カテゴリー別アーカイブ: B級風景の楽しみ編

山里歩きの独り言

  

 ただ山里を歩きたいという衝動(欲求)に駆られる。

 誰もなぜ?と聞いてこないので、こちらも敢えて説明することはないのだが、普通そんな衝動に駆られることはないであろうことは十分承知している。

 衝動とまではいかなくても、いつ頃からそういった方面に興味を持つようになったのだろうかと考えると、10年近く前に遡ることになる。
 根本的なきっかけは、それまで続けてきた本格的な山行や旅などに出かけられなくなったからだ。仕事が徐々に私的な時間に入り込み、大事な楽しみを邪魔しはじめていた。邪魔という表現は自分勝手なものだが、心情的にはそれに近かった。

 それでも半日、いや二三時間の隙間を見つけると、とにかく自然の中の道を求めて出かけた。幸いにも家からクルマで20分ほどのところに森林公園があり、そこは微かながらも欲求のはけ口に なってくれた。

 しかし、山との付き合いはそんな簡単に諦められるほど希薄なものではなかった。ハイキングみたいなお出かけに5年ほど甘んじてきたが、やっぱり山へ行こう、いや行かねばなるまいという気持ちは抑えきれなかった。
 そして、思い切って出かけた勝手知ったる北ア薬師岳方面への一泊山行。5年ぶり…、だがそこで事件は起こった。

 下りで、カラダ全体が硬直したようになり足が前に出なくなった。登りも調子が良かったわけではないが、すっかり親父を抜いて山女になりきっている長女に、なんとか引っ張ってもらった。そして、結局その長女に重いリュックを二つも持たせ、情けない姿かたちで下山したのだ。

 そのことでどうやら本格的な山行は無理なのかもしれないと思うようになった。
 正直、現在もまだあきらめてはいないが、現実的には登る山から、少しだけ登って懐かしく眺める山に志向が変わろうとしている。それは確かである。

(しかし、しつこいが、来年は「MILLET」のリュックを新調するつもりだし、テレマークのブーツなども……と考えている)

***************************

 話は長くなったが、そういうことで今、山里歩きが主になり、有り余ったエネルギーが衝動を起こしているのである。

 しかし、山里はボクにとってネガティブな存在ではない。
 山里そのものに強い興味を覚えたのは、はるか昔だ。すでに20代の初めには自分の中の好きな風景として、高原や山里は高い存在感をもっていた。
 まず強く意識するようになったのは、山里自体にある背景的な歴史だった。歴史的な背景ではなく、背景的な歴史である。
ひたすら歴史の舞台といったことがモノを言った。カタチで残っていれば、その関心度はより高まった。

 そんな意味で、今でもなになにの里というと、まず京都の大原を思い浮かべてしまう。
 40年以上も前に敦賀から山越えし出かけた初めての大原は、強い印象を残した。
 すでに別の雑文でも綴っているので控えるが、清々しい開放感と高貴な静寂に包まれていた。
 歩く時も観光の地であることに甘えながら、足音を忍ばせることは怠らなかった。

 同じ頃に出かけた奈良の柳生の里も印象深かった。春日大社の裏?から滝坂の道を登り、そのまま山越えしたが、体力勝負の充実した道のりだった。

 今は、背景的な歴史をそれほど重要視してはいない。
 いつからかそこで暮らす人たちの暮らしの匂いのようなものの方が、より深い何かを語りかけてくれるように感じ始めた。
 素朴な自然風景や家々の佇まい、森や林や田畑や川や橋や道や、それらの季節や一日の時の推移によって変わっていく表情に敏感になっていった。
 
ほとんどは名もない小さな山里だった。近くで言えば、石川県内や富山県の西部、岐阜県の飛騨地方、石川で言えば特に能登の山里など心に沁みる場所が多い。

 ただつらいのは、山里から人の姿が消えていくことである。この夏も、奥能登のわずか数軒しかない里で、一軒の大きな家が完全に閉めきられたようすを目にした。庭先から周辺一帯に雑草が生い茂り、かすかにタイヤの跡だけが残っていた。そこは春先に訪れた山里だった。こういう状況を目の当たりにするたび、平凡な言い方だが心が痛む。
 だから、特に何も要求しない。してはいけないと思うようになっていく。ときどき、現代の上塗りや合理性に小さな落胆を覚えたりしたが、それも今は静かに頷けるようになっている。
 そこにも現代の生活がある。むしろ、スクールバスから体操着を着て、イヤホンで音楽を聴きながら降りてくる女子中学生の姿を見た時などは、なぜかホッとした。

 いつもクルマの中ではジャズを流し、歩いている時はアタマの中で目に映る風景を言葉に変えようとしている。自分の中で情景とか光景という言葉に敏感になっていくのは、風景が心にまで染み入るようになったからだ。

 不思議なことだが、本格的な山行の時などはクマへの恐怖心など持ったことはなかった。が、今は森の中にいるとその恐怖心を感じる。情報が多くなってきたからだろうか。山は多くが単独行だった。体力にも自信があったから、独りがちょうどよかった。山里歩きも独りがいい。わざわざ一緒に行こうなんて言うやつは誰もいないだろうし……

*****************************

 今ふと思い返してみると、きっかけは歴史と旅という意味での、司馬遼太郎の『街道をゆく』であり、心的な面で大きく自分を煽ったのは『旅に出る日』や『山村を歩く』などの岡田喜秋の本たちであったと思う。さらに辻まことや星野道夫や、その他時代や環境を超えて無数の人たちが残してくれた自然とヒトとの繋がりを綴った本たちが、ボクを動かしていた。

 だから…、できるだけ山里は歩くのである。特に名もない山里になればなるほど、なんでもない場所にクルマを置き、よそ者が歩いていてはおかしいと思える道を歩くのである。もちろん主たる道は幹線道路だから、たまにクルマが行き来し、すれ違ったり追い越したりして行く。ドライバーたちの不審げな表情を想像できたりするが、それには無頓着を装う。地元の人かなと思えば、小さく会釈する。

 そして、できれば集落の人に一度は声を掛ける。声を掛けられる時もある。カメラを持っていることが話のきっかけになる場合も多い。不思議がられながらも、そこで交わす言葉によって、山里の本当の姿をより感じるのである

 ところで、最近「里山に暮らしています」という人に出会うことがある。が、「里山」に暮らしているというのは変で、「山里」に暮らしているというのが正解に近い。以前にも書いたが、里山という新しい(しかも響きのいい)言葉が出現したことによって、勘違いしている人が多くなってしまった。どうでもいい話だが、つい言いたくなったので。

