古いレコードが思い出させてくれた ジャズ少年だった頃のこと


この間まで黴臭かったレコードや本たちには、ホント申し訳ないことをした……

 この春(2020年)に実家の物置から古いジャズのレコードが20枚ほど出てきた。断捨離の一環の産物で、ついでにジャズに関する本なども出てきて、その後手入れにかなりの時間をかけた。ただレコードは今は機械(プレーヤー)がなく、まだ聴きなおしていない。

 それはそれとして、出てきたレコードにはちょっと勘違いをしていたものが多く、見つけた時にはかなり驚いた。それらは大学時代に東京へと持っていき、そのまま東京の友人の部屋に置いてきたと思っていたのだ。なんだか拍子抜けだった。

 その中の最も古いレコードは、15か16の頃に買ったものだ。日本コロムビアから出た「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」など。

 ジャズを聴くようになった本当のきっかけは、正直定かではないが、とにかく幼くして洋画のサントラ盤などに馴染まされたことからの延長線上にある。クラシックにも、名盤というものにはなぜか無理やり馴染もうとしていたきらいがあるが、平凡がいやで、むずかしそうなモノゴトへの無邪気で挑戦的な意識が強かったのはまちがいない。ついでに書くと、それは大人になっても続いた。

 それと小学生の頃から、自分が音楽関係の道に進んでいくような予感があって、中学時代にはジャズが地球上で最も優れた音楽ではないかと考えていた気がする。その直接的なきっかけは何だったか、自分でも諸説があって分からないが、片田舎の身の程知らずな少年にしては凄いことを思い描いていたことだけは間違いない。

 東京の音楽大学の付属高校に入学し、そこで基礎を学んでジャズを軸にした音楽家になる。考えていたのはプレーヤーではなく、コンポーザーのようなもの。今から思えばなんと図々しい思いだったろうか。幼いころから手にしていたギターをとおして、当時としてはかなり先を言っていたつもりだが、ギターでどこまで音楽を広げられるのかと考え過ぎていたのも事実で、とにかくどうすればいいのかと答えを探していた。ただ、何となくややこしくなってくると面倒臭くなるところもあり、そのあたりが今日の自分を見ればよく分かるところなのだろう。

 音楽について思い描いたことをもう少し詳細に書くと、小学校高学年の頃のノートには、裏表紙に必ずギターの絵などを描いていた。中学時代の美術の時間では、大阪万博に向けたポスターの課題が出ていたので、ジャズのクインテットを影絵にしたようなものをメインに描いている。カレンダーを作るという課題があった時にも、楽器をいっぱいに描きこんで、ポニーテールが可愛かった美術のA木先生からお褒め?の言葉をいただいた。絵自体が上手かったのかどうかは別にして、この時代からボクはアイデアで生きていたのだ…… (念のために言うと、ボクは下絵が上手かった。色を付ける段階になると、雑さ加減が著しく出てしまうというタイプ?で、常に損をしていたのだ。)

 ポスターを描いた時のボクのジャズに対する認識は、メンバーがそれぞれの個性でバラバラ(自由)にやっているように聴こえるが、ちゃんと決まりごとの中に納まっていて、しかも高度に融合し……などといったものだった。そのことをポスターの趣旨みたいなカタチで、画用紙の裏に書いていた。

 そんな男子であったから、ジャズはマジメに筋をとおして勉強した。学校の勉強よりもはるかにチカラを入れていたから吸収力もきわめて高かった。

 そのおかげもあって、あのようなレコードを買っているのだ。ジャズについて詳しい人なら、特にチャーリー・クリスチャンのものを15か16で買っていたという事実をそれなりに評価してくれるだろう。

 金沢片町のレコード店でそれを見つけた時の嬉しさと胸の高まりは、今もぼんやりと覚えている。特に胸の高まりの方は、ちょっと普通と違い、どこか怖さのようなものが一緒にあった。自分がこんなレコードを買っていいのかなあといった思いに近いものがあった。

