🖋 夏、朝、森を歩く~2016.8 軽井沢



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◆森の中の道

五時過ぎに目を覚まし、六時少し前だろうか、カメラを持って旅館を出る。

小さなロビーには人影もなく、静かに玄関を出て、目の前に止めさせてもらったクルマから歩き用の靴を出した。

外に出た瞬間、空気の冷たさに多少驚いたが、ここは避暑地なのだと納得。

山の朝はもちろん、高原や山麓の朝も多く体験してきたが、〝避暑地〟と呼ばれる場所の朝というのは、なぜか特別な響きを感じさせる。

そういう場所に不似合いなニンゲンだからなのだろうとも思う。

前日は、江戸時代の浅間山大噴火で出来た「鬼押出し」へと二十年ぶりくらいに出かけ、以前とはかなり様相が変わったみたいだなあ…などといった感想なんぞを抱いたのだが、その頃の記憶もいい加減なもので、最近はこうした感想を抱きつつ首を傾げたりすることが多くなった。

ただ、雲に一部被われていた浅間山の裾野の美しさは記憶も明快に残っていて、多少見えなくても十分想像できたのがうれしかった。

そのあと、かつて多くの文人たちに愛されたというこの老舗旅館に入り、なんだかんだでそのまま翌朝を迎えたのである。

玄関前から右手に緩く道は下っている。逆の言い方をすれば、左手に緩く上っていることになる。

両サイドに個性的なお店が並ぶ下りの通りは、明治時代からの開業というところも多くあるそうで、この辺りでは人気のエリアになっている。

昨日の午後の人だかりも凄かった。別荘地の代名詞になっている理由がよく分かる。

まだまだ早朝の静寂の中にあるその通りをちらりと見下ろしてから、こちらは左側のやや上りになった道に足を進めた。

「旧中山道」である。冴えた空気感が漂う。山道への入り口といった感じで、ちょうど旅館がその境目にある。

かつて加賀藩の参勤交代行列はここを歩いた。

旅館の中にそのルート全体を描いた絵が掲示されてあったが、出発地である金沢周辺の絵に、自分の住んでいる場所も描かれていた。

しばらく歩くと、右手の小さな流れに架けられた橋を渡ったところに、ひっそりとした一軒の店が見える。見えると言っても、木立に隠れながらだ。

🖋 夏、朝、森を歩く~2016.8 軽井沢


昨夜の晩餐の場所だった。

静かにライブ録音のジャズが流れていた。

ガイドブックやネットなんかに載っていないイタリア料理の店なのだが、その店が素晴らしくいい店だったのだ。

店の造りも広いわりにはシンプルで、料理にもシェフの思いが伝わってくる感じがした。

そして、それだけではなく、店に入った時に、ここをどうやって知ったんですか?と、問いかけられたこともなぜかとても新鮮だった。

当然、出発前に予約しておいたのだが、この店を見つけたのは長女であり、長女もとにかくひたすら深く切り込んでいったらしい。

夜は予約数をかなり限定しているような感じで、最初はあまり受け入れに積極的ではなかったようだ。しかし、ちょっと早めの時間であれば何とか対応してくれるというので、とにかくそうさせてもらうことにした。

シェフは独りで切り盛りしながらの奮闘だったみたいだ。

実を言うと、今回は定番型の〝夏のかぞく旅〟であると同時に、ちょっとした意味深い背景もあったりする旅でもあった。

だから、長女も忙しい中、わずかな隙間をつきつつこの店まで辿り着いてくれたのだ。


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 有名な礼拝堂のあたりを過ぎてからは、濃い緑の世界に包まれていく。

特に意味はなかったが、とりあえずこの道を上ったところにある「室生犀星碑」のあたりまで行ってみることにした。

避暑地とはいえ、昼間は三十度超えの暑さになるのだが、果たして今は何度ぐらいだろうかと考える。

日差しが全く遮られた場所では涼しいを通り越す。Tシャツに半ズボンの軽装を悔やむほどだ。

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たまにすれ違う人たちが、観光の人か地元あるいは別荘の人なのかということも少しずつ分かってくる。

自分と同じ方向に歩いている一般観光客はほとんどなく、分岐のところで、人のかたまりは今自分が歩いている道ではない方向へと流れている。

だから、今歩いている道ですれ違うわずかな人は、なんとなく地元か別荘の人だということなのだ。

決定づけるのは、たとえば連れている犬などの種類や着ているモノ、そしてさらに、すれ違った後に残ったりする香水の匂い。

これは間違いなく別荘のお方だという風に決めつけられる。


流れを左に見下ろすようになってからしばらくで、一応目当てにしていた室生犀星碑のサインと出合った。

流れの方へと斜めに下っていくと、碑があった。写真で何度も見ているが、初めてナマを見た。

崖面に付けられたレリーフの詩は、かつてなんとなく好きだったもので、今読み返すと、なぜか今の方がグサリとくる感じがして驚く。

「我は張りつめたる氷を愛す……」というやつだ。

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切なき思ひぞ知る 室生犀星 詩集『鶴』より

我は張り詰めたる氷を愛す。
斯る切なき思ひを愛す。
我はその虹のごとく輝けるを見たり。
斯る花にあらざる花を愛す。
我は氷の奥にあるものに同感す、
その剣のごときものの中にある熱情を感ず、
我はつねに狭小なる人生に住めり、
その人生の荒涼の中に呻吟せり、
さればこそ張り詰めたる氷を愛す。
斯る切なき思ひを愛す。

