🖋 奥能登の山里を歩き想うこと~爼倉・鶴町
◆気になっていた場所
木々に囲まれた神社の小さな境内は、紛れもない静寂の世界だった。
ここに立つのは二度目だ。
一帯は4月の中旬なのに春をとおり越し、初夏の空気を感じさせている。
そんな中を直線距離にして4kmほど歩き、ここまで来た。
ここは、石川県能登町の爼倉という地区。
地区の一方の入り口にある稲荷神社にいる。
静かなのは神社の境内ばかりではない、地区全体が静寂に包まれている。
じっと息を殺してみても、何の音も聞こえてこない。
鳥居の前の石段に腰を下ろし、デイパックのサイドポケットから水引珈琲のボトルを取り出して飲む。
さあ、これからどうしようか……
◆神野公民館から歩き始める
前回の能登町曽又の歩きから、まだ2週間ほどしか過ぎていなかった。
朝、より早く出ようとしたが、やはりそれほどの早立ちとはならない。朝はやはり慌ただしい。
それでも珠洲道路「道の駅・桜峠」の脇を下り、突き当たったT字路を左折して、午前10時前には、神野公民館に快くクルマを置かせていただいた。
ここは常勤の人がいる。
勝手ながら、ずっと拠点にしたいと考えていた施設だ。
少し話を聞きたかったが、イベントらしきものがあるみたいですぐに外へ出た。
そこから鶴町のメイン道路を歩いて戻り、懐かしの鶴町神社にも立ち寄る。
何度も書くが、山里の神社の姿はどこも美しく、この鶴町神社も心に響くものがある。
途中は水田地帯の畦道のような場所を選んだりして、距離はかなりの割増しになる。
歩いてみるとクルマがそれなりに多く通るのを感じるから不思議だ。
この道は珠洲道路から能登町の中心である宇出津に出る最短?ルート。
これまでに何度も利用している。
途中からは道が狭く急になり、慣れない人には少し心細い道かもしれない。
田植えを控えた水田には水が張られ、この時季らしく一帯は輝いている。
用水にかかる小さな橋がたくさん目に入って、あれこれと探索に足を向けていると、なかなか目的地の爼倉は近くならない。
小さな、そして素朴な橋は大好きなアイテムのひとつなのだ。
特定の人たちしか利用していない、そんな橋に特別な想いが湧いてくる。
この感覚も山里歩きを始めてから味わうようになった。
ある家からその家の田畑へ向かうために付けられた一本の道や橋。
そこへ足を踏み入れる時、ふと感じるよそ者感や部外者感のようなもの、それらはときどき大きな勇気を強いる。
長い畦道を歩いていると、今年初のヘビと遭遇した。
ヘビもよそ者に驚いているようだ。すぐに用水の中へと飛び込んでいった。
ヘビは大の苦手。かつて本格的な山行の時でも、山の登り口でヘビに遭遇すると、そのまま今日はやめにしようかと考えるほど萎縮した。
山里歩きでは尚更で、特に春の雨上がりの時などに遭遇する場面などは、かなりショッキングだったりする。
記憶の新しいところでは、富山県西部の山里で見たヤツが異色だったが、詳細はまたの別の機会にしよう。
◆爼倉へ向かう里山の道
話を戻そう。
前出のT字路まで来ると、桜峠に向かう右折の道を見送り直進。
やや急な上りの道に入る。これからはアップダウンを繰り返す。
少し上ったところに右下へと下る道があり、その先に大きな家がある。
よく見ると空き家であろうことが想像できた。
道はしっかりとした舗装道路のままだが、クルマの数はぐっと減った。
ほとんどいないと言ってもいい。
深い雑木林の小山を抉ったように道は付けられ、途中に広く開けた場所もある。
小道がいくつか見られ、足を踏み入れたくなるが、とにかく前へと進むことにする。
山里の集落をつなぐ、里山の中の道というイメージだ。
曽又でも神和住からの道は里山の森を抉ったように造られていた。
山桜が残り少ないエネルギーを使って、なんとか体裁を守っている。
見上げるような高い位置に聳えているのがいかにもいい感じだ。
◆Mさん(仮名)との出会い
何度目かのアップダウンがあって、道がゆるやかに下りになった先に、めざしていた爼倉の家並みが見えてきた。