 レコード店のきれいなおねえさんのところへ持って行くと、それから常連になるこの少年を優しく、大袈裟だが天使のような笑顔で迎えてくれた。

 常連になっていく少年ではあったが、実はほとんどが試聴なのである。当然ながら先立つモノが乏しい。一応、家業の手伝いで小遣い稼ぎはしていたが、レコードにはなかなか厳しかった。毎週木曜のFMラジオでのジャズ番組で欲求を満たさなければならなかったのだ。

 もう少しこの優しいおねえさんの話をすると、このおねえさんがボクを、金沢の老舗ジャズ喫茶「YORK」へと導いてくれた。といっても、当然手を引いて連れて行ってくれたのではない。YORKの存在そのものと、片町の牡丹堂というカメラ屋の横の狭い階段を上るという場所と、今風に言えば店内のシステム(というほどでもなかったが)についてきめ細かく教えてくれたのである。あのおねえさんがいなかったら、ボクの人生は大きく違っていたかもしれない。

 レコードの話をしよう。「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」。今更だが、それはモダンジャズ黎明期の歴史的名盤で、ボクが買ったのは日本コロムビアの再発盤だ。御大、今は亡き油井正一氏のライナーノーツに雄々しくこの名盤のすばらしさが語られている。パーカーのものもそうだが、とにかくありがたく聴けと言わんばかりの筆力で迫ってくる。まだまだ青臭いというレベルにも至っていないジャズ少年には、それだけでも買った甲斐があった。

 レコードに針を落としてしばらくした後、ふと思ったことがある。

 それは、日本が軍国主義一色に染まっていった頃、アメリカでは音楽に自由を求める若者たちが、アフターアワー・セッションに身も心も(「body and Soul」)捧げていられた……という事実だった。誰かの文章で読んでいたが、そんなことを思い出している自分が不思議でもあった。録音は、1941年(昭和16)だ。

 マイク一本を中央に立て、簡易な機材で録音された、何夜かのジャムセッション。

 A面1曲目の「スイング・トゥ・バップ」で聴こえてくる(演奏の途中からまさに徐々に音量が上がってくる感じ)、ギターのあの丸みのある音も、シンプルなアドリブソロもとても印象深い。ジャムセッションとはこういうことなのかと、ジャズ少年の興奮度は時間と共に一気に駆け上がっていく。自分もギターでそれなりにコピーしていた。

 もうすでにウエス・モンゴメリーをはじめとする、ジャズ界の名ギタリストの音を聴いていたが、この簡易録音のギターの音はなんとも新鮮だった。当時めずらしいアンプを使った増幅された音は、外からだとサックスの音にも聴こえたという話を読んだことがある。嘘だろうと思ったりしたが、それもあったかもしれない。

 書いていくとキリがないが、このセッションに、ドン・バイアスというテナーサックス奏者が参加していた。その伝説の人と言える彼の姿と演奏を、たぶん一年後か二年後、金沢市観光会館でボクは聴いている。アート・ブレーキ―&ジャズメッセンジャーズの一員で来日し、金沢に来ていたのである。

 名物司会で有名な、いそのてるお氏が彼を紹介した時、なぜかあたたかいものが込み上げてきたのを覚えている。当たり前だが、家に戻ってレコードを確認すると、しっかりと名がクレジットされていた。特に目立った活躍をしたわけではなかったが、ドン・バイアスという人はその後ボクにとって忘れることのないジャズマンの一人になった。ちなみにミントンハウスの中では、「スターダスト」を吹いている。

 セロニアス・モンクが参加していたのは有名だが、アル・ヘイグというピアニストにも親しみを感じていた。彼は白人だった。ライナー・ノーツの中にはピアノに向かい笑顔を浮かべる彼の写真も掲載されていて、白人のミュージシャンがアフターアワーで、黒人に交じりプレイしているということも、当時のボクには新鮮だったのである。

 このようなジャズに関する話はまだまだたくさんあるような気がするが、またどこかで書くことになるだろう。

 さて、とりあえずここまでで思うこと。それはYORKの奥井進さんの生き方を「ジャズ的人生」と名付けたのはボクだが、そんなボクも少年時代からジャズ的な生き方に走っていたのかもしれない。いやそうにまちがいだろうと思う………


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