カテゴリー別アーカイブ: 奥井進さんとのこと編

ジャズは読書の友なのである

 街なかの珈琲屋さんなどで、独り本を読む人がいたりすると何となく嬉しくなる。しかも、それが若者だったりすると、なお嬉しい。

 昔は当たり前のような光景だったと思うが、今はスマートホンを覗いたりするのが圧倒的多数派になっていて、恥ずかしながら自分も手持ちのものが何もない時は、それに頼ったりすることがたまにある。

 本を読むためだけに珈琲屋さんに入るというのは、学生時代であれば普通で、たとえば紀伊國屋さんで何か買った後には、裏手のジャズの店「D」などに直行した。

 そのまま中央線で吉祥寺のジャズの店「F」へということもあったが、後者の方は書店直行というより、いつでも文庫本一冊ポケットに突っ込んで行くというスタイルだった。

 金沢でも片町のうつのみやさんで本を買ったりすると、すぐ近くのジャズの店「Y」へと行くのが、正しい書店退店後の習慣だった。

 「Y」は言うまでもなく、「YORK(ヨーク)」である。マスター奥井氏と買ってきた本について語るのも、楽しいひとときであった。そう言えば、うつのみやさんもYORKも、片町から今は香林坊に移っている。

 ジャズは読書の偉大なる、いやそんな大げさではなく、かけがいのない友だった。

 今から思えば、やはりジャズという音楽のもつ多様な感性の集合体みたいな要素が、いかに日々の重要なスパイスになっていたかが分かる。

 特に学生時代の濫読状況とジャズを聴く時間というのは絶妙なマッチングだったと思う。

 ジャズの店に入って、2~3時間。コーヒーカップはとっくに下げられているが、LPレコードで言えば、片面で4~6枚分ぐらいは聴いていたことになる。

 聴き流しているといった感じでもあるが、あの空気感があるからこそ、文章読みも進んだに違いない………

 今年から、ある小さな協会の機関誌で巻頭エッセイみたいなものを書いているが、最初の号では年の初めの一冊の大切さみたいなことを短く綴った。

 その年の一冊目がその年の読書事情を左右するという、自分のことを書いた小文だ。

 その中で最近の読書について、仕事のためが多くなり、文章を読むという素朴な楽しみが薄れてきた……といったことを書いている。

 著者(というよりも作者とか書き手という方が好きだが)の表現の仕方が、本来文章そのものを面白くし、読むことの楽しみを創り出しているという思いがあるからだ。

 そうした情緒的に響いてこない文章は、正直言って読み甲斐がない。

 ジャズと一緒に追っていた文章が面白かったのは、そういう感性が瑞々しく、どんどん磨かれていたからなのだろう。

 最近、妙な読み方というか、ちょっとハマっているのが、図書館で短編集を借りてくることだ。

 読みだして、面白いなあと思う作品だけ読む。そして、飽きてくるとすぐに図書館へ行き、返却してそのまままた新しいものを借りてくる。

 すでに一ヶ月で、五冊以上は借りてきた。あまりいい傾向だとは思わないが、何となく日々の潤いをそうした読書に求めているような気もする。

 と言っても、きちんと書店買いもしており、やはりここぞというやつは自分のモノにしておく。

 そういう類のモノは、最近 YouTube で流れるジャズと一緒に読んだりするのである………

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

下品な日々

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前にも書いたことがあるが、香林坊日銀裏でかつて繰り返されてきた、今は亡き奥井進さんとの会話の中に、「下品やねぇ」という言葉がたまに使われていた。

ボクたちは、ただひたすら自分のために時間を過ごしている状態を「上品」と呼び、仕事のことしか今は考えられないなどといった時間の過ごし方を「下品」と呼んでいたのだ。

一週間ほど店に顔を出さないと、「どうしとったん?」と問われ、「ちょっと忙しくてね」と答えると、「そうなん、下品やねぇ」と言われる。

「私的エネルギーの追求」などといったテーマで雑誌を発行し、ひたすら自分らしくいられる時間を得ようと、静かに息巻いていた時代だった。

今から思えば、ただ中途半端であっただけで、それ以外に何とも表現できないさびしい時でもあった。

でも、今でもアタマの中でこの「下品やねぇ」を使うことがある。

第三者に言っても仕方がないので、自分だけに言うのだが、ただそういう場合は、余計にクールな響きになったりして虚しい。

上品でいたければ、会社なんか辞めて好きなことをやっていればよかったんだよとも言われそうだが、そこがまた「ニンゲンの意外性」などといった別なテーマも掲げたりしたものだから、仕事をしながら私的エネルギーを燃やし続けているということにも、意味を持たせていたわけである。

結局、話をややこしくしていたのは自分自身であり、上品であるとか、下品であるとか、表現の遊びみたいなことをとおして自分をかばっていただけかもしれない。

そう言えば、最近、楽しいという感覚が分からなくなってるなあと思う。

単純に言えば、楽しいと感じる時間がないからなのだろうが、これは一種の病気だ。

NHKの『とと姉ちゃん』を見ていると、雑誌作りに情熱を燃やす主人公に自分を重ねたりして、その純真さみたいなものに刺激されている。

胸が痛くなるような、諦めと羨望が混ざる感覚だ。

あれが家族を養っていくための手段だとする主人公の思いとはちょっと違うが、それでもよい雑誌を作りたいという気持ちは同じなのかもしれない。

結局、8号までしか出せなかったわが『ヒトビト』(雑誌の名前)だが、あの時の気恥ずかしさや気怠さも混じった妙な楽しさはしっかりと胸に刻まれている。

最近、一旦あきらめかけた絵本作家への道に、もう一度チャレンジしようと決意した、ある図書館司書の女性の話を聞いたり読んだりしたが、その再び立ち上ろうというエネルギーに爽やかで、すがすがしいものを感じたりもしている。

自分のことは半分あきらめて、そういう人たちをわずかながらでも応援しているだけで、少し満足出来たりもする。

4月に鳥羽まで電車の一人旅をやった。

現地で昔の大学の友人たちと合流したのだが、あの電車の旅はそれなりによかったような気がする。

車窓の景色とか、最近特に目を凝らして見るようにしていて、なぜか懐かしい楽しさを感じ取っていた。

休みの日、かつて仕事で出かけていた土地に、敢えて私的に出かけるということの新鮮な感覚も味わったりした。

「上品な日々」は、自分の意識次第ですぐ目の前に現れたりするのかもしれない。

そんなことを束の間思いながらの「下品な日々」が続いている……

 

星は星の数ほどある

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 ジャズや文学や落語やその他、日々のどうでもいいようなことを語り合ってきた今は亡き酔生虫(俳号)さんは、かつてこう言ったのだ。 「星は、星の数ほどある」と。

 経緯は忘れたが、当然何らかの流れの中から星の数についての話題に移っていった時のことだったろう。

 ボクもこう切り返した。 「と言うことはやはり、山は、山ほどあるんやろね」

 東京からの帰りの、特急「はくたか」の中・・・・

 イヤホーンから耳へと入ったキース・ジャレットとチャーリー・ヘイデンのデュオが、そのさらに奥へと静かに響いていき、生まれつきわずかに内蔵されてきた脳ミソに安らぐとはこういうものぞと教えている。

