にいたニンゲンたちは、自分のことをそれなりに知ってくれていた。
だからそれなりに好きなようにやってこれたのだが………
最近、特に感じていたことがあった。
この雑文集を読んでいただいている人たちからの突然のメールなどに、やっぱり文章が自分の基本だなと思うようになっていたことだ。
できれば多くの人たちに読んでもらいたいが、それと同じように、自分でも死に近づいた床の中で、じっくりと読み返してみるのもいいなあと思うようになった。
とにかくなんだか急に、そして、おかしなくらいに「自分回帰」(大袈裟だが)みたいな思いが湧いてきていたのだけは事実だった。
そして、今回N町での話のテーマは、こうしたことに対する自分の気付きから始まったと言っていい。
このサイトの中にある「自記・中居ヒサシ論」という長文プロフィールの中から、わずかに話をピックアップし、仕事の上での「黒子」という立ち位置から離れた、自己表現の場としての「書く」という世界にのめり込んでいった経緯などを取っ掛かりにした(またややこしいことを書いている…)。
本題に入る前、「最近、自分という存在の、その一部を自覚させてくれる出来事がありました…」と、ややまじめに切り出す。
それは自分がかつて書いていた、稲見一良という作家に関する話に触れられた方からお便りをいただいたことだった。
素晴らしい経歴をもつその方からの言葉が、何か刺激のようなものをもたらしたように感じた。
稲見一良という作家に共鳴した自分の感性をストレートに理解してくれる人がいたということなのだが、その作家自身の、そして作品自体の魅力について、この雑文集の中以外で、あまり誰かに語ろうとしていたわけではなかった。
無理に「大人のココロ」を持とうとしていた少年が、そのまま中途半端な大人へと成長し、そして、さらにその中途半端さに磨きのかかった大人へとハマり込んでいく中で、初めて自分の中の「少年のココロ」に気が付く……
これは今の自分のことである。そして、そんな人生の機微(の一部)みたいなものを、稲見一良の作品は教えてくれていた。
そして、話は進んだ。
稲見一良だけでなく、辻まことや椎名誠、そして、星野道夫など…… 歴史や音楽などの世界と違ったカタチで、感性をぶるぶると震わせてくれた人たちのことを話していくうちに、どんどん自分自身も見えてくる。
その他のさまざまな物事に対して費やしてきた時間の話などを絡めていくと、自分自身を説明していくのは却ってむずかしくなるばかりだが、今自分の中に生きている人たちの話から、逆に自分が理解してもらえるということが掴めてくるのである。
そんな話をきっかけにして、黒子としてやってきた様々な仕事のことなどにも話が広がった。
自分では絶対に同一視したくなかったのだが、自分の中の私的エネルギーが、多分に仕事の取り組み方にも影響していたのは間違いなく、聞き手の皆さんも十分にそのことを感じ取ってくれたみたいだった。
いろんなことに興味を持ってきたが、行動という意味では何もかもが中途半端だったことは否定できない。
満足できたことは、まったくなかったように思う。
第三者に自分のことを語りながら、そのことを強く認識している自分自身がおかしくさえもあった。
そして、少年時代のことをただ思い返すのはノスタルジーだが、青年時代に考えていたことを振り返るのはまだいいのでは……と思えるようになっていると語った。
なぜなら、青年時代には少しだけだが、現実を踏まえた将来のことを考えていたからだ。
帰り道、美しい海の風景を見ながら、久しぶりにカラダの中がきれいになっていくのを感じていた。
もう残された時間は少ないし、エネルギーも乏しくなっていくばかりだが、昔の合言葉だった「ポレポレ」(スワヒリ語~のんびり、ゆっくり)という言葉がアタマをよぎっていく。
あの時代の自分が懐かしい………