🖋 山里歩考者の独りごと
ただ山里を歩きたいという衝動(欲求)に駆られる。
誰もなぜ?と聞いてこないので、こちらも敢えて説明することはないのだが、普通そんな衝動に駆られることはないであろうことは十分承知している。
衝動とまではいかなくても、いつ頃からそういった方面に興味を持つようになったのだろうかと考えると、10年近く前に遡ることになる。
根本的なきっかけは、それまで続けてきた本格的な山行や旅などに出かけられなくなったからだ。仕事が徐々に私的な時間に入り込み、大事な楽しみを邪魔しはじめていた。邪魔という表現は自分勝手なものだが、心情的にはそれに近かった。
それでも半日、いや二三時間の隙間を見つけると、とにかく自然の中の道を求めて出かけた。幸いにも家からクルマで20分ほどのところに森林公園があり、そこは微かながらも欲求のはけ口になってくれた。
しかし、山との付き合いはそんな簡単に諦められるほど希薄なものではなかった。ハイキングみたいなお出かけに5年ほど甘んじてきたが、やっぱり山へ行こう、いや行かねばなるまいという気持ちは抑えきれなかった。
そして、思い切って出かけた勝手知ったる北ア薬師岳方面への一泊山行。5年ぶり…、だがそこで事件は起こった。
下りで、カラダ全体が硬直したようになり足が前に出なくなった。登りも調子が良かったわけではないが、すっかり親父を抜いて山女になりきっている長女に、なんとか引っ張ってもらった。そして、結局その長女に重いリュックを二つも持たせ、情けない姿かたちで下山したのだ。
そのことでどうやら本格的な山行は無理なのかもしれないと思うようになった。
正直、現在もまだあきらめてはいないが、現実的には登る山から、少しだけ登って懐かしく眺める山に志向が変わろうとしている。それは確かである。
(しかし、しつこいが、来年は「MILLET」のリュックを新調するつもりだし、テレマークのブーツなども……と考えている)
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話は長くなったが、そういうことで今、山里歩きが主になり、有り余ったエネルギーが衝動を起こしているのである。
しかし、山里はボクにとってネガティブな存在ではない。
山里そのものに強い興味を覚えたのは、はるか昔だ。すでに20代の初めには自分の中の好きな風景として、高原や山里は高い存在感をもっていた。
まず強く意識するようになったのは、山里自体にある背景的な歴史だった。歴史的な背景ではなく、背景的な歴史である。ひたすら歴史の舞台といったことがモノを言った。カタチで残っていれば、その関心度はより高まった。
そんな意味で、今でもなになにの里というと、まず京都の大原を思い浮かべてしまう。
40年以上も前に敦賀から山越えし出かけた初めての大原は、強い印象を残した。
すでに別の雑文でも綴っているので控えるが、清々しい開放感と高貴な静寂に包まれていた。
歩く時も観光の地であることに甘えながら、足音を忍ばせることは怠らなかった。
同じ頃に出かけた奈良の柳生の里も印象深かった。春日大社の裏?から滝坂の道を登り、そのまま山越えしたが、体力勝負の充実した道のりだった。
今は、背景的な歴史をそれほど重要視してはいない。
いつからかそこで暮らす人たちの暮らしの匂いのようなものの方が、より深い何かを語りかけてくれるように感じ始めた。
素朴な自然風景や家々の佇まい、森や林や田畑や川や橋や道や、それらの季節や一日の時の推移によって変わっていく表情に敏感になっていった。
ほとんどは名もない小さな山里だった。近くで言えば、石川県内や富山県の西部、岐阜県の飛騨地方、石川で言えば特に能登の山里など心に沁みる場所が多い。
ただつらいのは、山里から人の姿が消えていくことである。この夏も、奥能登のわずか数軒しかない里で、一軒の大きな家が完全に閉めきられたようすを目にした。庭先から周辺一帯に雑草が生い茂り、かすかにタイヤの跡だけが残っていた。そこは春先に訪れた山里だった。こういう状況を目の当たりにするたび、平凡な言い方だが心が痛む。
だから、特に何も要求しない。してはいけないと思うようになっていく。ときどき、現代の上塗りや合理性に小さな落胆を覚えたりしたが、それも今は静かに頷けるようになっている。
そこにも現代の生活がある。むしろ、スクールバスから体操着を着て、イヤホンで音楽を聴きながら降りてくる女子中学生の姿を見た時などは、なぜかホッとした。
いつもクルマの中ではジャズを流し、歩いている時はアタマの中で目に映る風景を言葉に変えようとしている。自分の中で情景とか光景という言葉に敏感になっていくのは、風景が心にまで染み入るようになったからだ。
不思議なことだが、本格的な山行の時などはクマへの恐怖心など持ったことはなかった。が、今は森の中にいるとその恐怖心を感じる。情報が多くなってきたからだろうか。山は多くが単独行だった。体力にも自信があったから、独りがちょうどよかった。山里歩きも独りがいい。わざわざ一緒に行こうなんて言うやつは誰もいないだろうし……
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今ふと思い返してみると、きっかけは歴史と旅という意味での、司馬遼太郎の『街道をゆく』であり、心的な面で大きく自分を煽ったのは『旅に出る日』や『山村を歩く』などの岡田喜秋の本たちであったと思う。さらに辻まことや星野道夫や、その他時代や環境を超えて無数の人たちが残してくれた自然とヒトとの繋がりを綴った本たちが、ボクを動かしていた。
だから…、できるだけ山里は歩くのである。特に名もない山里になればなるほど、なんでもない場所にクルマを置き、よそ者が歩いていてはおかしいと思える道を歩くのである。もちろん主たる道は幹線道路だから、たまにクルマが行き来し、すれ違ったり追い越したりして行く。ドライバーたちの不審げな表情を想像できたりするが、それには無頓着を装う。地元の人かなと思えば、小さく会釈する。
そして、できれば集落の人に一度は声を掛ける。声を掛けられる時もある。カメラを持っていることが話のきっかけになる場合も多い。不思議がられながらも、そこで交わす言葉によって、山里の本当の姿をより感じるのである。
ところで、最近「里山に暮らしています」という人に出会うことがある。が、「里山」に暮らしているというのは変で、「山里」に暮らしているというのが正解に近い。以前にも書いたが、里山という新しい(しかも響きのいい)言葉が出現したことによって、勘違いしている人が多くなってしまった。どうでもいい話だが、つい言いたくなったので。
最後にいつも思うことがあるので書いておく。それは山里行きの多くの場合、自分がどこにいるのか分からなくなる…ということだ。
目的地を特定して出かけるわけではなく、せいぜいでどこどこ方面くらいだ。そして、なんとなくこの辺りで歩き始めようと思う。だから、そこから山の奥へと入っていけばいくほど、具体的な居場所が本当に分からなくなっていく。スマホのマップでも本当にアバウトになる。そして、そんな時に思うことがある。それは、オレがこんなところにいるなんて、家族が知ったら何て言うだろうか…ということだ。もしここで何らかの事故によって死んだとしても、家族は探しようもないだろう。そういう意味で、クルマは幹線道路沿いの小さなパーキングや公民館の前などに置くようにしているのだが……
この前もたまたまパトロールしていたというミニパトカーの若いおまわりさんが、わざわざ地図を出してきて詳しく周辺の説明をしてくれた。やはり、カタチはしっかりとしたトレッキングスタイルなのだが、場所的なことから想像される実態としてはかなり怪しく映っているのかもしれない………