 窓外の景色はすでに闇の中だが、様々な明かりが小さく刻まれた雪景色を浮かび上がらせていた。

 相変わらずオレは疲れているんだと思う。そう思いながら、でも気のせいかも知れないぞと自分に言い聞かせてもいる。そうやってここまで来てしまったのだとも考えている。

 人生には、世の中には考えなきゃならないことがたくさんある。 普通に言えば、山ほどあるということになる。

 ボクは山が大好きだが、日本に山というものがいくつあるのかは知らない。とにかくたくさんあることになっている。

 しかし、星の数ほどはないのだから少し安心しよう。

 座席シートの暖房が強く、背中から眠気がやってくる。 もう少しだけ活字を追って、そのまま潔く眠ることにする……

奥井進が語った午後~ジャズ人生からジャズ的人生へ

この文章は、1998年5月に創刊したプライベート誌『ヒトビト』に綴ったものだ。ほんのちょっとだけ加筆した。

「ヨーク」のマスターとして、多くの人たちに愛された奥井サンが、亡くなる五年前に語ってくれた自分自身の一部だ。

暗い開店前の店で、途中からノリが悪いからとビールを飲みながらのセッションになった。

6月17日は、奥井サンの命日だ。そして、奥井さん夫妻の結婚記念日でもあった……

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「ジャズ人生から ジャズ的人生へ」 ~ 近くでトーク

●八尾に生まれる……

金沢の東部にある神宮寺という町から、奥井サンは歩いて香林坊の自分の店へとやって来る。所要時間は約一時間、ひどい雨降りや特別なことがないかぎり、とにかく歩くことにしている。

ただ歩いとるだけや

と、奥井サンは言う。見る方からしても、いかにもただ歩いているだけのように見えるから、やはりただ歩いているだけなのかも知れない。

しかし、実は意外(失礼だが)とそうでもないのだ。やはりと言うか、さすがにと言うか、とにかく、奥井サンはただ歩いているだけではないのであった。

奥井サンは、昭和19年(1944)10月22日、富山県婦負郡保内村字松原に生まれた。風の盆で有名な現在の八尾町である。ちなみにイチローと同じ誕生日なのだそうである。

17歳で富山市内に出た頃からジャズに染まり始め、それ以後、今日に至るまで、ジャズとの付き合いが続いている。

『 オレも小さい頃は子供やったんや。電気も水道もない、山の中の川あり谷ありの、田舎のハナタレやった。

 東京で、和菓子職人の修業をしていたおやじが、体が弱かったせいで田舎に戻り、本家のある村からさらに山奥にあった土地を譲り受け、そこに家を建てた。

 そこら辺は、引き揚げ者や農家の次男坊、街からの入植者などが開いた所やったんやな。

 電気がないから、ランプ生活。水は手押しポンプの井戸やった。スイカやトマトが冷たくて美味かったわ。

 晴れ渡ると、目の前に立山連峰が広がって、毎日その雄大な景色を見とったせいで、視力は4.0やった(当然測っていない)。今も目はいいんや。

 小さい頃、何をして遊んでいたか覚えとらんなァ。保育所もなかったし、野山で遊んでたんやろなァ。下(の村)まで行かないと、子供もいなかったし…。小学校に入るまで、字は読めんかった。

 町に近い所におふくろの里があったんやが、そこまではアイスキャンデー屋が来た。そこまで来るんやけど、そこでみんな売り切れてしまって、うちまでは来ないんや。だから、夏おふくろの里へ行くのが楽しみやったなァ。

 魚の行商というのも来たわ。朝の早くに町を出て昼頃にうちの辺りへ来るんやねェ。それでうちが最後やから、売れ残ったもん全部置いていくんやわ。山奥やったけど、結構魚は食べとったな。魚の行商人は、それからうちで弁当を食べるんや。そして食べ終わると、夕方近くまで昼寝をした。そして目が覚めると、「あんやと~」と言って帰って行く。

 なんか、今から考えると、のんびりとした時代やったんやねェ。おやじの小学校の同級生に、町で床屋をやっている人がいて、その人が二ヶ月に一回ぐらい村にやって来た。自転車に床屋の道具を積んで、山道を登って来るんやね。今で言うボランティアだったんか、それとも商売だったんかは知らんけど、とにかく、そんなとこでオレは育ったんやわ。

 初恋? そんな相手もおらんがいね…… 』

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17歳で富山市へと出た奥井サンは、ジャズと出会う。当時ジャズファンの間で人気のあったNHK・FMの「ジャズ・フラッシュ」という番組が、そのきっかけだった。

山間の自然の中で育った奥井少年にとって、ジャズとは一体何だったのだろうか?

『 ジャズが好きになったってことだけやね。何となく、自然に身に付いとった。もう死んでしまった巨匠たちが、その頃は現役のバリバリやったしね。

 ニューポート(富山市のジャズ喫茶)に出入りするようになり、常連になっていくうちに、何となく店を手伝うようになったんやわ。それで、そのまま従業員として働くようになって……』

奥井サンは、当時住み込みである仕事をしていたが、どうもそちらには本腰が入ってなかったらしい。ジャズとの出会いは、そんな奥井サンにとって、新しい何かの発見だったのかも知れない。

『 もともと何か目的があったという訳でもないし、そういうものがあったとしたら、富山ではなく、東京へ行ってたかも知れんね…』

20歳を過ぎた頃、奥井サンはすでに150枚ほどのレコードを持っていたという。すでにかなりのジャズ通になっていたようだ。

そして、24歳の時、「ニューポート」が金沢に店を出すことになり、その店の店長として金沢へ行くことになったのである。

「ヨーク片町」の誕生。金沢で、奥井サンのジャズ人生がスタートする。

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●金沢のジャズのメッカへ

ヨーク片町の開店は、1969年の12月22日。マイルス・デイビスが歴史的な名作「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、ジャズ界が大きな転換期を迎えようとしていた年だ。

もちろん、そんなこととヨークの開店とがリンクしているのではないが、とにかくジャズがハゲしく熱気を帯び続けていた時代、そんな時代に、ヨークは金沢に新しい風を吹き込んだのである。

当時、金沢には「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ヨークより二年前にオープンした聴かせ派の店で、狭い店内にJBLの名器から弾き出されたジャズが蔓延する、密室っぽい雰囲気に満ちた店だった。

ヨーク片町もまた、当時のそんなジャズ喫茶スピリットを継承しながら開店した。しかも、詰めれば百人は入れる広いスペースを持っていた。ライブをやる時には、テーブルの間に丸椅子を置き、立ち見も入ると、立錐の余地もないほどまでに客で膨れ上がった。

『 片町時代は。完全なリスニングルームやった。当時はやはりジャズを聴く人間がたくさんおって、コーヒー一杯で二、三時間というのが普通やったね。メニューの種類なんてコーヒーとコーラ、それに紅茶とミルクぐらいや。酒はビールぐらいやったな。