 最後にいつも思うことがあるので書いておく。それは山里行きの多くの場合、自分がどこにいるのか分からなくなる…ということだ。

 目的地を特定して出かけるわけではなく、せいぜいでどこどこ方面くらいだ。そして、なんとなくこの辺りで歩き始めようと思う。だから、そこから山の奥へと入っていけばいくほど、具体的な居場所が本当に分からなくなっていく。スマホのマップでも本当にアバウトになる。そして、そんな時に思うことがある。それは、オレがこんなところにいるなんて、家族が知ったら何て言うだろうか…ということだ。もしここで何らかの事故によって死んだとしても、家族は探しようもないだろう。そういう意味で、クルマは幹線道路沿いの小さなパーキングや公民館の前などに置くようにしているのだが……

 この前もたまたまパトロールしていたというミニパトカーの若いおまわりさんが、わざわざ地図を出してきて詳しく周辺の説明をしてくれた。やはり、カタチはしっかりとしたトレッキングスタイルなのだが、場所的なことから想像される実態としてはかなり怪しく映っているのかもしれない………

黙示へのあこがれと旅の始まりの懐かしい答え

  

 

福光山里~春のうららの独歩行

 休日のすべてが自分の時間になるなどありえない。

 ましてや、何も考えずひたすら自分のしたいことに没頭しているという時間も、遠いはるか彼方的場所に置いてきてしまった。

 そして、そんな下品な日々が続くようになったことを、今はあきらめというか悟りというか、とにかく素直に受け入れてしまっているのだ。

 この年齢になってから、こうなってしまうのは実に勿体ないことだと思うのだが………

 そんなことを時折考えたりしながら、休日の寸暇を見つけては静かに、そして速やかに出かける。

 野暮用がない時(あまりないが)はそんな絶好のチャンスなのである。

 金沢から福光方面へ向かう国道は一般によく知られた道であり、交通量も多い。

 その途中には、ふと目にする素朴で上品な風景や、もしかしてあの奥にもっと素朴で上品な風景が潜んでいるのではないだろうか…と思わせるシーンがあったりする。

 おかげさまで(?)、そうしたシーンには非常に目が肥え、センサーも冴えているので、ほぼ予想は的中するのである。

 4月のはじめの、“のびのびと晴れ渡った”午後。

 走り慣れたその道の某パーキングにクルマを止めた。

 谷沿いの某集落への道を下り、そのあたりをうろうろしてから、谷を見下ろしながら歩く道をさらに奥へと進んだ。

 途中からはまったく予備知識なしに行くので、その先の温泉場のある某集落(?)にたどり着いた時には、ホッとしたというか、拍子抜けしたというか、とにかくやや複雑な気分のまま引き返してきた。

 実は最初の集落は、ある目的を持ってきた人にはよく通り過ぎるところに違いない。

 ボクもかつてはその目的でこの集落の中をクルマで通り過ぎている。

 国道沿いと谷を下りたところに民家が並ぶが、後者の軒数はぐっと少ない。

 歩きながら感じるのは、道端に咲いている水仙やタンポポなどがやけに美しいことだ。

 なぜか、咲き方も凛々しい感じがする。

 日露戦争の戦没者碑などを目にすると、こうした土地の生活史みたいなものが浮かんできて、繰り返されてきた住人たちの営みに敬意を表したくなる。

 高台にある神社の姿も凛々しかった。

 急な石段を登ったところから社殿を見ると、視界の中のバランスの良さに驚いた。

 境内に大木が何本も立つ。

 そして、裏側から見下ろす集落のおだやかな空気感にホッとしたりする。


 そこから見えた反対側の斜面の方へと行ってみたくなった。

 しばらく歩き、小さな川を跨いで正式な道が山手の方に上り始めるあたり、崖に沿って道らしきものを見つける。

 入っていってもいいのかとちょっと不安になるが、しばらくして行きどまりのようになり、振り返って見上げると、斜面に沿ってジグザグに道が伸びていた。

 足元はかなり悪いが、ちょっと登ってみることにする。

 去年の銀杏の実が無数に落ちていた。

 そして、集落の方を向いた墓と小さな石仏がひとつずつ。

 正面にはまわらずに後ろを通り、さらに上へと登った。

 特に何があるというわけではなかった。

 裸木の枝々をとおして、集落の方を眺め、そしてそのまま下った。

 ふらふらと舗装された道を登り、途中、奥に湧水が流れている場所に入ったりした。

 当たり前だが靴が汚れ、その靴の汚れを、側溝を流れる湧水で洗い落とした。

 春山の雪解け水が流れる沢を思い出していた。

 再び集落の方へと戻り、そこから延びる道を奥へと歩きだす。

 完全に幹線道路からは離れ、何気ない風景が、春のぬくもりの中にぼんやりとした空気感を醸し出す。

 水田の方に延びてゆく道、谷を下ってゆく道などが人の営みを感じさせる。

 そういえば、まだ誰一人としてすれ違った人はいなかった。

 もう空き家になっていると思われる大きな民家もあった。

 谷を見下ろしながら、少し速足で歩いていくと、ようやく軽トラックが一台追い越していく。

 クルマを下りてから、一時間半くらいだろうかと時計を見るが、なぜか歩き始めた時間がはっきりしなかった。

 下に川があるはずなのに、枯草などで流れが見えない。

 ようやくかすかに見え始めた頃になって、その先に別の集落が見えてきた。

 道端の水たまりで、ゆらゆらと揺れているのは、おたまじゃくしの群団だ。

 バス停があるが、運営会社はさっき見たところと違っていた。

 その集落も静まり返っている。そう言えば、さっきの集落も今着いた集落も「谷」の字がついている。

 ぶらぶら歩いていくと、老婦人がひとりこちらへと向かってくる。

 頭を下げて、よそ者の侵入(?)を詫び、「こんにちわ」とあいさつした。

 老婦人はこくりと首を垂れてくれただけだったが、やさしそうな目を見て心が和んだ。

 こうした土地には文化人が多いのだ。

 落人伝説など、その土地の人たちと接してみると素直に感じたりする。

 引き返す道沿いで、遅い昼飯を食った。

 谷を見下ろす格好の場所を見つけ、ぬるくなったペットボトルのお茶を口に含むとき、おだやかな空の気配をあらためて知った。

 春なのである………

 約三時間の山里歩き。

 今のボクには貴重な時間だ。

 思えば、二十代のはじめに奈良の柳生街道や山の辺の道を歩いたこと、武田信玄の足跡をたどったこと、そして、上高地や信州、そして八ヶ岳山麓に入り浸ったこと、さらに「街道をゆく」のまねごとを繰り返したことなど………

 体育会系の体力ゲーム的なところもあったが、自分にはそんな歴史と自然と風景などが絡み合った世界にあこがれるクセがあったように思う。

 いや、まちがいなくあった。

 そして、山に登るようになってからはさらに世界が広がった。

 今、なぜ自分が“こうした場所”で昼飯を食っているのか?