家並みといっても、小さな窪地に数軒しかない小さな集落だ。
その窪地の入り口にある稲荷神社で休憩した後、また歩き出す。
歩きだすと言っても、ここまで来るといつものようにあとは特に計画性などない。
右方向に、さらに奥へと延びる曲がりくねった狭い窪地がある。
水田とそれに沿って道も延び、道の入口に家が建つ。
道に入ってみると、細長い窪地の形状に合わせて、変形した水田もかなり奥へと延びていた。
どこへとつながるのかも分からないまま行くと、水田にトラクターが見えてきた。
作業中だが、思い切って声をかけてみると、エンジンを切ってわざわざ道まで来てくれる。
自分にとって、この出会いはその日のハイライトだった。
この方の名を、仮にM(爼倉だから)さんにさせていただこう。
すぐに手を止めてしまったことを謝り、Mさんにこの道はどこにつながっているのかと尋ねた。
答えは行き止まりだということで落ち着いたが、それから30分以上も立ち話に付き合っていただくことに。
爼倉という地区の中心部とはどこをさすのか…、そんな愚問から始めた。
Mさんは石を拾い、それで道の上に地図を描いてくれた。
アスファルトの上だからなかなか見づらいが、描かれる内容がシンプルだから分かりやすい。
まず分かったのは、さっき歩いてきた道はこの後すぐに上りとなるが、そこを下って行ったところもまだ爼倉であること。
◆寺田川ダムと古道
そう言えばと、前回クルマで通った時のことを思い出してみる。
途中、寺田川ダムというのがあり、その入り口には一軒の家があった。
そして、そこを下ったすぐのところに爼倉の集会所があったことも思い出した。
能登半島の幹線道路である国道249号線から入ってきたところだ。
Mさんに寺田川ダムには行ったことがあると言うと、とてもめずらしいことのように思われたみたいで、少しはこちらの信頼度も高まった感がある。
そして、話はどんどん弾んでいき、意外なことが分かってくる。
それは古道のこと。
今当たり前にクルマが往き来している道は、Mさんの子供時代にはなかったということ。
そして、長く集落の人たちが使っていた道が、カタチとして今も残っているということ。
話を聞いていて、その道のことがすぐに認識できた。
窪地から左手の山間に何軒かの家屋があり、その脇に細い上りの道がたしかに延びている。
その道が、かつては通学路だったと聞いて驚く。もちろん歩きだ。
冬になると、雪を踏みながらの山越えとなり、吹雪の時などには学校に着くと先生がストーブの横に座れるように配慮してくれたと話してくれた。
今いる水田の奥に延びる小高い稜線は爼倉山であるが、その稜線上にも道があるという。
その先は寺田川ダムなのだろうかと想像する。
その後、炭焼き小屋の話をしたり、自分のこうした山里歩きについての話をしたりしながら楽しい時間をいただいた。
互いに名を告げ、こちらからまた時間をつくって訪れたい旨を伝えると、快く了解していただく。
Mさんにお礼を申し上げ、来た道を戻ることに。
◆古道(かつての通学路)に足を踏み入れる
昼近い時間。
愉しみにしている山里ランチをもう少し我慢し、まず「かつての道」に行ってみようと思う。
その方向へと道を左に折れる。
窪地のわずかばかりの広場が公園のようになっていて、テーブルやイスがある。
右手に家が建ち、その前の道に軽トラックが止まっている。
お昼ご飯のために家に戻っているのだろうと想像し、なぜかホッとする。
すぐに道は二手に分かれるが、脇道っぽく山裾に延びていく右手の道は、先ほど聞いた爼倉山の道だろうと想像した。
分岐の場所には、小さな土壁の蔵が静かに建っている。
そう言えば、鶴町の道沿いにも同じような土壁の蔵があり、初めて来た時には通り過ぎてからバックしてカメラを構えた。
屋号の入った土壁の蔵はその時以来、たまに目にすることがある。
まっすぐに延びた「かつての道」に足を踏み入れる。
まだ春先だからということを差し引いても、道はかなり汚れていた。
舗装されてはいるが、土埃と枯葉に覆われた路面は、往来がないことをはっきりと物語っている。