 今みたいに、客としゃべったりする必要もなかったから、カウンターの中のターンテーブルの前で本ばっかり読んどったわ。活字中毒になったのも、そんなとこからかも知れん。純文学はもちろん、手当たり次第、何でも読んどったって感じやね… 』

片町時代の奥井サンには、突っ張った一面があった。リクエスト・アルバムのA面・B面が指定されていないと、敢えてB面をかけたりした(筆者もやられたことがある)。

70年代の中頃に、ジャズファンのみならず広く大ヒットし、その後のソロピアノ・ブームの火付けとなったキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」などは、あまりのリクエストの多さに、そのレコード自体を店に置かないことにしてしまった。それでもファンは集まったのだ。

『 昔のジャズファンと言うのは、ジャズ一辺倒が多かった。一旦、オレはジャズファンだと言ってしまうと、後へは退けないという雰囲気があった。

 他のジャンルの音楽を聴いとっても、聴き方が違うんやね。特に当時の若い連中には、そんなコダワリが強かったわ。(ジョン・)コルトレーンのハゲしいのを聴いていながら、歌謡曲なども聴いてた者もおったやろけど、何でか、ジャズになると皆それなりに一生懸命やった。だから、こっちも突っ張れたんや。

 オレは、決して啓蒙的なマスターじゃなかった。知ったかぶりの客には、わざと反対の意見を言ったりしたこともあったしね…… 』

当時の店ではよくライブが行われた。特に山下洋輔トリオは、オリジナルの最強メンバーでヨークへ乗り込んできては、とてつもなくハゲしく、そして徹底的に愉しいコンサートで盛り上げてくれた。

コンサートホールでのライブも、今とは比較にならないほど行われており、あのマイルス・デイビスが金沢の観光会館ホールで繰り広げた圧倒的な演奏は、奥井サン自身が未だに絶賛するものだったのだ。そして、そんなコンサートがあると、ミュージシャンたちの多くがヨークを訪れた。ただ、奥井サンの手元には、そんな彼らとの写真はおろか、サインなども全く残されていない。

●香林坊へ

1984年12月、ヨークは香林坊の日銀裏へと移転した。十五年を経ての移転だった。

新しい店は片町の店に比べ極端に狭くなり、それを機に、ジャズをガンガン聴かせると言う雰囲気も薄くなっていった。営業主体も夜型へと移行した。

若者だったジャズファンは結婚し、家庭をもち、ヨーク(ジャズ)から離れていかざるを得ない者もいた。そして、ジャズというよりも、ジャズを受け入れる社会そのものもまた、はっきりと様相を変えようとしていた。

『 まだジャズの店やっとるという強い意識を持っとったけど、昔ほどではなかった。突っ張っても返ってくるものもなくなったしね。客商売としての難しさも見えてきたんやわ。ジャズファンも含めて、軟弱になっていったんやねェ。

 突っ張り学生も来なくなった。生意気なのもね。サラリーマンとなって、仕事に追われ、家庭サービスにも気を遣うようになっていくと、気持ちがジャズ的ではなくなるんやね。

 金沢の大学にいた時によく来てたお客さんで、もう金沢を離れた人なんかでも、たまに出張で金沢に来ると、必ず寄ってくんやね。そして、決まってリクエストするんやわ。家に持っとるレコードなんにね。

 要するに、家はジャズを聴く場ではなくなったということなんやな。ところが面白いことに、そうやって比較的若い人たちよりも、さらに年配になってくると、子離れもすんでゆとりが生まれてくる。今更カラオケなどばかばかしいし、昔のようにもう一度ジャズでも聴いてみようかといった人たちも出てくるんやね。

 仕事での付き合いで飲みに出た時なんかでも、二次会や三次会のあと、ひとりになってやって来るんやわ。そして、たまに部下なんかも連れてきて、昔の話を自慢げにしたりするわけ。ジャズのこととか、学生運動時代のこととかね…… 』

香林坊に移ってから、ヨークはコミュニケーションの場的匂いを強めていく。奥井サン自身も、ジャズ的な感覚で得られるさまざまな愉しみなどに手を広めていった。

『 シャイな時代になったんやわ。別に寂しくもないけどね。ジャズもおかしな風に流されていったように感じるんやね。ジャズって下種(ゲス)な音楽やったもんや。それが何だか、気取って、大人ぶって聴かなければならんものになってしまったもん。

 何にも分かっちゃいない連中が、ジャズを変な風に解釈してるんやわ。ジャズが好きやから、ジャズなら何でもいいと言うのとは違うんやけど、どうもそこらへんがおかしいんやね。

 だから、最近金沢でやってるジャズのコンサート行っても感動せん。ジャズじゃなくなった。なんでかよう分からんし、屁理屈でジャズを語りたくもないけど…

 ジャズの店には、ジャズの店にしかないことってあるんやねェ。例えばレコードのジャケットを見せることとか。ジャズの話を始めたカップルがいると、ちょっと変わったものをかけてみる。ジャケットを見ることで話も弾むんやわ…… 』

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●ジャズ的人生の始まり

ヨークには個性的なニンゲンが集まる。特に香林坊に移ってからは、ジャズそのものよりも奥井サンとのコミュニケーションを求めて来る客が多くなった。個性的なマスターに、個性的な客が集まるという典型だ。

『 毎日、同じ日がないという愉しみを知ったね。同じ客が来ても、同じ愉しさは生まれないけど、別な愉しさは生まれる。毎日がジャムセッションなんやね。

 でも、最近、若い女の子があまり来なくなったな。昔の娘さんばっかり。現役の娘さんが来なくなって、古いのばっかりやね……』

奥井サンの雑学博識は有名だ。酔っ払ったらダメだが、記憶力もかなり凄まじい。活字中毒がもたらした知識の蓄積と、興味をもったものに対する飽くなき追究……?

『 だいたい五時半頃に店開けるんやけど、始めの時間帯って客も来ないわね。そんな時、独りでカウンターの椅子に座って、本読んどるんやけど、そのままなかなか誰も来ない時がたまにあるんやわ。

 そんな時は、活字中毒に火がつく。とにかく何でも読むんやわ。棚に置いてあるものを引っ張り出してね。

 広辞苑だろうが、植物図鑑だろうが、とにかく何でも、広辞苑は飽きないし、読み尽くすということがないからいいねェ。

 読むものは古いとか新しいとか、和洋など問わないで、とにかく面白いと思った本を買って読むんやね。時折、中味が難しすぎて、一日数ページしか進めなかったということもあるけど、それもまたいいんやわ…… 』

黒髪をアップで束ね夏野行く  酔生虫

奥井さんは、かなり前から俳句をやってきた。俳号は「酔生虫」という。これは「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉からとったもので、本来の意味は「酒に酔ったように、また夢を見ているように、無意味に一生を送ること」ということだ。