 またしても、不思議な思いの中で、自分を振り返っている。

 少しの風が気持ちよく、リュックに温められていた背中から、汗が少しずつひいていくのがわかる。

 スマートフォンを脇の石の上に置き、レスター・ヤングの “All of Me” を遠慮気味に鳴らしてみた。

 意外といいのであった…………

城端山里~残雪せせらぎ独歩行

 城端の中心部を過ぎ、国道がもう山裾のあたりまで来たところで小さなパーキングを見つけた。

 右側には合併する前に建てられた「城端」の文字が入ったサインがある。

 が、一旦クルマを入れてから、また来た道を戻ることにした。

 昼飯を買ってないのだ。

 どこまで戻るか?

 考えようとして、そのままクルマをとにかく走らせる。

 かなり下ったところにあったコンビニエンスストアで、わざわざこうしたモノを買うために戻ったのかと自問したが、こればっかりは仕方がないことだった。

 愛想のいい店のお母さんから、お気をつけて行ってらっしゃいと送り出される。

 どこへ行こうとしているのか知っているんですか?

 と、言いたくもなったが、少し焦っているのはこちら側の事情であってお母さんのせいではない。

 海苔巻きといなり寿しが一緒になったパックと、お茶を買っていた。

 クルマに戻ると、少しほっとする。

 これで先々への懸念もなく歩けるのである。

 もし、道に迷っても、一週間は生きていられる自信もある。

 

 クルマをパーキングに置き、いつものように“漠然と”歩き出した。

 漠然と歩きだすというのは、自分でもうまく説明できない状況なのだが、とにかくアタマの中の整理もつかないまま、とりあえず前へ進んでいくといった感じだろうか。

 いつものように具体的な目的地点はまだ決まっていない。

 なんとなく山の方に延びている道を選びながら歩く。

 3月の下旬。快晴に近い休日の午前の後半だ。

 遠からず近からずといった感じの医王山の方には、まだ残雪がたっぷりあって頼もしい。

 暖かいせいか靄がかかっている。

 なだらかに上ってゆくまっすぐに延びた道を、途中で右に折れた。

 梨畑に挟まれたせまい道を行くと、雪解け水が元気よく流れていて早春の空気に心地よい音色を添える。

 梨農家の人たちの作業する姿が、木の間に見え隠れして、そうした場所をのんびりと歩いている自分が申し訳なるが、とりあえず仕方がないということにする。

 山中に入っていく道を求めて、とにかく歩いていく。

 これが最近のやり方。

 このあたりの歩きはまだまだ序の口だ………

 

*****************************************************************

 屋根の崩れかけた小屋が見える…… 

 といっても、かなり大きいが。

 梅の木が完全とはいかないまでも花びらを開き始めている。

 真新しい道祖神もあったりして、少し離れたところに見える民家と合わせ山里感がたっぷり味わえる。

 山裾に沿うように延びている舗装された道は除雪もされないまま、春の訪れが自然に雪を融かしてくれるのを待っている。

 そして、そうした道と決別するかのように、こちらが探していた道が林の中へと延び、当然その道の方へと足を進めた。

 クルマを降りてからまだ三、四十分ほどだろうか。

 振り返ると、城端のなだらかな田園地帯が、ひたすらのんびりとゆったりと広がっていて、見ているだけで気持ちをよくしてくれる。

 

 *********************************************************

 心の中でひとつ背伸びをし、深呼吸もして林の中への道へと足を踏み出した。

 山を仕事場にする人たちのための林道だろうと推測する。

 右手は谷になっていて、その斜面に美しく杉の幹が並んでいる。

 まだまだ残雪が多く、木立の間に注がれる陽の光に白く反射してまぶしいほどだ。

 しばらく行くと、右手に斜めに下っていく道が現れた。

 雪に覆われた斜面と池らしきものも見えてきた。

 ぬかるんだ道は、雪融けのせいだろう。

 池は「打尾谷ため池」とあり、上部にある高落葉山からの水が打尾川を流れてこの池に溜められ、その後城端の農業用水となって灌漑しているらしい。

 濃い緑色をした池の水面が美しい。

 奥の方には水鳥たちが浮かんでいる。

 特にこれといった特徴のない、文字どおりの人工池的風景なのだが、上部から聞こえてくる水音以外には何も耳に届く音もなく、静けさに息を殺さざるを得ないくらいだ。

 山間へと入ってゆく楽しみが増したような気分になり、またもとの林道へと上り返す。

 今度は池の水面を見下ろしながらの歩きに変わった……

 

 木立に囲まれた暗い道を抜け、池の上端に下りようとすると、大きな倒木が道をふさいでいた。

 靴をぬかるみに取られながら、なんとか下りてみると、そこはまた予想以上に美しい世界だった。

 池の上端を過ぎたころから、流れは少し激しい瀬となった。

 岩がごろごろと転がった中に、枯れ木が倒れかかり、ちょっと山中に入っただけという状況以上に緊張感が漂う。

 左手に大きな斜面が見え、開けた明るい場所に来ると、どこか懐かしさのようなものを覚える。

 かつて深い残雪を追って早春の山に出かけていた頃のことを思い出す。

 膝を痛めて本格的な山行から遠ざかり、ブーツを壊してテレマークスキーも部屋の飾りにしてしまっている。

 そして今は、こうした山里・里山歩きに楽しみを移しているのである。

 しかし、自分の本質としてはやはり山の空気を感じる場所が中心であって、その感覚はたぶん生涯抜けないものなのだろうと思う。

 こういう場所に、今、自分が独りでいるということ。

 何を楽しみにと言われても説明できないまま、こうしてひたすら歩いているということ。

 どこか、自分でも不思議な気分になりながら、ほくそ笑むわけでもなく佇んでいる………

 

