🖋 煮込みうどんについて


 たまに行く煮込み専門のうどん屋さんがある。鉄の器ではなく焼き物の器で出てきて、自分の評価軸だが、風味も明確に“ 煮込みらしい ”と思っている。

 先日、そこではない店で煮込みうどんを食べた。味は生意気ながらまあまあだったと感じたが、ひとつだけ大きな難点?があり、そう言えば、煮込みうどん界ではよくあることかもしれないなあと振り返ったりした。今風に言えば“煮込みうどん・あるある”というところか。

 それは何かというと、たまにとてつもなく長い麺が入っていることだ。大げさだが、立ち上がらないと食べられないのではないかというくらいに長いのがある。普通のいなりうどんなどにはほとんど入っていないが、なぜ鍋焼き系になると突然?出てくるのだろうか。

 あれは興醒めというか、かなりの度合いで煮込みうどんの評価を下げてしまう要素になっているのではないか…と余計なお世話的に思う。特に女性には厳しい評価を心の内に持たせてしまっているような気がしてならない。

 特に一度小鉢に入れて食べるのが標準化されたような煮込みうどんであるから、食べる時というよりも、小鉢への移動の段階が厳しい。かなりの熟練した技術が要る?

 一杯には、うどんの長いのが数本あったりする。たまにこれは意図的なのか、それとも何ともし難い事情があってのことなのかと考えたりするが、今だ真実は知らない。

 うんと若い頃、能登の某地に煮込みうどん屋があって、勤務先の先輩と能登方面へ出かける際に、よく寄っていた。特に真夏にその店へ行き、だらだらと汗をかきながら食べるのが好きだった。ただそんな時は、小鉢に移していたといった記憶はなく、長いのを食べるのに苦労したといった覚えもない。

 単純に言えば若気の至りで、ただ食べることだけに集中していたということだったのかもしれない。どちらにせよ、今はうどんの長さが気になる。掬った麺の端がなかなか表面に出てこない時には、ああ、やってしまったと、瞬間まるで罰ゲームを当てたような気持ちになる。

 そして、何とかせねばと焦るうちに、せっかく掬い上げた麺を鍋の中に落としてしまう。運が悪い時には、ハネ上がったスープが洋服につくといった状況も招く。

 また、腕を上方へと伸ばして、何とかうどん本体を引き上げたのに、小鉢に移そうとして、テーブルの上へずるずると落としてしまうというケースもたまにある。

 こうなってくると、煮込みうどんを食べていることの楽しさは、一瞬半分ほどに縮小され、そのまま何となく心から楽しめないまま時を過ごさなければならなくなっていく。

 しかし、美味い煮込みうどんは、何がどうであれ美味いことに変わりはない。

 だから、もし不慮の事故に見舞われることになったとしても、楽しもうという気持ちを忘れていけない。カレーうどんがもたらす事故に比べれば、その被害度、衝撃度はわずかなものだ。

 こうして時々、煮込みうどんを食べている。個人的事情だが、最近の憂鬱な日々に、煮込みうどんを掬う時の緊張感がいい活性材になっているような気もしないではない……


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