しかし、実に全くこんなに的を射たネーミングはないと思ってしまう。言葉の意味はもちろんのこと、こんな言葉を探し出してきた奥井サンらしさに敬服してしまうからだ。

『 俳句は、きちんとした会の中で始めた。その後は、店の中で客たちとやるようになったけど、とんでもない理屈こきが多くてね。先生の言うことなんか全然聞こうともせん。ほんとにまあ、たちの悪い門下生ばっかりやわ。

 ここ十年ぐらいの間に、いろんなことをやるようになったね。山野草にも相当のめり込んどるけど、あれはやっぱ、小さい頃から鍛えられたもんが生きとるね。母親からもいろいろな名前を教わっていたせいか、目に見える花の名前は、ほとんど知っとったもんね…… 』

奥井サンは、よく酔っ払う。

店のマスターなのに、かなりハゲしく酔っていたりして、客なのかマスターなのか区別がつかなくなったりする。だから二日酔いの日も必然的に多くなる。

しかし、奥井サンは奥さんと一緒によく近場の低山へと出かけているのだ。バードウォッチングへの傾倒も、その延長線上にあったものだろう。

『 ヨークは、自然に趣味の話が出来る場になっとったねェ。別にグループを作って、何かやろうというのではなく、各個人のこととしてね。

 今、カメラやっとるけど、あれも奥が深いわ。最近あんまり撮れんようになった。前は何でも撮っとったけどね。別に撮った写真をどうするでもないし…… 』

奥井サンの写真には、何か独特な雰囲気がある。それが一体何なのかというと難しいのだが、技術などといった俗な評価軸では済ましたくない。そして、それもまた、少年時代の奥井サンに沁み込んだままの何かなのかも知れない。

『 基本的にあるもんは、自分で愉しむってことなんやわ。それができんかったら、何も意味ないわね。他人に強制したりもせんしね、面倒くさいことも、とにかくしない…… 』

あの人は、現代の仙人みたいや…と、奥井サンのことを評した者がいた。たしかに奥井サンには、街という煩雑な空間の中に居ながら、その時間の流れや、取り巻きに左右されない何かが潜んでいる。

『 休みかあ…、そんなもん考えたことないなあ。毎年、大晦日から元旦の朝にかけてオールナイトやって、元旦の夜だけは店閉めるけど、あとは全く休まんね。休みという感覚そのものがないんやわ。

 旅行なんてものも、ほとんどしたことない。新婚旅行も行ってないし、大阪(奥さんの実家がある)へも、結婚後一回も行っとらん…… 』

金沢に来て三年後、27歳の時に奥井サンは結婚している。優秀な息子が二人。当然二人とも成人している。

『 分かるやろけど、とにかく父親らしいことはしてないんやわ。教育なんて認識はナシ。夜は全く家にいないし。行楽などもない。

 母親の教育が良かったんやろと思うけど、父親を軽蔑するような息子たちではなかったね。意見がましいことも言わんし、そんな意味じゃ、二人とも男でよかったわ。

 「お父さんは、のんびりしてていいねえ…」なんて生意気なこと言うもんやから、「毎晩、酔っ払いに絡まれて大変なんやぞ。だから、それを紛らすのに酒を飲むんや」などと、言い返したりする。説得力なしやけどね。

 でも、「お父さんは好きなことやってればいいよ」なんて、いいこと言うしねェ。やっぱ、頭が上がらんわ…… 』

来年(1999)の12月で、ヨークは30年になる。今でも新しい客が訪れ、潜在的な部分でヨークは確実に変化している。

奥井サンは今53歳。いつもオープンな店でいたいと言う。“個性派の集まり”という店の個性も奥井サン自身が作り上げたものだ。だから、安易に息子たちに店を継がせるなどといったも考えていない。にじみ出てくるものというのは、単なる店の内装だとかといった単純なものからではないということを、奥井サンが教えてくれる。

『 元気なうちは店をやっていく。でも、そんなことも考えたくないね。ジャスを広めたいという気持ちもないし、息子たちにもそんなこと求めんわ。

 ジャズの店はもう再生しないと思うんや。音を絞ったりして聴くジャズは、やっぱりちょっと違うんやね。ライブでもパワーが感じられない演奏を、皆がそんなもんかと聴いとるわね。あれはもうオレにはジャズじゃない。

 もっきりや(ヨークの二年後にオープンした金沢柿木畠のジャズの店)は頑張ってるけど、やっぱり昔みたいに、大きなホールで、バリバリなのがコンサートやるようにならんと、金沢のジャズシーンは元に戻らんわ。それも、むずかしい話やけど…。

 これから? 

 これからは、ますます趣味の世界やし、死んだら終わりやけど、死ぬまでは店もやる。毎日は愉しいね…。やっぱ、ジャズ・フィーリングなんやねェ。

 いつやったか、もう店やっとるのがイヤになったことがあるんやわ。

 その時、(山下)洋輔さんから、「毎日、違うお客さんが来て、毎日、アドリブですね。そういうことを愉しみながら、毎日、エヘラエヘラとやっていけばいいんじゃないですか。金沢にヨークがなくなったら、ボクたち寂しいですよ。第一、儲けようなんて思ってないでしょ…」なんて言われてね。

 金はあった方がいいけど、たまに若い女の子も来るから、また頑張るかなって思った。

 あんまり、面白い話にならんかったねェ…… 』 (終わり)

・・・・・・・ いつも普通に話していたのだが、その日の会話は特別なものだった。

二時間半の、特別な時間。そして、セッションは終わったのだ……

ヨークは、今も香林坊日銀裏で奥井サンの妻・禎子さんによって営業を続けている・・・・・・

『津軽海峡冬景色』at YORK

ボクの話によく出てくる金沢の古いジャズ喫茶・YORKが、まだ片町にあった時代の、ちょうど今頃の季節の、ある夜のこと……

深夜12時が過ぎ、一応閉店時間を迎えた店に短い静寂が訪れていた。

切れのいいジャズを、ガンガンと店内に吐き出していたALTECの大きなスピーカーが、おとなしくなっている。

あれ聴くけ? マスターの奥井さんが言った。

ボクは何と答えたか覚えていない。ただ、あらかじめ聴くことにしていたのは間違いなかった。

奥井さんが手を伸ばして、棚の上からそのLPレコードを取り出した。

しばしの緊張に、息を殺す。そして、次の瞬間…、哀愁を帯びた演歌のイントロが流れてきた。

“上野発の 夜行列車 おりたときから~”

そう、ご存じ『津軽海峡冬景色』の切ないメロディーだった。歌うのは、もちろん石川さゆり。

再び鳴り響いたALTECも、ちょっと戸惑い気味だったが、すぐにこちらも慣れていく。

ボクと、奥井さんはレコードに合わせて歌い始めた。

最初は少し照れ臭かったが、少しずつ歌うことにも慣れてくる。

カラオケとは違い、ここはジャズ喫茶だ。

徐々に声が大きくなると、歌いながら、なぜか胸が熱くなってきた。

2コーラス目になると、歌詞が覚束なくなったが、トーンダウンしながらも、

“津軽海峡 冬景色~”のところだけは、見事に歌い切る。

ボクにとって、モダンジャズは音的に言うと、やや乾いた感じがしていた。

それに対し、津軽海峡冬景色の音には、何となく潤いを感じた。いい意味の湿っぽさがあった。

こんな感覚は初めてだ…、ボクはヨークの薄汚れた天井を見上げながらそう思っていた。

 