 斜面の中ほどから崩れてきた雪の上を歩く。

 道は本格的に雪に覆われ始め、かすかにヒトと動物の足跡が見えたりもする。

 その跡は少なくとも今日のものではない。

 右手に蛇行する水の流れは一層激しくなってきて、奥に滝が見えていた。

 道がやや急になり二手に別れたが、一方は完全に雪に覆われていた。

 装備をしていれば、たぶん雪の方の道を選んで進んだろうが、さすがに靴はトレッキング用、スパッツも持っていない。

 

 しばらく登って、ついに前進をあきらめた。

 少し下ったところにあったコンクリート堰の上で、遅い昼飯だ。

 日が当たっていた堰の表面があたたかい。

 足を放り出すと、尻の下からポカポカと温もりが伝わってきて妙に幸せな気分なのだ。

 海苔巻きといなり寿しを交互に頬張りながら、目の前に迫っている向かい側の斜面に目をやると、小枝たちが入り組みながら春らしい光を放っていた。

 時計は、もうすぐ二時になろうとしていた。

 冬眠明けの熊たちも、地上に出てまたのんびり二度寝してしまうような暖かさ。

 とりあえず、ここでもう少しのんびりすることにしようと決めたのだ…………

定本「山村を歩く」を読み思ったこと

 

年の始めの一冊は、その年をよりいい気分でスタートさせてくれるものに限る……

と思いつつ、昨年末に用意しておいた一冊である。

著者は知る人ぞ知る雑誌『旅』の元編集長・岡田喜秋氏だ。

“1970年代の日本の山村を探訪した紀行”とあるように、ヤマケイ文庫による渾身の復刊であり、ボクが最も弱い“定本”の二文字が付く。

さらに、そのあまりの“見事さ”に、旅の原点をズシリと再考、そして再認識させてくれた一冊となった。

もともとよく出かけてきたが、山村(里)を歩くというのは、単なる自然に浸るという楽しみだけではない。

ずっと前から、一帯に漂うさまざまな物語、簡単には言えないが、自然と生活の匂いを感じとるようなことだと思うようになった。

歴史の大きな流れとつながったりする山村もあるが、ほとんどが普通に日常の時間を積み上げ、その存在を継承してきた。

しかし、山村に限らず、そんな普通の時間しか持たない場所は少しずつ継承されなくなりつつある。

小さな文化は無意識のうちに伝承されてきたが、それらは大切にされなくなっている。

安直な話をしたくないが、言葉では、心の内では諦めきれない存在だと認めながらもだ……

 

この本の中で、著者はほとんどを歩いている。

だからこそこのタイトルなのだが、峠を越え、自分を追い越していくクルマもいない道を歩いて目的の場所をめざしている。

地名への思いやその道をかつて歩いたであろう人たちへの思いなど、そして、「ふるさと」を意識させる風景や人、人の言葉や出来事、その他諸々のモノゴトを混在させながら旅の余韻を残していく。

そして、この紀行文集は、たぶんどこかで見たことのあるような山村に、新しい空気感を創造し、その中へと読者を導いてくれるのである。

そして、それが“見事”なのだ。

そして、それが今の時代に生きる者として切ないのだ。

 

年の始めの一冊。

完読直前だが、読みながら、春になったら残雪がまぶしい明るい山村を歩きに行こうかなと思っている………

不思議なモノを見た

不思議なもの1

100メートルもないその先に、それがあった。

それを発見した時、思わずドキッとした。

北三陸的に言えば、ジェジェッである。

すぐ目の前にコンテナがあり、それを撮影していた時だ。

半信半疑のまま歩きだし、右斜め後方に目をやりつつ、

ゆっくりとクルマに戻る。

何のためか、敢えて落ち着いているのだというふりをしている。

窓越しに、もう一度それを確認。エンジンをかけた。

少し登った。そして、それの30メートルほど手前で、またクルマを下りる。

山間はもう日が陰っている。空気も涼しい。

そこは北陸のK市中心部からクルマで約30分。

推測だが、馬だとゆっくりで2時間くらいか。

牛だと半日はかかるかも知れない。

これでこの場所は知られてしまうだろう。

しかし、それでもかまわない。

歩いて、すぐ目の前まで来た。

塗装の剥がれていない部分はまだ美しくも見える。

正面のライトは片方だけだが、しっかりと残っている。

ひょっとして遊園地などで使われていたのだろうかと想像する。

とにかく、この不思議なモノが、この場所にあるということに心が揺れている。

不思議なモノの左面

いつ、どうやって、なにゆえにこの場所に運ばれて来たのか?

かつて、ここには鉄道が走っていたのだろうか?

ひょっとして、旧盆の深夜、突然汽笛が遠くから鳴り響くと、

霧の中、草を分けるように線路が浮かび上がってくるのかも知れない。

そして、この不思議なモノが、

生気を再び得たかのように、ゆっくりと動き出すのかも知れない。

子供たちは、その後を追い、見えなくなるまで力いっぱい手を振る。

そして、この不思議なモノが落としていった、

おもちゃや菓子などをみんなで拾い合うのだ……

 

振り返ると、近くの農家の人だろうか、こっちを胡散臭そうに見ていた……

不思議なモノの正面

能登黒島・旧嘉門家跡

 このエッセイを読んでいただいたという、北海道の方からメールが来た。

 お名前が嘉門さんと言って、詳しいことは全く分からないが、亡き祖父が旧門前黒島の出らしいとのことだった。

 石川からは鰊漁が盛んだった頃、多くの人たちが北海道に渡っている。

 実を言うと、ボクの祖父も北海道の海へ出漁し、それなりの規模の漁業をやっていた。

 門前黒島の嘉門家と言えば、ブリヂストン美術館の館長されていた嘉門安雄氏が有名だ。

 嘉門家に限らず、黒島からは優秀な人たちが多く輩出され、かつての天領、そして北前船で栄えた地域性を物語っている。

 今ある旧嘉門家(平成11年に町に寄付)の跡は、能登地震の後に火災で焼失したのを受け、トイレの付いたきれいな板塀で被われた駐車場になっている。

 かつては、一段高くなったところに蔵が並び、壮観であったと言われる。

 角海家の展示関係の仕事に携わっていた頃、旧嘉門家の一画に残された小さな庵のような建物の一室で、地元の人たちに昔の思い出などを語ってもらった。

 久しぶりに嘉門家跡に足を踏み入れ、石段を登ってみると、春の日差しを受けて海が柔らかく光っていた。

 通りかかった地元の人からも話を聞いたが、やはり黒島の文化の趣は他と異なり、今現在が何かもどかしいような思いにさせる。

 自分など考えても仕方ないことなのだが、やはりどこか寂しいのだ……

稲架木や、稲架のこと

 稲架木(はさぎ)というものに興味をもってしまった。

 先日、石川県立美術館で「村田省蔵展」を見てからだ。

 氏が絵の題材にされていて、その特徴的な姿が印象深く記憶に残った。

 稲架木は、文字どおり水田近くに並んで立つ。

 刈り入れの時、それらの幹に竹などが何段も組まれて、刈り取った稲を自然乾燥させる。

 ただ、その用途がない時は、当然普通の木として立っている。

 新潟の弥彦(やひこ)あたりに多く見られるらしい。

 機械化が進み、稲架もそのまま消滅していくみたいだが、氏の作品に描かれた、整然と並んで立つ稲架木の姿からは、自然と同化したヒトの知恵みたいなものを強く感じた。

 チカラの抜けた、まさに自然体の、自然的人工物。いや、人工的自然物と言うべきか?

