自分なりのクリエイティブ
先日、あるお偉い方から、N居さんって、結構クリエイティブな世界でやってきたんですってね…と、突然言われた。
ボクが関わってきたことを何かで知られたらしく、いきなりそんな話になったみたいだ。
しかし、ボクとしてはかなりの違和感があり、クリエイティブな世界にいたという認識などない。
そもそもクリエイティブとは何なんだろう?
今身近にとてもお世話になっていて、その物腰や言葉の柔らかさが大好きな先生がいらっしゃるが、その先生や華やかなデザイナーの人たちこそが、俗に言うクリエイティブ・ニンゲンなのだと思っている。
と、ここまで書いて思い出した。
まだ20代の終わり頃だったと思うが、会社の中に企画部門を立ち上げ、「クリエイティブ・チーム」などといった図々しい名を付けていた時代がある。
その後に、少し自重して「プランニング室」、その後ちょっと成長して「プランニングセンター」という名前で現在も続けているが、やはり「クリエイティブ」には遠慮があった。
広告やデザイン、モノづくり・コトづくりなどの世界には、どうしても「クリエイティブ」が要る。
しかし、ボクの進んでいった道は少しずれていたように思う。
敢えて、そう呼ばれたくない道に進んでいったようにも感じる。
ボクをクリエイティブだと言ってくれた方の感じ方には、やはりボクがやってきたことへの肯定的な認識があったのは間違いない。
さまざまなことに首を突っ込んできたのはたしかだ。
しかし、ただボクはやはり中途半端にやり過ごしてきた。
ある計画に関わり、そのグループのまとめ役みたいな立場に置かれてたことが何度かある。
あるボスからはこう言われた。
「これを成功させれば、N居さん、凄い実績になるよ…。いよいよこれから大飛躍だね」
たしかに成功はしたと思うが、ボクはその事業が終わりに近付けば近付くほど表側から身を引くようにして、結局最後はほとんど自分の影を残さないようにしてきた気がする。
それは、一会社の一企画屋という、他人が言うには少しよそよそしい認識でいたからで、一個人としての立場があれば、もっと違った主張をしていたかもしれない。
このような経験は、覚えているだけでそれから数回あった。
しかし、ボクは同じようなスタンスでやり過ごしている。
仕事の上で考えると、デザイナーの人たちにはクリエイティブ、特に言葉としてのクリエイティブは必要なのだろうが、自分のように中途半端な立ち位置のニンゲンには表面的にそうあるべき理由はない。
ただ、今回このクリエイティブについて、某氏に言われてから少し考え方が変わった。
もっと平凡に日常の中で考えていけば、ボクは十分にクリエイティブなのだと思う。
デザインや広告などといった、クリエイティブが商売道具として使われている世界ではないところで、ボクはボクなりのクリエイティブを駆使してきたと思うのだ。
潜在的なクリエイティブとでも言うか、モノゴトの接し方そのものがクリエイティブであったという自覚が、少しは芽生えた。
だからこそ、クリエイティブな世界にいたと言われるのだと思えるようになった。
生意気なことを書いているなあという思いに揺れつつ、クリエイティブについて、今もなお表面的ではないのだぞと自分自身に言い聞かせている……