インフルエンザ風邪の最中や、病み上がりの途上中、何をしても中途半端でどうしようもなく面白くない時間が続いた。

当たり前なのだが、まず体力がない。もともと乏しかった思考力もますます低下している。

体力や思考力の低下は、持久力の低下にもつながっていくし、何よりも感性を鈍らせた。。

たとえば音楽などは、何となくダメだった。

垂れ流し的にかけていようとしたアルバムが、途中からなぜか煩わしくなってくる。いつものようにはシックリこない。

音楽はやはり、感覚に左右されるものなのだろう。

体調の悪い時には、いい音楽もダメなのが分かった。

一曲に絞り込んで決め聴きするみたいな場合はまだいいが、ただ垂れ流していては余計に神経を逆撫でされてしまう。

音楽との長い付き合いの中で、こんな感覚を味わうのは初めてだった。

そして、その時に、あの夜の『津軽海峡冬景色』を思い出したのだ。

あの時、YORKという場所で聴いた(そして歌った)あの歌は、本来なら全く異質だったはずなのに、ひたひたと胸に迫るものをもっていた。

本当に心に沁みてくる歌というのは、こういうものなんだなあと柄にもなく思ったりもした。

あれ以来、実はあの『津軽海峡冬景色』が大好きになった。

あの夜、自分に一体何があったのかは覚えていない。

何かがあって、それを忘れるためとか、吹き飛ばすためにYORKにいたとも思えない。

しかし、やはり、あの歌は心に沁みた。

“さよなら あなた 私は 帰ります~”

何とも切ない歌詞がアタマに浮かんでくる。石川さゆりの悲しい表情が、その歌詞とだぶる。

そう言えば、最近あの歌を聴いていない………

 

 

マイルス・デイビス没後20年特別番組

 

昨年12月に書いた『マイルスから始まった…』( http://htbt.jp/?p=1730 )。金沢で唯一行われたマイルス・デイビスのコンサートを再確認しようとしたイベントの話だが、そのイベントの中で貴重な資料として提供してもらった映像がテレビで再生・再演された。

マイルス・デイビスが他界してから9月28日で没後20年となることの記念番組で、9月30日の深夜というか、日付は10月1日になっていたが、NHK総合テレビで再放送されたのだ。

番組名は「マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973」。深夜1時40分からのスタートだったので録画し、翌日の昼飯時、インスタントラーメンなどを食べたりしながらじっくりと見た。

ところで最近、チャンポン麺に乾燥したキャベツが入ったやつをよく食べている。それにモヤシをドサッと入れて野菜ラーメンらしくすると、塩味の美味いラーメンになる。モヤシは「雪国もやし」というやつを使う。なにしろパッケージのロゴの上に、「高い理念」と記されていて、その仰々しさが心を揺さぶった。高い理念・・・マイルスに通じるではないか?

話はそれたが、放送されたものは、73年6月20日、東京新宿厚生年金会館ホールでのコンサート。約10日後の7月1日にNHKの「世界の音楽」という番組で放送された。そして、その7月1日こそが、金沢公演の日だった。だから当夜、金沢市観光会館の最前列ど真ん中で、マイルスをかじり尽くすように見ていたボクはこの番組を見ていない。こんな番組があったことも知らなかった。

部屋に当時の膨大な資料(イベント用に収集した)が置いてある。探すのが面倒だからやめておくが、後の音楽展開の起点となっていったエレクトリック・マイルスの全盛期とも言うべき当時のコンサートには賛否両論があり、ボクは生意気にも後者の方に属していた。そのあたりのことやイベントのエピソードなどは『マイルスから始まった…』で詳しく書いた。

それから30年後に、かつて金沢公演に近い音源を求め再現を試みるという無謀なイベントを企画し、かなり入れ込んでいたボクとしては、このライブ映像は超宝物に近い存在だったのだが、実は8年前すでに入手していたのでもある。名古屋のジャズ愛好家の方からもらっていた。イベントの企画に共鳴していただいたのだ。

金沢での伝説のコンサートは、実はこの頃のマイルスに録音がなく、微妙な記憶に留まっていた。その全貌を伝えてくれたのが、このDVD(NHKの番組映像)だったというわけだ。それまでにも海賊盤などで、時期的に近い演奏を確認していたが、映像は完璧にそれを超えるものを伝えてくれた。

金沢公演の新聞広告もあり、後日の夕刊に掲載されたコンサート評記事もあった。コンサート評の筆者は故奥井進氏だ。そして、コンサートの写真は北國新聞から買った。その他、当夜観光会館に乗りこんだマイルスファンが撮った写真も多く提供してもらい、それらの複写もさせてもらった。それらの写真は、金沢市尾山町のジャズクラブ「Bokunen」などに上げた。店内で見ることが出来る。

中居のコンサート評はというと、前にも書いたが決してよくはなかった。19歳のジャズリスナーは、その音量とロックビートに我を失い、最前列真正面に陣取っていながら、ただただマイルスのカッコよさに圧倒されていただけだった。

しかし、8年前、いただいたDVDを見た時、マイルスの額や鼻先から落ちる汗を見て、ボクはかなりハゲしく感動したのを思い出した。そして今回、より鮮明になった画像から、もう一度マイルスの強い意気込みを感じ取った。若いメンバーたちを鼓舞していくコンポーザーとしてのマイルスに、あらためて果てしのない凄さを感じた。

当時、ジャズ的匂いは、サックスのデイブ・リーブマンにしか感じなかった青臭いボクは、その後のジャズ的マイルスへの再認識へと進む。

 ボクの中には、この時代以降、ジャズはジャズ的ではなくなったという認識がある。つまり触発される音楽ではなくなり、現在に至っては癒やし音楽みたいになってしまったと感じている。そういう性格も当然発祥からあったし、それもそれなりに悪くないのだが、今も映像を再生させながら、もう40年になろうかとしている時の流れに戸惑っている。

当時のマイルスのサウンドのように、自由なセッションから創り上げていく手法は、ボク自身の仕事やその他物事の進め方にも通じている。こんなことをマイルスから学んだなどとは思っていないが、どこかにそんな気配を感じて嬉しくもなる。いい歳になっても、こういう感覚は変わらないのだ・・・

 ※写真一部 NHKテレビ画面より・・・

香林坊に会社があった頃~その2

 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。

稲見一良… オトコ、そして少年のこころ

稲見一良という作家の存在は、広く知られているというわけではないだろう。だいたい、「一良」と書いて「いつら」と読むこともめずらしく、ほとんどの人はそのとおりに読めないに違いない。知っていればこそ読める名前なのだ。