 どちらでもいいが、刈取りが終わり静まり返った秋の夕暮れの風景や、雪が融けはじめた早春の頃の風景の中(もちろん絵の)にあると、稲架木たちはまるでオブジェのように、また生きもののように見える。

 絵を見ながら、自分がなぜ、こういうものに興味を抱くのだろうかという不思議な思いも重なった。

 そして、絵を見ているということを時々忘れ、旅をしているような想像が飛んだ。

 あれから数日が過ぎ、新しい年になって二度目の能登行きの日。

 もともと稲架木のようなものを能登でも見ていたような記憶があり、それらしき場所では目を凝らしてクルマを運転していた。

 そして、もう帰り道に入った旧門前から穴水へと抜ける道沿いで、それを見つけた。

 金沢を出たのが遅い時間だったせいもあり、仕事の合間では無理だろうと思っていたのだ。

 水田の奥の、杉並木に整然と横棒が組まれている姿はすぐに視認できた。

 道沿いと言っても、かなり奥。村田省蔵氏の絵にあった、弥彦の稲架木みたいなカッコよさはなかったが、一応稲架木形式である。

 もともとは防風のための杉並木だったのかも知れないが、低い部分の枝打ちをして稲架木として使っているのだろう。

 ところで、ボクの中にある稲架というのは、必要な時にちょっと太い木を立て、それに竹を這わしていくか、縄を結んでいくようなものだった。

 弥彦の稲架のように、木そのものが存在感を持っているものではなかった。

 考え方としては、非常に合理的なやり方であり、ごく自然な感じがする。

 能登の里山には稲架が年中建てられたままになっている風景が多く見られる。

 野菜などを干すためのものもあるみたいで、これらもなかなかの味わいを感じてしまう。

 風が吹こうが、雪が降ろうがといった感じで、田畑の道沿いに踏ん張り立っていたりする。

 別に能登に限ったものではないだろうが、里山系農村風景には欠かせない一品であり、文化的財産として大事に見つめてあげてもいいのではあるまいか?と、秘かに思っている。

 そんなわけで、突然こんなことを考えてしまうクセは今年も健在なのである……

秋の定番・桂湖にまた行く

五箇山から白川村へと向かう途中に、桂湖への道がある。

一気に高度を稼ぎながら境川ダムまで登り、あとは湖を見ながら水平に進むと、湖畔の公園が見えてくる。

家からだと、金沢森本インターから北陸自動車道、東海北陸自動車道を経て、一時間強もあれば桂湖に着いてしまう。

もの凄く得をしたような気分にさせてくれる場所だ。

得をしたと感じるのは、その短い時間で、こんなにも素晴らしい風景に出会えると思うからで、贅沢を言えばきりがないが、何度来てものんびりできる場所で好きだ。

今回は途中の城端サービスエリアで、一応名物になっているおにぎりを食ったせいもあり、二時間近くかかった。しかし、それも得の一部なのだ。

ついでに言っておくと、このサービスエリアの奥には桜ヶ池というスポットもあって、ぶらぶら歩くのにいい。

 

桂湖は四回目だと思うが、記憶は定かではない。

きっかけは、カヌーが出来るということだったが、あの広い水面を見て独りでのカヌーはやめた。

ほとんど人がいなくて、初心者みたいな自分にはかなりの決断と慣れた同乗者が必要だった。

クルマを下りて、ゆっくりと見回す。

去年の同じ時季に来た時ほど紅葉は熟しておらず、ちょっとがっかりした。

去年の紅葉は凄かった。正確には黄葉と紅葉で、前者の存在感も大きい。

ボクとしては、黄葉にもなかなかの好感をもっており、紅葉は鮮やかすぎると少しいやになる。

そんなわけで、桂湖周辺で見る紅葉と黄葉にはいいバランスがあり、かなり好きなのだった。

ところで、桂湖の奥には、石川県から言うところの「犀奥の山々」への登山道が伸びている。

最奥というのは、犀川上流のその奥のことで、山々が石川と富山の県境になっている。

金沢からだと熊走の奥、かつて倉谷という村があった場所を経て登る。

実際に登ったことはないが、かなり厳しい道だということだ。

桂湖奥からも、いきなりハシゴ状の登りになり、切れ落ちた台地状の道を最初に進む。

ハシゴ状の登りもスリルがあるが、その後で出くわすマムシやトカゲなどの爬虫類たちの多さにもかなりスリルを感じる。

決して楽しいスリルではない分、途中でイヤになる。

ボクもそうして途中から引き返した。

特にその時は山登りに来たわけでもなかったから、装備も全くなくて、一時間も歩かずに戻ったのだが、仮に登山準備万端で来ていても逃げ出したかも知れない。

それほどに足元でガサガサ動くアヤツらには参った。

ところで、桂湖はダムによってできた貯水湖だ。

そして、察しのとおり、その底にはかつての桂という村が眠っている。

五戸の合掌造りの家があったという。

初めて訪れた時、水が少し涸れていて、奥の方にまで来た時に何となく人工的な道のようなものが目に飛び込んできた。

湖の底にかつての生活の場が眠っていることを想像した。

白山麓の深瀬や桑島、大日岳の麓の村など、近場にもいくつもそういった土地があって、その場の空気のようなものを感じたことがある。

ビジターズハウスで、展示紹介されているそんな情報をあらためて確認しながら、少し離れた湖畔にある大きなログハウスの店に初めて入った。

知的な老紳士が、奥様だろうと思える人と一緒に立って、もう一組の老夫婦に話しかけている。

後で分かったのだが、その老紳士はこの地域にあった小学校の先生だったらしく、その日の午前中、かつての住人達が集まり、 その先生の講演があったということだった。

桂に語呂がよく似た加須良(かずら)という村が、今の湖の反対側上部にあったらしく、桂よりも多くの人たちが住んでいたということだ。加須良は、岐阜県に入る村だった。

                       ※お店に掲示されていた写真

桂には五軒しか家がなく、屋根の茅葺きなど多くのことを加須良の人たちとの助け合いでやっていたらしい。

しかし、厳しい生活環境から、加須良は村自体を解散することにした。

それによって、桂の人たちもそこで生活ができなくなった。

桂村の美しい夏の風景が写真に残されているが、生活の厳しさは想像を絶するものだったのだろう。

 

