🖋 自分なりの旅について…の2
ひとつの旅が、その人の生き方を変えてしまったという話を聞くと、正直言って少しうらやましくなる。ボクにはそれほど激しい思いを残した旅はない。
しかし、その分、数日だろうが日帰りだろうが、ちょっとした旅の中にでも、自分自身をいつも研ぎすませていたような確かな思いがある。
山を登るということに固執し始める前だが、ボクは日本の山の聖地である信州の上高地へと頻繁に出かけている。ちょうど20代の真ん中あたりの頃だ。
今あの衝動が何だったのかと振り返ってみても、どこか不思議な感じがしてはっきりとはしない。ただ上高地が書かれた多くの本を読み耽り、そして毎日、上高地へ出かけることを楽しみにしている自分がいた。自分が上高地を歩いていることをはっきりと想像できた。
まだマイカーでも入れる期間があった頃、多い時で一ヶ月に4回ほど通っている。そして、早朝の河童橋あたりから明神、徳沢、横尾へと足を延ばし、上高地というひとつのエリアについてはかなり精通したニンゲンになっていた。
当時も多くの人たちが上高地を訪れていたが、大正池や河童橋周辺を抜けてしまうと、あとは静かな散策ができた。ボク自身、まだヤマ屋スタイルでもなかったが、歩くことにはまったく問題を持っていなかった。
ボクは上高地に、すでに藩政の時代から多くの杣人たちが入っていたという事実を知り、すごく心を動かされていた。
たとえば、梓川の流れを底辺にして、岳沢からせり上がっていく穂高の稜線を、すでにその人たちはその時代に見ていたのだということが、何だかとてもすごいことのように思えていた。
考えてみれば、海に面した村の人々が海にその恵みを求めるのと同じように、山に抱かれた村の人々は山へと入っていく。そんな当たり前のことが、この上高地でもなされていたというだけなのだが。
しかし、ボクはこんなことも考えていた。自分たち現代人が現代の街などの風景を知りつつ見る上高地と、昔の杣人たちが閉ざされた山村の風景しか知らないで見た上高地の違いは何か。
そんなことを考えていくと、昔の杣人たちへの興味はどんどんと膨らんでいった。この地で、どのようにして彼らの日常が組み立てられ、そして流れていったのか。
旅は非日常を求めていくものだなどといった決まり文句があったが、ボクは自分自身の非日常よりも、かつてそこに住んでいたとか、暮らしていたとかといった昔の人たちの日常を考えるのが好きだった。もちろん、そのことが自分自身の非日常にも繋がっていたのだが。
史実として知る部分と自分の想像をはたらかす部分とを重ね合わせていくと、上高地というひとつの地理的空間が、歴史的な世界へと広がっていくような気がしていた。
特に上高地の深遠な美しさは、想像することの愉しみを倍増させた。
《時空を超える》という言葉が、雄大で動かしがたい自然の中では生きているような気がした。
ボクは梓川左岸の道を歩き、時折河原に下りて、岩の上にすわった。広い河原に出ると、目に見えるのはどの時代の風景なのか判らなくなった。
自分はひょっとして、数百年前の上高地にタイムスリップしているのかも知れない。そして、今振り返ると、あの杣人たちが煙管を吹かしながら語り合う光景に出会えるのかも知れない。そんなことを身体中で感じたりした。
特に梅雨の晴れ間や秋空の下で、鋭く冴えわたった清々しい風に吹かれた時などは、今自分の周囲にある空気全体が、現代のものではないような錯覚に陥った。
(……実は、翌朝上高地入りする予定でいる)
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ボクの旅は、いつもこのような感覚の中で成立していたような気がしている。
好奇の目によって見据えられたものは、すぐに旅の対象となり、その周辺を知りたいという軽い願望を生んでいった。
それは衝動というほどではなかったが、例えば風景や歴史や生活という文字、響きそのものに心を奪われ、さまざまにそれらを巡ったりした。そして、キーワードが変わると、それまでにも何度か訪れたことのある土地が違って見えてくる感覚も味わった。
例えば、それまで漠然と見ていた道沿いの一本の木にも、かつての街道という視点で見ると大切な要素が見えてきた。そこに何らかの《ものがたり》が想像されたりし、そしてまた、道から眺める山里の風景にも、街道という言葉が生きていた時代の風を感じさせた。
実はボクにはずっと前から、見ているだけでグッと胸が締め付けられるような、そんな風景の存在がある。
それらは、ほとんどが民家の散在する山里で、背後に小高い山並みがあり、またはその山並みに囲まれ、そして、手前には深くえぐられた谷川が流れている。
ボクは必ず川の対岸にいて、時折息をとめながら、じっとその風景を見つめる。風以外には動いているもののない風景なのだが、風が動いているのははっきりと見ている。
そんな風景を思い浮かべると、それらのすべてがボクの旅の産物なのかと思う。そして、その反面で、ひょっとして、自分は自分の前世を旅の中で見ているのかも知れないゾ…などと、考えたりもするのである。
今もそうしたものを求める小さな旅を続けている。たぶん、まだ当分は続くと予想しているのだ………
※古い文章に加筆した……