ボクと稲見一良との出会いは、もう二十年くらい前になる。神田・三省堂本店の一階フロアで手に取った一冊の本から、ボクにとっては稀なケースと言える付き合いが始まった。

その本が『ダック・コール』である。タイトル写真にあるのは文庫で、ボクは当時出たばかりの単行本を買って、すぐに近くの喫茶店に入り、そのまま出張帰りの新幹線の中でも読み耽った。特に買おうと思った理由というのは、その中の第一話『望遠』の出だしに気持ちを奪われたからだ。

“ 腕時計のアラームが、フィルムの空缶の上で躍るように鳴った。若者は、たった今まで熟睡していたとは思えない素早い動きで、寝袋から腕を伸ばしてアラームを止めた。「四時半」若者は夜光の文字盤を読み、頭をおこしてまずカメラの方を見た。ゆっくりと起きだした。…………………”

ボクの頭の中でもアラームが躍るように鳴っていた。そして予感は予感を呼び、これは絶対に面白いと、ボクは勝手に決め込んでいた。やはり予感どおりだった。そのストーリーはボクの単細胞にストレートな衝撃を与えた。

まだ一人前とは言えない映像カメラマンの若者が、大プロジェクトの中のワンシーンの撮影を任される。それは、三年前に撮影されたと同じ月日、同じ時刻の日の出を撮り、街の変貌を伝えるという内容の企画だった。そして、若者の仕事と言うのは、絶対動かしてはいけない固定されたカメラのスイッチを単に入れるだけのことだったのだが、若者はその直前にカメラの向きを変えてしまう。若者が向けたカメラの先には、幻の鳥と言われる「シベリヤ・オオハシシギ」がいた……

プロダクションの中などの人間模様と、正義感や理想に燃える純粋な若者との葛藤もそれほど濃くもなく表現されており、この話は圧倒的にボクの胸を打った。こうして、一応ボクと稲見一良との付き合いは始まったのだが、どんどん読み続けていくと言うほど作品はなく、断片的な付き合いだったと言える。

それから何年かが過ぎた頃のこと、いつもの香林坊YORKで、マスターの故奥井進さんから一冊の本を見せられた。これ面白いよと言ってカウンターに置かれたのが、なんと『ダック・コール』の文庫本だった。ボクの記憶では、三省堂で買って帰った後日、ボクはたしかに奥井さんにその本を見せていたと思う。奥井さんとは、ほとんど互いに読んでいる本のことは知っていたはずだった。

ボクはすぐに、その本のことを話したが、奥井さんは覚えていなかった。ただ、同じ本を奥井さんがボクに勧めるなんて、やはり共通の好みがあるなあと嬉しくなったりもした。

そして、その後、奥井さんもボクも、稲見一良の本を何となく気が付いた頃になると読んでいたということを繰り返していく。

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稲見一良の物語には、大人の男の世界に少年の世界が深く沁み込んでいて、読んだ後夢を見ていたような気持ちになったりする。どこにそれを実証するものがあるのだろうと現実を考えたりするが、それは当然創作であり、幻想の世界でもあるのだと納得しながら楽しまなければならない。

たとえば、『セント・メリーのリボン』に収められている『花見川の要塞』という物語には、現代から戦時中へとタイムスリップしていくカメラマンの話が綴られているが、その非現実性は、まさに少年の心があるからこそ受け入れられるものだ。かつて敷かれていたという軍用列車が、深夜、白煙を上げながら夏草や蔓に被われた現在の花見川の土手に現れる……。

どこかで聞いたような話ではあるが、稲見一良のストーリーには、自然風景はもちろん、銃や機関車やカメラなどの詳細な解説・描写が絡み、どんどんと読者をリードしていく何かがある。好奇心を煽るような、ウキウキさせてくれるパワーに酔わされていく。

『花見川のハック』という同じ花見川の名を冠した短編があるが、ハックという冒険好きで、正義感が強く、そして心優しい少年が、花見川でアヤメという少女と出会い、最後はお婆ちゃんが待つ京都へ旅立つという話だ。なんの変哲のない話に見えるが、ハックとアヤメはゴンドラに乗って京都へ行く。そのゴンドラを運ぶのが、なんとナス(野菜の)なのである。面倒なので詳しくは書かないが、そんな結末を聞かされると、かえって読む気も起きなくなるかもしれない。しかし、実際読んでいくと、これがまた実に楽しくなり、嬉しくなっていくから不思議だ。

このような世界こそが、ボクにとっての稲見一良の素晴らしき世界なのだ。自然や趣味や男臭さや少年の心や、空想や理想や夢やこだわりやと、とにかくたくさんのものが凝縮されている。

稲見一良の世界から、ボクは多くの記憶を蘇らせることができた。

十歳くらいのことだろう。裏の雑木林の斜面を登った所に、木の板で組んだ隠れ家みたいなものを作り(作ってもらったのかも)、そこで漫画本を読み、お菓子を食べ、そして友達が家から持ってきたタバコを吸ったりしていた。クワの実やグミなどを採って来ては、そこでみなで食べた。

砂浜に埋まっていた不発弾を掘り起こし、三人がかりで抱えて友達の家の裏に埋め、自衛隊が回収に来たこともあった。自慢したくて学校で口が滑ってしまったことがボクたちだけの大騒動につながった。もちろん、もし爆発の危険性があったら、ボクたちだけの大騒動で済んでいなかったのだ。

カモの子を河北潟かどこかで生け捕りにし、使われなくなった鳩小屋に入れて飼おうとした。そのカモに餌として与える虫などを、必死になって採りに行っていたことなども鮮明に思い出した。音楽やら映画やらいろいろとませたことも身につけていたが、こういう遊びは絶対的な事としてなくなることはなかった。

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本当は最初に書くべきことなのかも知れないが、稲見一良は自らが癌に侵されていることを知ってから、敢えて作家になったという稀な人なのだ。一九八五年に発癌しデビューしたとのことだ。そして、その後一九九四年に亡くなるまでの短い作家活動で、稲見一良の独特な世界を作り上げている。

ボクは今、稲見一良のファンであると公言できるが、これまで本当にそうであったのかというと、正直どこかに単発的なファンみたいな自覚しかなかったように思う。しかし、今年に入ってから、再び無性に稲見一良の作品、いや物語を読みたくなった。

何がそうさせたのかは分からないが、自分自身を純粋に見据えていくためとか、自分の素性や血を知るためとか、どこかそういうものに近い何かが自分を動かしたように思う。

少年、男気…。自然、夢、憧れ…。趣味、余計な気苦労…? そんな青臭い何かが、やはりどこかに生きていないと、ニンゲン、特に男はダメなのではあるまいか?