独りで店を切り盛りしているらしいおカアさんに、コーヒーを頼んだ。

するとオカアさん手作りの漬物などが、まるでスイーツのセットメニューみたいにしてテーブルに届けられた。

何もかもが美味い。根本的に苦手としているミョウガすらも、アッと驚くような後味を残して、ボクの中に好印象をもたらした。

我が家風に言うと「クサムシ」、一般的に言う「カメムシ」もアッと驚くほど多かったが、ミョウガの後味ほど印象深くはなかった。

そして、おカアさんは最後に青い葉っぱのいっぱい付いた赤カブを持ってきた。

これ、邪魔でなかったら持って行って…。

そして、漬物にしても、煮て食べても美味しいよとビニール袋に入れた。

コーヒーもそれなりに美味かったが、味わっているゆとりがなかった。

おカアさんは、店の外まで出て、見送ってくれた。

また、来られよ。

境川ダムのすぐ上に、ススキの繁茂する崖があるが、ちょうど山に隠れる太陽の光が差し込む時間だった。

秋には必ずここのススキを撮影している。

いつもそれほど長い時間滞在しているわけではないが、ここへ来た時はいつもいい気分になる。

今回もそのことに納得した桂湖であったのだった……

 

 

 

 

河北潟の端っこを探検する

 

河北潟の端っこで見つけた漕艇場から延びていく水路に、何だかとても興味が湧いていた。

そして、その第一次探検の時を迎えたのは、十月の下旬に入ろうかという休日の朝。

と言っても、時計はもう9時半を回り、晴天と同時に気温も少しずつ上昇の気配を見せていた。

すでに水面には、多くのボートが浮かんでいて練習が始まろうとしている。

一線に並んだボートに、その奥のボートからコーチらしき青年が指示を出している。

よく見ると、ボートの漕ぎ手たちは中学生みたいだ。

最初に女子から、そして男子へとスタートの指示が出される。

水面を滑っていくボートを見ているのはなかなか気持ちがいい。

 

しかし、今日はじっとそんな光景を見ているわけにはいかないのだった。

すぐにパーゴラのある土手に上がって、そのさらに上に伸びている道らしき場所に足を踏み入れる。

刈られた草の感触がトレッキングシューズの底から伝わってきて嬉しくなる。

この状況は、自分の中に微かに残っていた冒険心みたいなものに火をつける。

そんな大袈裟な…と思われるかもしれないが、そうなのだから仕方がない。

まっすぐに伸びた土手の道。

空は青く、10月も半ばを過ぎたというのに、雲はまだ入道雲のカタチで白く浮かんでいる。

左手は、水路沿いの葦の原、右手は刈り入れの終った水田。

申し分ない。ほぼカンペキだ。

しばらく歩くと、水門があり、その上に上ってみる。

大して高くもなく、別に風景が大きく変化して見えるというほどでもないのだが、こういう場合は一応、その高場から見下ろすという儀式が必要なのだ。

 

葦原は少しずつ幅を広げ、水路が視界から消えていく。

しかし、すぐ近くに水の流れる音がする。それも豪快にだ。

しばらくして、それが風にそよぐ葦たちの擦れ合う音だと分かった。

なんと凄いのだろうと思いながら、かつて一世を風靡した時代劇『木枯らし紋次郎』を思い出す。

三度笠に長い楊枝をくわえ、風を切って歩いて行く紋次郎の姿が浮かんでくる。

紋次郎が行くところは、いつも木枯らしが吹いていた…

土手のすぐ下で、南天の赤い実が無数に風に揺れている。紫色の花たちも一緒だ。

水路は完全に視界から消えた。

仕方がないので、水田の方に目を遣ると、その広大な田園風景にも足を止めてしまう。

再び目を葦原の方に向けながら歩く。

何という名前なのかも知らないが、木が一本、斜に構えて立っている。

何の目的でそうさせられたのか、鉄柱も立っていたりする。

目を下に向けると、意外なものを見つけた。

小さなアケビだった。

かつて、ゴンゲン森で多く見られたアケビだったが、正直好きではなかった。

唇や舌に当たるあの感触も、中途半端なあの味も馴染めなかった。

他の木の実などは何でも食べて育ったくせに、アケビだけはなぜかダメだったのだ。

他の連中が美味そうに食べているのを見て、自分が仲間外れになったような、そんな気持ちにもさせられた。

そんな子供の頃のことを思い出しながら、アケビの写真を撮った。

先で、道が右に折れているのが見えてくる。

水路も見えてきて、右手の道に沿って合流してくる水路とT字型に交わっているのが分かる。

その水辺で、いきなり釣竿を持った若者の姿を見つけた。

こんにちわと声をかけると、若者は驚いたように振り返った。

ブラックバスや雷魚が釣れると、若者は話してくれた。

もちろん、キャッチ&リリースなので身軽だ。

その若者から、今まで見てきた水路が「東部承水路」という名前であることを教えられ、

さらに、右手に延びている水路は「津幡川」であることも教えてもらった。

その川は、名前のとおり、津幡の奥の山間から流れてきている。

そして、東部承水路はそのまま北へと延びていき、途中でああなってこうなってと詳しく説明されたが、イメージだけが広がっていき、想像は青い空の中へと吸い込まれていく…

 

