🖋 夏・北信濃~温泉町のひまわり
◆竹塀越しの 凛々しきひまわりとの出逢い
何年か前の夏、北信濃の温泉にある古い宿に泊まった。
宿の部屋に入ってすぐ地震があり、短い時間だがかなり揺れた。なんとその宿のある町が震源地だった。生まれてはじめて、震源地で地震を体験したのだ。
その出来事も衝撃的だったが、その宿の風呂も、別な意味でかなり衝撃的だった。豪壮な木造建築がそのまま浴場になったような感じで、中も外(露天)もとにかく見上げてばかりいなくてはならなかった。
そしてもうひとつは、翌朝早く、朝飯前の散歩で出逢った〝ひまわり〟だ。
普通のひまわりと言えばそれまでだが、信州の夏の朝の清々しさと、温泉町らしい空気感とを表情に現し、屈託のない、独特の存在感で(ボクを)待ってくれていた。
ひまわりと言えば、最近では広く〝団体〟で植えて、迷路を作ったりすることがトレンドになっている。
家の近くにも「ひまわり村」という、非常に分かりやすいネーミングの施された畑があり、夏の風物詩として必ずテレビなどで紹介されたりしている。
そういうのもそれなりにいいと思うが、今回出逢ったそのひまわりは、数本の仲間たちとともに、趣のある和風の家の庭から咲き出していて、特に塀の上から、こちらを逆に覗き込もうとしている一本の、敢えて言えば〝物怖じしない仕草〟のようなものに心がひかれた。
おはようございます……… 目が合った瞬間に朝の挨拶をされたような気にもなっていた。ひまわりという花のもつ特有の明るさが、そうさせるのかもしれない。そう思ったが、しばらく見ていると、また何か話しかけられてくるような、そんな気がしてくる。
少しの間、ぼおっとしていた。
それから我に返り、塀のことを考え始めた。やはり塀がいいと思う。
塀があって、その上から顔(花)だけ出し語りかけてくるような、その感じがいいのだ。
さらに塀が竹で丁寧に組まれ、信州の厳しい自然の中で、風雨はもちろん氷雪や日照りを受け年季が入っているのもよく、奥に建つ家屋もいい。
そこに住んでいる人たちの、静かな夏の日常が浮かんできて、北信濃の温泉町にいることをあらためて思う。
かつて我が家でもひまわりを植えたことがあったことを思い出した。
一気に10本ほどのひまわりが咲いてくれたが、美しく咲いてくれたのはわずかで、多くは望むような咲き方をしてくれなかった。
成長していくスピードにムラがあって、大きさもアンバランスだった。
満開になってからの数日はそれなりに嬉しかったが、だんだんみすぼらしくなっていくと、人に見られるのも嫌な気がしてくる。そして、まだ早めの時季に切ってしまった。
あれ以来、ひまわりは他の誰かが植えたものを見るようになる。
そして、夏の終わりごろの、かなり落ちぶれたひまわりを見ては、こうなる前に何とかしてやればよかったのにと、余計な思いを抱いたりするようにもなっていった。
🖋 夏・北信濃~温泉町のひまわり
泊まった宿は温泉街ではなく、温泉のある町の奥深いところに建つというイメージで、宿の周辺はまったく静かな住宅地といってよかった。
宿を出て最初に立ち寄ったのはすぐ近くにあった寺で、そこで地元ゆかりの小林一茶の句碑を見た。
子ども等が雪喰いながら湯治哉
草履もない貧しい農家の子供らが、冷たい雪を踏みながら温泉に行くという冬の日常の楽しみ…… その光景を詠んだ句とか。
今は真夏だが、〝雪喰いながら〟の七文字にその情景が浮かび、微笑ましくも切なくもなる。この地域とその時代と、そして一茶の気持ちを少しだけ理解した思いで、本堂の前に立ち手を合わせた。
境内を出て、少し歩き、高台から見下ろす川の流れと、反対側の小高い山並みに目をやったが、特に目を引くものはなく引き返す。そして、宿の前まで戻ったがそのまま通り過ぎた。
川は、「夜間瀬川」と書いて「よませがわ」と読む…… 後で知った。
宿の前から反対方向にしばらく歩き、一本脇道に入ったところでひまわりと出会った。旅の際中にときどき思うが、脇道に入るのが好きだ。
特に変化のない生活空間でも、旅のニンゲンからすればあくまでも非日常だ。 多くの場合、得した気分になれるシーンを見つけられたりする。今回もそうだった。
勇気はそれほど必要ないが、足を踏み入れるという気持ちが大切だ。
ひまわりの家の前からは、奥に向けて細い道がゆるやかにカーブを描いていく。
曲がっていく先は見えず、さらに歩いていくと、またその先もゆるやかに曲がっていた。家が少しずつ減っていく。
明け方だろうか、少しだけ降ったらしい雨が水たまりを作っている。
不規則に建つ民家が、静けさを一層浸透させているようにも見えたが、周辺は少しずつ明るくなっていった。
20代のはじめ、信州から八ヶ岳山麓方面への行き当たりばったり旅で、山あいの湯治場の宿に無理やり止めてもらった時のことを思い出した。
高台から、闇に包まれようとしている山里の風景を見ていた。何も見えず、何も感じなかった。
そして翌朝、夏の強烈な日差しを受け始めた同じ風景を見た時、地上から湧き上がってくるような生気に身体中が熱くなっていくのを感じた。
小さな集団の中に入りラジオ体操をした。日常の、なんでもない繰り返しのようなものが、なぜか大切なもののように思えていた。
今でもその時のことを思い返すと心が躍る。焦るという感覚もある。
山岳や、森林や、田園や、河原や、山里や…… そこからあふれ出てくる自分の好きな匂いが、すべてこの辺りにあったからだ。
今こうして家族旅行で訪れた温泉町も、どこかにそんな思いがあって選んだ場所なのだと思う。
🖋 夏・北信濃~温泉町のひまわり
またひまわりの前に来た。
さっきよりもいくらか明るくなった気配の中に、ひまわりも少し背筋を伸ばしているように見えた。
見ていて飽きないが、家の中の人から見ると自分は怪しい通行人にちがいないだろう。
しかし、このひまわりは、どこか他のひまわりと違う… そう思えてならなかった。
どこか大らかで、やさしくて、ものに動じないような逞しさもあって、信州の、北信濃の美しい風に揺られながら、夏の一日一日を楽しく過ごしているのだろうと思えた。
離れがたかったが、そうも言っていられない。
そして、大げさすぎる思いを、もう一度ひまわりへの視線に託した。
もうお会いすることもないでしょうが、お元気で。
ひまわりがそう言っているような気がした。
なんだか、寂しかったのである……