そんなところまで考えてしまっているのである………

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

部屋の整理をしていたら、懐かしいものが出てきた。2002年12月21日の日付が記されたカセットテープ。

当時2年がかりでやっていた自主企画・自主運営イベントを紹介するNHK-FMの録音テープだ。翌年の本番に向けたイベントの準備などを追って、ボクを取材してくれていたNHK金沢放送局のT野アナともう一人女性アナ(名前忘れた)の番組に、ボクがゲスト出演し30分ほど語っている。土曜午後の東海北陸向けの特別番組で、録音してくれたのは、金沢・柿木畠、喫茶「ヒッコリー」のマスター水野弘一さんだ。

 ボクが企画していたのは、ジャズ界のリーダー、マイルス・デイビスが1973年7月1日に金沢で行ったコンサートを振り返り、常にジャズシーンをリードしてきたマイルスが、当時金沢でどのような演奏をしていたのかを再確認しよう!というイベントだった。

簡単に書いてしまったが、たぶん、ジャズのことなんか知らないの…という人には、どうでもいい話だろうし、自分でもこのことをきちんと伝えることのむずかしさは骨の髄まで痛感している。最近ジャズが好きになったの…という人にも全く解りづらいだろう。つまり、ボクはそんなことをやろうとしていた。

30年前のコンサートを再現するようなイベントというと、誰でもコピーバンドを入れたらいいと思うに違いない。しかし、コピーバンドではダメだった。マイルス・デイビスそのものでないとダメだった。しかし、マイルスはもうすでにこの世にいない。もし生きていたとしても、もう演奏スタイルは違うし、それに根本的にボクがマイルスを金沢へ呼ぶなんてことは不可能だった。

で、どうするかと言うと、残されたレコードやCDをとおして、当時の演奏を再確認するしかないのだが、1973年の日本公演ツアーは“正規”録音がされていなかった。だから、その前後の録音モノから金沢での演奏スタイルを想像するしかなかった。

話は、ますますややこしくなる…… なんで、録音が残されていないか? そんなこと知るか…と、ここまできて開き直るのも申し訳ないから、もうちょっと書こう。


マイルス・デイビスというミュージシャンは、とてつもない創造者だった。常に変化し続けていた。マイルスの音楽は、いつも先を行っていて、実験的で批評しにくく、ライブ自体が彼の創造活動になっていて、スタジオでの録音ですらも即興型のライブ形式で出来上がっていた。それも73年あたりでは、もうスタジオでの録音はほとんどなくなっていたのだ。つまり、マイルスはもうステージでの演奏でしか、自分の音楽を表現できなくなっていて、一曲が何十分にも及ぶ演奏で、聴き手にメッセージをぶつけていたと言っていい。ちょっと、一休みしよう…

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マイルスが金沢にやってきた当時、ボクは午前中家の手伝い(アルバイト)をし、午後からは、当時大手町にあった市立図書館で受験勉強に打ち込むという、刑務所で言えば模範囚に値する優良浪人生だった。

余談だが、この頃のボクの切り替えの素早さには、自分でも凄いものを感じていた。アタマを丸刈りにし(といっても、元野球部だったから特に傍目の違和感はなかっただろうが)、裾が閉まった綿パンにTシャツ、素足にサンダル履きというスタイルで、時間をキッチリと配分し毎日を過ごしていた。図書館での勉強スタイルも予備校組よりはるかに効率的にこなしていたし、勉強時間は昼から夕方までと決めていて、帰りにYORKに寄ったりすることは、ボクの中では正しい息抜き兼充電のひとときでもあった。マスターの今は亡き奥井進さんとは、その頃すでに親しくなっていたから、YORKではかなりのんびりできたと言っていい。

      ※コンサートの夜のことを語る奥井さん

実はマイルスのコンサートを振り返る時、奥井さんが地元紙の夕刊に書いたコンサート評の記事がボクにとって貴重な資料となった。当時ボクはジャズがかなり解り始めた頃だったから、マイルスがロック志向に走っていることに大いに不満を持っていた。分かりやすく言うと、ロックはガキの音楽なのに、なぜ偉大なマイルスがロック志向になっているのか…などと、生意気なことを思っていたのだ。実際には、マイルスの演奏スタイルはロックをベースにしたサウンドになってはいたが、そんな安直な解釈だけでは説明できないものだった。さらに高い次元の音楽が創造されていたのだ。

そのことを、われらが奥井さんは見抜いていた。そして、素直にあのコンサートでのマイルスのサウンドに驚いたことを新聞に書いていた。

何のMCもないオープニング。緞帳が上がるのと同時に始まった演奏。大音量が音の風になって、最前列ど真ん中にいたボクの顔面にぶち当たり吹き抜けていく。一気に緊張を強いられたボクは、そのまま金縛りにあったかのようにして時間を忘れていた。

ボクはかつての感触を蘇らせた。奥井さんのコンサート評から、たしかにそうだったと振り返ることができた。

奥井さんは、ボクが企画したイベントのプレの第1回目に出演してくれて、ボクとトークセッションをやってくれている。二人で語ると、普段はほとんど漫才みたいになるのだが、この時だけは妙に真面目にやっていて、後で可笑しくなったのを覚えている。プレの2回目にも、観客席の真ん中に腰を据えて、金沢のジャズシーンの中心人物らしく、ボクのやっていることを見守ってくれていた。

しかし、本番まであと3週間ほどという日の夕刻だった。

2003年6月17日、ボクを残して奥井さんは帰らぬ人となってしまった。食道ガンだった。“絶対、本番には会場に来てや”“行けるか、分からんぞ”そんな会話が最後になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの話は、73年7月初めからの朝日新聞金沢版の『金沢アンダンテ』というコーナーに一週間連載で寄稿した。奥井さんの死とボクのこのイベントへの思いは、とにかく頑張っていた自分の中で、深く繋がっていたと言っていい。

カセットテープの中では、ボクは30年前のコンサートのことを話している。そして、その再体験をしようとするイベントについても、その目的ややり方などについて語っている。ついでに書いておくが、我ながらいい声だ。女性アナウンサーからもそう言ってもらえた。

30年前の音を再現しようという試みは、想像していた以上に広く多くの人たちの共感を呼んだみたいだった。自分自身でも努力したが、1973年7月初め前後のマイルス音楽が録音された、俗にいう“海賊版”CDなどが手に入ってきた。当時のコンサートの写真(隠し撮り)も出てきた。凄かったのは、名古屋のジャズクラブ(店ではなく、愛好家の集まり)の方から企画を評価していただき、当時のライブ映像が入ったDVDや写真、パンフレット類などが届いたことだった。

YORKの仲間たちのネットワークも強力で、手伝ってくれるメンバーも増えてきていた。そして、なんといってもイベントのもうひとつの目玉になったのが、スーパーオーディオの存在だった。マイルスの圧倒的な音を再現するには、生半可なオーディオでは不十分で、しかもいいオーディオを揃えると言っても物理的に不可能なことだった。

会場は、閉館となった映画館を改造して運営し始めていた「香林坊ハーバー」。実はボクのイベントが本格的な使い始めと言ってもよかった。不備だらけだった。

映画館にはもともとスピーカーがある。しかも「ALTEC」というとてつもなく高級メーカーのものが残されていた。しかし、ボクのイベントでは、それをはるかに凌ぐスーパーオーディオが準備された。高岡にある「audio shop abc」のオーナー飴谷太さんが、その名の通りの太っ腹で無料レンタルしてくれたのだ。メーカーはマッキントッシュ。総額2000万は超えるであろうマッキントッシュのスーパーな機材がステージに並んだ。