ヤマカガシに気を付けた方がいいですよ。とも言う。

ええ、あの毒のある?と聞き返す。

青大将ならまだいいけど、ヤマカガシは咬みついてくる怖いヘビだ。

時折干拓地の水路の近くに黒くて太いのが寝そべっていたりするのを見た。

あとで分かったのだが、あれも黒いヤマカガシなのだそうだ。

対処方法を知らないから、咬まれたら大変だ。

若者は、竿を肩にしてゆっくり土手に上がってきた。

ボクは、いい歳をしてこの辺りを歩いて回りたいのだがと伝えた。

若者は驚いた様子でボクの顔を見ると、でも、道らしきものはこの辺まででしょうと答えた。

とりあえず、今日は津幡川沿いに少し行ってみようと思い、風が気持ちいい土手の道を進んだ。

場所を変えます…と言った若者は反対方向に歩いて行く。

ヤマカガシのことがアタマに浮かんで、足元の草むらに敏感になった。

ススキの穂が太陽を受けて光っている。

上流の先にある橋の下にも、若者が独りで竿を垂らしていた。

さっきの若者が、この辺りは結構釣り好きには知られていますよと言った時、知り合いの釣りバカが、かつて最近河北潟にはまってますと言っていたのを思い出していた。

しかし、この辺りを、ただ歩いて回りたいだけというただのバカは、オレぐらいかな?とも思う。

歩いていた時間はたったの一時間半ぐらいだろう。

うっすらと汗をかいてきて、もう一度空を見上げる。

申し分ない気分に浸りながら、もう少し事前研究が必要だと反省。

冬、積雪のある時季にスキーを履いてトレッキングする楽しみも見えてきた。

それにしても、恥ずかしくなるほど楽しい。

その日の夜は、本棚から取り出した『花見川のハック』を久しぶりに読みたくなったのだった……

 

風景に焦る朝について

毎朝七時十五分から二十分頃には家を出る。

その時間に出ておいた方が、道も空いていて、それほど気分を害することもなく出社できるからだ。

我が家のある石川県内灘町から、勤務地のある同県野々市市堀内までは、とにかく近くはない。

今頃は、若干早起きして、プランターや直植えした花たちに水をやることもある。

早く帰ることが出来れば、暮れる直前に水やりも出来るのだが、それはなかなか至難の技(と言うほどでもないが)で、やはり朝の水やりが多くなる。

クルマで家を出て二百メートルほど行くと、小さな十字路を右折し、高台の方へと上っていく。

緩やかというか、本当はかなり角度があると思うのだが、距離が長いせいもあってか、なかなか気分のいい登り坂なのである。

説明すると長くなるので省略的に書くが、ここはずっと砂丘台地だったところだ。それが少しずつ削られ、平地が後方(海の方)へと広がっていった。

今我が家は平地に建っているが、その場所どころか、そこから五十メートル手前辺りまで、かつては砂丘台地だった。

紀元前三千年とかの話ではない。ほんの四十年ほど前までの話だ。

日本という国が元気だった時代の土木・建設ラッシュなどで、砂がワンサカと必要となり、そのために我が家周辺の砂たちも、お国のためにと採取されていったわけである。

と、こんな話をしても、ほとんど理解してもらえないだろうから、説明はこのあたりでやめとこう。

 

登り坂の半分ほど来たところで、右手には河北潟干拓地の、六月から七月初めにかけての今頃であれば、ウスラぼんやりと霞がかったような風景が目に入ってくる。

梅雨の晴れ間的朝であっても、すでに高く上がりつつある太陽の光を受けていれば、そのぼんやり度がいい按配的に美しかったりもする。

もう少し前であれば、刈り入れ前の麦畑もかなり美しい。毎朝、ううむと唸る。

と同時に、チキショー…と口にはしないまでも、腹の中では思ったりもする。

写真に収めたくなるからで、焦りはかなりハゲしく募るのだ。

五月から六月の初めにかけては、晴れている朝は、毎朝唸り、そして焦っていた。

高台の通りに出るところで、だいたい決まって信号待ちになる。

交差点の正面方向は、かつてのゴンゲン森と海。道は真っ直ぐに伸びている。

左折して大通りに出ると、河北潟干拓地はさらに高度感を増した眺望となって、ますます唸らせる。

ここ(白帆台)に家を建てた人たちが羨ましい。

「ここに、わしらの畑があってんぞ!」などと言ったところで、負け惜しみか…

今度は左手になった風景が凄い。

はるか東の方向に、北アルプス北部の山並みも見え、さらに南に目を移すと、霊峰白山なども視界に入って来る。こうなると、もうカンペキだ。

今自分が会社へ向かってクルマを走らせているということに、罪悪感さえ抱いてしまう。

しかし、ぐっと堪える。

この短い葛藤の時間が、朝の日課になっている……

能登の山里をめぐる道… 門前~富来~中島

「里山里海」という文字をよく目にするようになった。

しかし、この「里山里海」という表現があまり好きではなかった。

特に日本にはもともと「山里」という言葉があり、なぜ敢えて漢字をひっくり返しただけの「里山」という表現に変える必要があったのかと、ネーミング担当者にかなりハゲしく疑念を抱いたりした。

しかし、海と合わせた表現であることを考えた時、「山里海里」よりも、「里山里海」の方が響きもよく、特に、日本海に突き出た能登半島らしい表現かもしれないとも思えるようになった。

ただ、一つだけ言いたいのは、「里山里海」の響きでは、何となく能登の厳しさが伝わらないなと思うことだ。

そんなことはまあ置いておくとして、日本民俗学の今は亡き宮本常一先生の著書に後押しされながら、ボクは最近また、正しい日本の農村風景に思いを馳せたりし始めている。

いや、正確に言えば、これまで自分で感じてきたものを改めて整理し直そうとしている。

大学時代からだろうか、自分にはどうもそういう風景に弱い血が流れていて、車窓から見える風景にも、思わず心が奪われるといった傾向があったみたいだ。

そういった積み重ねが、どうも今頃ピークを迎えつつあるのかも知れないと思う。恥ずかしながら……

 

さて、能登の農村風景が日本の代表的な農村風景にあたるかどうかについては、大それたことは言わない。

しかし、単なる田園地帯の広がりとか、山深く高い山々に囲まれているといった感覚ではなく、能登の農村風景にはこじんまりとして心が通った素朴さがあり、それが独特の生活感などを生んで心を打つのだと思っている。

 

五月の下旬、輪島からの帰りに、旧門前町から山越えし、旧富来町に抜け、さらにまた山越えして旧中島町に至る道をクルマで走った。

一昨年前の夏から、このルートの一部を何度も走ったが、その時の感動は今は少し薄まりかけていて、さらに新しい刺激を求めていたのだ。

 旧門前町(現輪島市)の海岸線道路(国道249号)を折れて、仁岸川に沿いに山間に入っていく。

このあたりの海岸線の地区は横に伸びていて、奥行きはあまりない。すぐ後ろが高台だったり崖だったりもするが、この山間に向かう道は仁岸川に沿っていて、人家の集中する場所を通り過ぎても、その後方には広々とした水田地帯が広がっている。何度来ても、気持ちの良いところだ。

