新緑がいい
この齢になって新緑の素晴らしさを語ったりしたら、加齢の仕業のように言われた…と同年代のある人が話していた。
その人は、齢を食うと季節に敏感になっていくからイヤだねと、ただそれだけの理由で納得していたようだったが、少なくとも自分は違うなと思っていた。
自然の移り変わりというか、季節の表情がいろいろと変わっていく様子というのは、人それぞれの感性や経験などによって違うのであり、その両方に明確な覚えのある者にとってはそんな単純な理由に納得できるはずがない。
ボクと新緑との付き合いは、二十代初めの信州上高地から始まった。
まだマイカー規制が緩かった時代、夏山真っ盛り期の前にはかなりクルマで入れる期間があり、そのチャンスを利用して頻繁に上高地に通った。
その頻度は自分でも異様に感じるほどで、多い時には一ヶ月に五回ほど出かけていたこともある。
上高地は四月の後半に一応開かれるが、飛騨方面からだと今と違って安房峠越えという厳しい条件があった。
だから、少し落ち着く五月の連休明け頃から入り、ウエストン祭の頃から先の目覚め始めた大自然を満喫した。
頻度に比例して上高地の隅々まで歩くようになり、それから後、上高地を通過点にして山の世界に入っていったのだが、秋の紅葉の時季よりも圧倒的に春から初夏にかけての新緑の時季が好きだった。
ボクはそれまで、新緑に対する認識(大袈裟だが)というもののを感じたことはなかった。
しかし、上高地という特別な環境がそうさせたのは間違いなく、梓川の桁外れな清流と穂高の圧倒的な山岳景観などが、新緑という何気ない自然の産物にも魅力を感じさせたのだろう。
上高地での体感以来、ボクにとって新緑はどんな場所においても大事なものになっていく。
そして、新緑は最もシンプルな季節的シンボルのひとつであって、自然の中でいちばんテンションを高揚させるエキスをもつものだと思うようになった。
たしかに真っ青な空も入道雲も、晴天の日の雪原なども見ていて元気をくれるが、新緑とはどこかが違った。
新緑にはこれからまた物事がスタートしていく時の期待感、いやちょっと違うか…、もっとシンプルで、具体性のない何かに対する“楽しみ”を煽るような、そういうものが潜んでいるような気がする。
そして何よりも美しいし、清々しい。
田んぼが水田になり、苗が植えられ、その後しばらく鏡のようになって空や山々を映し出す時季、新緑も負けじとその本領を発揮していく。
風に揺れながら波のように色を変化させたりする様子は、新緑期ならではの目の保養になる。
ボクにとっては、“シンリョク”という響きも、“新緑”というこの二文字の組み合わせもなかなかにいい感じだ。
そんなわけで、できれば一年中新緑が続いてくれたらと思うが、それじゃダメなのも分かっていて、とにかく出来るだけ、“今の新緑”を楽しもうと考えるのだ……