右側に空き家が数軒続く。
Mさんは学校へ行く際、この何軒かの家に住む友達と合流していたのかもしれない。
帰りは、ここからひとりになっていたことも考えられる。
そんなことを思いながら、細い道を上っていく。
ここでもさらに派生していく別の道らしきものがあった。
そのまま上り続けると、Mさんが話していた「石神」と呼ぶ、石碑らしきものの建つ小さな空間を見つける。
その方向には急な下りの道があるみたいだったが、入り口は封鎖されていた。
石碑は何のためのものなのか、周囲を見まわしても全く分からない。
破損を繰り返したのだろう、セメントで覆われているといった感じだ。
Mさんがずっとお世話をしていると言われていたが、碑の横の空間には古い墓もあり、なんらかの関係があるのだろう。
墓に眠るのは、日露戦争で転戦し、清国において戦死した人らしく、最後に“嗚呼惜哉”と刻まれていた。
道はすでに人の往来などまったく感じさせない気配になった。
しばらく上り、その上りが終わりかけたところで引き返す。
◆歩く小さな旅の実感~道が生きているということ
時間や空気の異質感。
その異質感を、単純に非日常などと表現したのでは芸がない。
自分がこのような場所にいるということを、今世の中の誰が知っているだろう……
そんなことを思ったりもする。
これは『山村を歩く』の著者・岡田喜秋氏の受け売りに近い思いだ。
自分はこうしたスタイルを、無理やり旅としても位置付けているが、旅という感覚からすれば、普通は目的地として観光名所などが想像されるだろう。
しかし、ここにはそうしたものの気配はまったくなく、対峙するものが自分自身の価値観などと直接結び付いているに過ぎない。
自分にとってどうなのかという判断軸しか存在しない、そんな“旅”なのである。
下りの道を歩きながら、山里ではよく空き家のことが語られるが、道にはあまり関心が持たれていないなと想う。
人が住まなくなった家が空き家なら、人が通らなくなった道は何と呼ぶのだろう。
道が生きているか、死んでいるか?
そうしたことも山里を想う時の大きな道しるべになるような気がしてくる。
歩くという行為からも、道は常に生きていてほしいものだ。
◆暮らしのエピソードを残す
もう一度、稲荷神社の小さな、そして静かな境内に戻った。
遅いランチタイムだ。
社を背にして、鳥居の先に広がる風景を見るのが好きだ。
そこで弁当を広げるのも、なかなか気持ちがいい。
そう言えばと、Mさんが言っていたことを思い出す。
詳しくは聞けなかったが、かつては爼倉にも寺があったらしい。
そして、その寺にあった資料?から、Mさんが33代目に当たると聞かされているという。
ということは、600年を軽く超えそうな歴史が、この爼倉にはあるということか。
弁当を頬張りながら、その時の流れを想ったりする。
そして、どこでもよく聞かされることだが、Mさんもまた、自分の代でここは終わりと話していたことを想う。
かつて、石川と富山の県境近くにある山間の集落で出会った老人から、自分たちのことを語り継いでいかなければならない、最近特に強くそう思うようになった…という話を聞いたことがある。
自分たちがその土地で生活する最後の住民になるであろうということを、異口同音に山里の人たちは口にする。
そして、逆の意味で、その人たちは語りたがっていると感じることもある。
また同じ道を戻る。
シャツの袖をめくっていたせいで、腕の日焼けを感じている。
ほのぼのとした水田風景と小高い山へと続く斜面の青草や新緑、そしてところどころに咲く花々が、青空の下で輝いている。
自分にとっての山里の魅力は、申し分ないほどに満載だ。
神野公民館に戻るまでの全体歩行距離は約8km。
5時間あまりの小さな歩く旅=ミニトレイルに満足していた………
2015年のデータだが、
爼倉の世帯数は8軒。
人口は20人とある。
このでだし 木々に囲まれた神社の小さな境内は、紛れもない静寂の世界だった。 ぐっと きました。
きれいな 文章ですね。読ませていただきありがとうございました。