そう言えば一年ほど前、卒論のテーマが犀星だったという学芸員志望の女子大生と話す機会があった。

犀星については、こちらはあくまで金沢への切ない思いと重なる人物像にばかり目を向けてきたが、そんな感覚はどうも自分の独特なものだということが最近になって分かってきている。

特に学芸員さんたちのような世界ともなると、作品そのものからいろいろと究めていくことが普通みたいで、素性や育った環境なんかは語られないのでさびしい。

それでは室生犀星というニンゲン物語はつまらないと思う。

こんな別荘地で穏やかな日々を過ごしていた時代の犀星には、あまり興味がない。

そんなこともついでに思いながら、レリーフの詩を二度読み返してその場を去った。


🖋 夏、朝、森を歩く~2016.8 軽井沢


せせらぎの音と森の奥から届く野鳥たちの声。そのクオリティはいろいろな意味で高い。

もちろんそんな絵に描いたような世界ばかりではなく、時折クルマのエンジン音なんかも聞こえてくるのだが、自分の中にある森好きの感覚がはっきりとそれらを区別している。

緑の深さもいい。広がりもいい。新緑が深緑に変わっていく頃、すべてに緑しかない森の世界に遭遇したりするが、今感じている〝みどり感〟もカンペキに凄まじいのだ。

時折、木漏れ日が夏草の上や苔むした石の上などに強烈に差し込んでいたりすると、夏だなァ…と全身が反応する。

そんな瞬間との出合いを、いつも憧れをもって待っていた自分がいた。

もっと素朴な場所だったが、三十年近く前のあの憧れはいつの間に消えていったのか?

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戻りの道で外国人の女性とすれ違った。薄手のコートをはおり、さっそうと坂道を上ってくる。

すれ違う際、オハヨーゴザイマ~ス…という可憐な日本語の響きに驚き、木漏れ日を受けた笑顔を見た。

ただそれだけだったが、気分が一気に爽やかになった。


 

🖋 夏、朝、森を歩く~2016.8 軽井沢

もう一時間ほど歩いている。

別荘の小窓に明かりが灯り、人影が動く。住人たちの朝が始まるのだろう。

コーヒーの豆を挽き、野菜サラダと果物を用意し、外の様子を見てデッキのテーブルにクロスをかける………

そこまで考えてそれ以上はやめにした。クロスは要らないと意地を張る。

下ってくると、もう多くの人たちがボクが上がってきたのとは違う方向へと列を作り進んでいた。そちらの方がポピュラーなのだろう。

下ると、流れの反対側に昨夜の店がまた見えてくる。

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この角度から見ると、本当にひっそりと建つという表現が似合う。

濃い緑の葉を付けた樹木が適度に店の全景を隠している。

そう言えば、最初はテラスを用意していてくれたのだが、外の空気の冷たさを知り店内のテーブルに代えてもらったのだった。

せせらぎの音がとても近くに感じられたわけは、今見ている光景から理解できる。

店を出る時に、シェフとほんの短い時間話した。

山梨出身のシェフは、今年の秋に地元に戻り、新しいことを始めるらしい。

今も休みには戻り、地元の野菜などをもとに料理を作っているとのことだが、一人でやりくりしていくのは大変らしく、故郷でじっくりやりたい様子だった。

こちらも山梨には友人もいるし、甲州ワインなどにもかなり親しんでいるなどと切り出すと話がはずんだ。

シェフの故郷にも何度も行ったことがある。好きな場所だ。名刺ももらい、こちらの住所を残してきた。

出来れば、そのうちに行ってみたいと思う。

この店やシェフとの出合いが、今回の旅に特別な色を添えてくれたような気がした。

秋に届くであろう便りが楽しみになる………

今回の〝夏のかぞく旅〟には特別な想いがあったことを思い出した。

家族四人で旅をするのはこれが最後になるだろうという、少し焦りにも似た想いだ。


もう避暑地の森の朝歩きは終わっている。

旅館の前まで戻ると、通りに少しだけ人の塊が見えた。

あと二時間ほどすれば、ゆっくり歩けないほどの数になるのだろう。

旅館に戻り、ザブンと風呂に入って、それからみんなで朝飯なのであった…………

🖋 夏、朝、森を歩く~2016.8 軽井沢


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