🖋 夏の終わりの病中読書がもたらしたもの



 詳しくは分からないが、カラダの真ん中、いや腹と胸の境目あたりに重いものが潜んでいて、ふとしたことでそれが息をしだす。  胸から背中あたりまでゆっくりと流れていく。イメージでは、それは比重の高そうな気体だ。

 その正体はストレスというやつである。仕事上の下品なやつだ。こんな状態が、少なくとも自分の中では一か月以上続いていて、現時点でまだ治まっていない。

 こうしたことを文章にするというのは、普通過去形で綴るもの……つまり、解決した後に振り返って書くというのが正しいのかもしれない。しかし、書下ろしが好きな自分としては状況真只中で書くことになる。

 コトの途中経過みたいなもの…そう考えると安っぽくなるが、もともとがそんなものかもしれない。

 こうした状況での新鮮な発見としては、読書である。読書そのものというよりも、その中に描かれているストーリーというべきか。

 むずかしいことを書こうとしている自分を抑えながら、それでも敢えて書いてしまうが、人と人との関係を素朴な日常とともに描いたストーリーなどは、しみじみとまっすぐ心に届いてくる。

 ………… 悲しい境遇を強いられた主人公の若者がいて、彼に何か光を与えてあげたいと思う自分がいる。そのことに気が付くのは三分の一ほど読み終えた頃だ。

 その若者の心情を理解しているつもりになって、彼の行動を気持ちで後押ししている。

 そして、彼にかすかな光が当たり始めると、ますます強く応援するようになる。が、それなのにというか、こちらの予想を裏切って、彼は将来の自分のために敢えて厳しい道を選択する。

 まだ三分の二ぐらいのところだったので、このまま終わるわけはないと思っていたが、また彼をつらい目に合わせるのかと先が心配になっていく。

 しかし、ますます応援しようという気持ちが高まり、ページは進むのである。そして、若者の決断を支持し、前途に期待を込めながらフィナーレを迎え、ストーリーとしてはとてつもなく大きな余韻を残して終わるのである。少し間をおいて本を閉じる。

🖋 夏の終わりの病中読書がもたらしたもの

 ……… 勝手にあれこれ書いているが、本のタイトルや作家名は敢えて書かない。ハードカバーの分厚い本だったが、ほぼ一日半で読み終えた。これも久々の快挙的珍事であった。

 もともと家人が読み終え、そのまま居間の本が何冊も積まれた場所にあった。その存在は知っていたが、まさか自分がそれを読むとは思わなかった。いや、手に取ることも想像できなかったと言っていい。

 最近は物語(小説類)をほとんど読んでなく、エッセイ的なものを多く読んでいた。その傾向はもうかなり前からのことで、それも自分よりもかなり年上の人(故人も多い)のものが多かった。しかし、詳しく見てないが、この書き手は若手と言われる作家にまちがいない。

 読み終え、なぜか分からないが自分自身の中にあった懐かしい何かに触れた気がした。ニンゲンの心の在り方として、そういうことを感じたということが新鮮で、照れ臭くなったり嬉しくなったりした。無理だと分かっていながら、若い頃の潤いがたっぷりあった時代に戻りたいとも思った。そして、当然なのかもしれないが、今の自分の情けない日常をしっかりと感じ取った。

 これからあの若者のように生きるなど、とんでもない妄想だが、残された時(そんな大げさな話でもない)をどう過ごしていくか、いや何を目当てにしていくかなどは改めて考えた。

 読書の間の音楽は、パット・メセニーの「LAST TRAIN HOME」になっていた。しかも1時間ぶっ続けのリピート版を何度も繰り返し流していた。

 スネアを叩くブラシの軽快な音がSLの疾走感と、レールの伸びた広い大地を想像させ、読書も軽快に進んだのだ。完全に青臭さを取り戻していたかのように………


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