上高地に初めて泊まる


 40年ほど前から何度も足を踏み入れてきた上高地で、この夏初めて一泊した。

 家人と昨秋嫁いだ長女という妙な組み合わせだったが、その一ヶ月ほど前、突然決まったのだ。

 自分にとっての上高地初期時代、つまりマイカーで入ることができた頃はいつも日帰りだった。

 そして、その後山に入るようになる頃には、日帰りではなくなり、朝早く足早に通り過ぎていく場所であったり、また疲れ切って帰りのバス乗り場へと歩き過ぎていくだけの場所であったりした。

 ところで、超が付くほどの人気観光地となった上高地だが、何かの拍子にそこで泊まるということが知られると、すぐにあのホテルか?と聞かれる。お世辞めいた質問だと知りつつ、とんでもないと否定する。

 もちろん、上高地で一泊と言っても、河童橋の下や小梨平でツェルトにくるまって寝るわけではないのであって、あのホテルではないホテルに泊まった。

 一応、あのホテルも確認の対象になっていたのだが、夏山シーズン最盛期の土日、しかも一か月前に部屋が取れるわけがなかった…と、言い訳にしている……

 しかし、たまたま空き室と遭遇したホテルもよかった。さすがに上高地である。これを書くとすぐに分かってしまうだろうが、上高地の代名詞である某池のほとりに建つホテルだった。

 午前のうちに上高地入りした一日目は、河童橋から明神を経て徳沢まで歩き、帰り道は明神から右岸の道に変え、そのまままた戻ってきた。

 上高地は一応1500メートルほどの標高なのだから、少しは涼しいはずと思っていたが、今年の夏は上高地でも異常だった。

 ホテルでチェックインする時に、フロントでそのことを強調されたが、部屋に入った時の室温の凄さに驚いたほどだ。当然、山岳地では冷房などないのが当たり前だ。ただ、部屋にはしっかりと扇風機が置かれていた。

 だが、窓を開けていても一向に部屋は涼しくはならず、山岳地であることを意識させてくれたのは、夜も更けてからだった。

 梓川左岸の道を久しぶりに歩いた。木立の中を歩いているときは、暑さも少しは和らぐ。

 明神館の前までは思いの外速いペースで歩いた。

 途中の明神岳を見上げる川原で足を止め、強い日差しの中でお決まりのように顔を上げる。明神岳は正面から見上げると、ゴリラの顔のようなカタチをしている。ずっと何十年も思っていたことを、今更のようにして長女に話すと、今はすっかり山ウーマンになっている長女が頷いていた。

 明神館前のベンチで当たり前のように休憩した。

 単に上高地を歩いていた(今はトレッキングというが)だけの頃は、ここは休憩しなければならないという場所だった。

 しかし、さらに奥の本格的な山岳地帯に入っていくようになると、この場所も通り過ぎるだけになった。この次にある徳沢でも休憩せず、梓川沿いでは横尾でザックを一度下す程度で、そこからは例えば涸沢ぐらいであればノンストップで登った。

 今は本格的な山行は自重しているからそれどころではないが、単独行の頃の馬力はどこへ行ってしまったのだろう。いや、自覚とか諦めとかが足りないだけかも知れない。

 明神から徳沢への道にはサルたちが大勢出てきていた。非常に友好的にというか、まったく気兼ねすることもなく我々の前を歩いていたりした。同じ祖先をもつということに、サルたちの方が深い理解を持っているのかも知れない。

 生まれてまだ日の浅い子ザルが、母ザルにしっかり抱き着いている姿も数組見た。幼いサルの顔というか、特に目にはさわやかに惹きつけられるものを感じた。

 サルたちとの並行(と言ってもほとんど蛇行であったが)は、かなり続いた。外国人のトレッカーたちも興味深げに彼らを見ていた。

 別に不思議なことでもないが、徳沢は変わっていた。

 いや、そう見えただけなのかもしれない。記憶などはいい加減なものだが、しかし、やはり変わって見えた。

 徳沢ではカレーを食べることになっていた。長女が決めていたのだが、やはり山岳地の昼飯はカレーで文句ない。しかも、徳沢のカレーは今有名らしく、こちらも一度は食べてみたいと思っていた。

 かっこいい食堂の隅っこのテーブルに、カレーライスが三皿並ぶ。長女は当然生ビールのジョッキも置きたかったと思うが、こちらが帰路の足への影響を考え自重したために遠慮したみたいだった。

 その代わり? カレーの食後にアイスクリームを追加した。これも徳沢の人気メニューらしい。そう言えば、徳沢は昔から牧場だった場所だ。食事を終えたテーブルの上を、徳沢の木立ちを抜けてきた風が流れる。

 結局、ビールは河童橋まで戻ったあと、閉店間際の店の前でいただいた。当然、美味であった………

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 ずっと以前に、徳沢を歩きながら、こんなところまでどうやって牛たちを運んだのだろうと考えていたことがある。上高地の歴史に興味を持ち出した頃で、松本藩の材木を管理する役人たちや杣人たちの日常なども思い浮かべたりした。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人なども重要な想像世界の登場人物の一人だった。

 

 暑苦しくて眠れない山小屋の思い出は、この上高地から登った涸沢ヒュッテでの一夜である。

 それこそ、35年ほど前の初穂高山行だった。

 横尾の小屋の前で、母の握り飯を頬張りながらラーメンを作っていた時、小屋のアルバイトらしき青年が、二階の窓から梅雨が明けましたァと叫んだ。

 周辺にいた人たちがおおッと声を上げ、熱気が動いたように感じた。

 その日は、上高地を出発した時からとにかく暑いと感じていて、梅雨明けの予感は十分あった。

 そして、横尾から一気に涸沢まで登った後、小屋の予約を早々に済ませたが、その人の多さに少々気後れした。

 案の定、眠れなかった。11時半頃には窮屈な寝床から這い出し、ザックを持って廊下に出ていた。それからどうしていたかは覚えていない。その後テラスに出て、4時前にコーヒーを沸かしクラッカーで朝食にした。どうでもいいが、商品名でいうと「リッツ」だ。それを三枚だけ食べた。小屋の朝食には行かず、外のトイレだけ借りて歩き始めていた。

 夜中、着込んではいたせいもあってか、全く寒さを感じなかった。

 

 上高地の眠れない夜は、早朝4時半頃で終わりにした。窓辺に立つと、対岸の焼岳山頂付近に朝日が当たっている。見下ろすと、某池のほとりに人の姿も見える。

 すぐにカメラを手に外に出ることにした。なんと立地条件に恵まれたホテルだろうと今更ながらに思う。

  上高地に来るようになって40年ほど。この美しい光景は、見てみたいけども、どうしてもというわけではない…… といったいい加減さでやり過ごしてきた。

 しかし、実際にこの目で見てしまうと、そんないい加減だった自分を悔いた。初めて上高地に足を踏み入れた時の、梓川の美しさに圧倒された時の自分を思い出していた。

 

 日が昇り、上高地はまた暑くなった。

 大きなザックを担いだ長女と、小さなリュックを担ぐ家人が並んで歩いていく。その後ろ姿を見ながら、歳月の経過を思う。

 いつものことだが、今回もまた、近いうちにまた来ようと歩きながら考えていた。

 河童橋の周辺は相変わらずのにぎわいで、岳沢から穂高の稜線にかけては薄い雲がかかっている。河原に下りて、梓川の水に手を入れた。

 もう少し静かになったら、顔を出してやるよ…… そんな奥穂高のぼやきが聞こえる。

 いや、聞こえたような気がした………

 


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