『マイルスを訊(き)け』という、マイルス・デイビスのバイブルとも言える本の著者中山康樹氏からも激励と、金沢公演での裏話が詰まった長いメールをいただいた。

さらに、本番の数日前、今度は全国版のNHKラジオ番組でインタビューを受け、それが放送されると、全国そして、アメリカ在住の日本人ジャズファンの方からも電話が入った。みな、やろうとしていることに驚いていると異口同音に話してくれた。

会場のロビーには、写真や当時のコンサートグッズなどが展示され、受付を担当してくれる仲間たちがいた。缶ビールなどの飲み物も出した。入場は無料だったが、協力金みたいな名目で飲み物を買ってもらった。飲み物は家から持ってきてくれたものも含めて、カンパされたものばかりだった。

本番は、2003年の7月5,6日、二日間にわたって行われた。初日がマイルスの名盤を時間軸で流し、特にトークは入れずにただひたすら聴くという趣向にした。二日目はボクがステージに立ち、マイルス音楽の遍歴やコンサートのことなどを話した。時効だから言うが、ステージでは突発的に、金沢へ来る一週間ほど前の新宿厚生年金ホールでの映像も流した。これにはみなも唖然とした表情で見入っていた。

香林坊ハーバーは、前年のプレも含めてのべ4日使ったが、定員60名のところに、毎日160名ほどの人たちが来てくれた。皆、こんなイベントがなぜできたのかと不思議がっていた。

ボク自身も実に不思議な感覚だった。もっと注目されてもいいんじゃないかとも思ったりしたが、このあたりが自分自身のキャパだろうと納得していた。

 書くのを忘れていたが、イベントのタイトルは「30th memorial- MILES DAVIS  in KANAZAWA」。他人から見ればどうでもいいようなことに没頭し、自ら企画して自ら制作して、自ら進行運営をやってしまった、自分の原点にあったようなイベントだった。そして、奥井進という、ボクにとっては何だか分からないけども重要なニンゲンの存在を失うことへの恐ろしさから、逃避するために一生懸命になっていた日々でもあった…のかも知れない。

この後、ボクはジャズを中心にしたいくつかのイベントを企画した。その中で多くの人たちと出会った。ただ、今、ボクの中にある冷め切らない熱は、あのマイルスの時に温められたものに違いないと思っている……

 

マイルスの話は以下にも。

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

秋のはじめのジャズ雑話-1

なんとなく、コーヒーのことについて

 富山へ行くと、ときどき立ち寄るコーヒー屋さんがある。

 ごくごく普通の、本屋さんの中に間借りしているコーヒー屋さんのひとつなのだが、そこは独立店舗なのがよく、国道沿いとかでもない分、落ち着ける。こういう店に入ると、大概の時間は本を読んでいるか、落書き帳を出して雑文を書いているかだ。気の張らない文章を書いていたりするのには最適な環境だ。

四、五人の主婦グループが、子供会の行事に関する打合せをやっているような雰囲気の中で、ときどきバカ笑いをしたところで、こちらも動じない。そんなことぐらいで、オレのペンは止まらないよと意気がったりもできる。

コーヒーはたまにいちばん大きいサイズのTallを頼んだりする。「Tallなんて飲んでたら、胃を壊しますよ」などという人もいるが、ゆっくり、しみじみと口に含んでいればそれでいいのだ。それに、その店のコーヒーは決して不味くはない。最近ファミレスのドリンクバーで飲まされるコーヒーなどは、ちょっと遠慮しがちになるが、その店のコーヒーは合っている。

家では何年もの間、ある店のある銘柄を徹してきた。しかし、それがどこの国の豆なのかということには無頓着で、要するに何となく主観的に、これはなかなか美味いではないか…と納得していた。

いつだったか専門店で、試しにとアフリカ系のコーヒーを飲んだことがあったが、それが実に美味かった。それから何となく、コーヒーはやっぱァ、アフリカ系に限るな… などと分かったようなことを考えていた。そして、かつて知り合ったケニアでボランティア活動をしているという若者が、リュックの中に持っていたコーヒー豆一袋を、その場で千円で買ったのを覚えている。何グラム入っていたかなど問題ではなかったが、若者が随分と喜んでいたのだけははっきりと覚えている。たぶんかなり安かったのだろう。

そのコーヒーは素朴な美味さだった。自分の中のアフリカ系コーヒーのイメージとしては、さっぱりし過ぎていたが、それがまた乾燥したケニアの草原地帯を連想させ(なんでも勝手に連想してしまうが)、新鮮な感動を呼んだ。ちなみに、うちのコーヒーはアフリカ系ではない……

話はさらにそれていく。

コーヒーをブラックで飲むようになったのは、わが師の一人、今は亡き奥井進さんと出会ってからだ。いや正式には、出会って数年経ってからだ。

奥井さんとは、言うまでもなく金沢のジャズ喫茶の老舗(表現が平凡だな…)「YORK」のマスターで、16歳の冬に初めて会って以来、奥井さんが亡くなるまでの30年間、縦横無尽にお付き合いさせていただいた。ボクよりも10歳年上、そろそろボクは奥井さんが死んだ歳に近づいているのだ……

それはさておき、その奥井さんがかつて金沢の寺町に居を構えていた頃、ときどき家に遊びに行った。大学を卒業し、金沢のある会社に入った頃だ。

店では当然ジャズしか聞かないのだが、奥井さんはボクが行くと、よく落語のカセットテープを聞かせてくれた。もともとボクも落語が大好きだったので、爆笑もので有名な古今亭志ん生の『火焔太鼓』などを聞いては、二人で大笑いしていた。

そんな時、奥井さんはブラックコーヒーを白いコーヒーカップに注いで、何気にそれをボクに手渡すのだ。今ではごく当たり前のような感覚があるが、その当時、コーヒーをブラックで飲めるといったら、超スケスケのアメリカンコーヒーぐらいで、普通のコーヒーはなかなか飲めなかった。飲みたいとも思ってなかった。

それがいきなり手渡され、さも当たり前のように飲まなければならない状況になる。そんなところから、ボクのブラックコーヒー歴は始まった。今では普通にブラック、もしくはミルクのみパターンでやっているが、ブラックコーヒーとの出会いは、当時のボクの世代としてはかなり早かっただろう。同じことが奥井さんとの出会いにも言えたかも知れない。話せばキリがないくらいに、奥井さんとの出会いによって目覚めてしまったことも多いいのだ。

そういうわけで、ボクは暑い夏でもアイスは滅多に飲まない。冷し中華も食べないし、よほどでない限り、ざるそばなども注文しない。そうめんは家だけで食べる。ついでに言うと、つけ麺などはもっての外(ほか)で、暑くてもスープはどんぶりを両手で持って飲むか、スープすくいで飲むかだ。まったく関係ない話になってしまったかな…

コーヒーは毎朝飲むが、ほとんど同じ味になるとは限らない。一日一日が微妙に違うテンションで、微妙に違うフィーリングで、微妙に違うサイクルで動くように、コーヒーの味も微妙に違う。それが、またいいのかも知れない。コーヒーは日常のものだから……