田植えを終えて水の張られた水田にシラサギがいる。

その姿が凛々しく、クルマを止め、助手席の窓を開けてカメラを構えた。

川にかかる小さな橋を二つ渡ると、道は二つに分かれ、右の方へとハンドルを切る。

しばらくすると、川は小さな渓流のような様相に変わり、木立の中に道が吸い込まれていく。

このまま道なりに行くと、馬渡という地区を経て、ひたすら旧富来町へと進むのだが、ちょっと脇道へとそれることにする。

舗装はされているが、薄暗く狭い上りの林道だ。あまりクルマが走っているとは思えない。

道はしばらくで鬱蒼とした木立を抜けた。立体的な大きな道路が見える。

ここで自分の居場所が分からなくなった。相変わらず地図など持ち合わせていない。カーナビなどは、仮に付いていたとしてもあまり役を果たさないだろう。

小さな道がカーブを描きながらの上りになり、大きな道路につながった。

狐に騙されたみたいになってクルマを降りると、大きな道路は上に伸びているが、バリケードで通行禁止になっている。

そして、自分が走ってきた狭い道は、大きな道路を突き抜けて脇へと上っていた。

その先に一軒の民家があった。こういう光景は何度か見たことがある。

昨年の夏、いしるを造る作業を取材した時、かつて出来立てのいしるを樽に入れて背負い、山を越えて売りに行ったという話を聞いた。

主に女性の仕事で、夕方に出て、翌朝届け先に着くのだと言われた。その時に、山の中に一軒だけぽつんとある家とかもあって、今から思えば大変な重労働だったという話だ。

今見えている家は、まだまだ近い方なのだろうが、さらに山深いところにもこういった家々があるのだろう。

それにしても、その一軒の家につながるための道の存在に、妙に心を打たれる。

そのまま道路を下った。また分岐があり、そこでもクルマを止める。狭い畑に、見るからに高齢のおばあさんが立って作業をしていた。

あのおばあさんは、この山間からどこへ帰るのだろう?

時間を考え、左に折れてさらに下っていくと、途中の水田横の斜面に夫婦らしき二人が座っている。

その様子が文句なしにのどかで、写真を撮らせてもらおうかとブレーキに足をかけた。しかし、タイヤの音に二人が驚いたみたいだったので、そのまま下ることにした。その日最大の後悔であった。

下った先は、さっき仁岸川にかかる二つ目の橋を渡って分岐した道につながっていた。

つまり、元に戻ったことになる。別に狐に騙されたわけではないのだが、思わず苦笑い。

傾斜の高台から眺めると、水田の先に家々があり、その先には日本海が見えている。

畦の草を燃やす煙がぼんやりと立ち、“日本”を感じる。実にいい空気感だ。

能登の農村と漁村とが共存する姿がここにあるのだと、妙に納得したりしている。

一旦下に戻り、分岐を今度は左折して上りに入った。

ここから馬渡という地区にある十字路までは、左手に広がる水田とその奥の小高い山の斜面が美しい。緑が圧倒的にきれいなのだ。

十字路の左方向は立派な道で、緩い上りだが、バリケードで一応通行禁止になっている。しかし、ちょっとだけ隙間があり、その間隔がいかにも「行きたい人は行ってもいいのだよ」と言った感じに見えている。

それではと、ちょっと百メートル ほど侵入してみることにした。

素晴らしい山里風景だ。西日が逆光的に差し込んでいて、水田に陽光が反射している。

この出会いには、大いに感謝だ。

戻って、十字路を直進してみると小さな集落があった。道端のおばあさんが何か作業をしているが、こっちには目もくれない。

さらに奥へと進むと、家は途絶え、狭くなった道は上の方へと延びていたが、犬を連れて散歩中のご婦人が下りて来たので、こっちも方向転換し、もとの道へと戻った。

自分がかなりの不審者に見えるであろうことは、当然自覚していたのだ。

十字路に戻り、左折して旧富来方面へと向かう。

すぐに窕(かまど)トンネルを抜け、道は徐々に上りの角度を強くしていく。

しばらく行くと、右手にまた一軒の家が見える。建物はいくつかあるが、住まいと作業小屋などだろうか。

今クルマを走らせているのは、広域農道の立派な道路だが、ここにもその家のための小さな道がついている。

広域農道を挟んで反対側の斜面には墓も建っていて、家と墓をつなぐ道が広域農道で寸断されている形だ。行き来は、農道を横切らなければならない。

去年の旧盆の頃、墓参りする人の姿を見た時に、なぜかほっとしたのを思い出す。

見下ろす水田と湾曲した小道が美しかった。

 

道路はすでに旧富来町に入っていて、栢木という地区で、右手の小山の麓に建つ小さな愛宕神社を見ながら下っていく。

神社の姿はずっとここを通るたびに気になっていて、雪融けの頃、思い切って境内にまで行ってきたばかりだった。

アップダウンを繰り返す。このあたりはかなり高品質な現代的道路で、歴史もクソもなく80キロほどでぶっ飛ばしていく。対向車もほとんどいない。

そして平地に下りてくると、貝田というあたりで左の道に入り、さらに進んだT字路で、また左に曲がった。

二台がやっと擦れ違えるくらいの道が山里風景の中に伸びている。

大きな寺と美しい家並みが連なる場所があった。

敢えて近寄らず、水田を挟んだ距離からじっくり眺めると、素晴らしくいい調和感に嬉しくなった。

ここもまた、なんと素晴らしい出会いなのだろう。しばらく右へ左へと歩いて移動しながら、眺めを楽しむ。

どんどん奥へと進むと、右手が緩い棚田。左手には平地に水田が広がっていく。ここでも一人のお母さんが忙しそうに田んぼの中を歩き回っていた。忙しない足の運びが、水を切る音でも感じられる。

陽が大きく西に傾き、水田を斜めから照らしている。

もう人家も見えなくなったので、途中で引き返すことにする。

戻って広い道路にぶち当たると左折。右へ行けば富来の中心部だ。

左折した道は、山の方へと向かっている。道なりに行くと、旧中島町(現七尾市)に通じる。

クルマから下りると、ちょっと肌寒さを感じるくらいになっていた。

かなり長い山道だと感じた。特にこれと言った特徴はないが、風景には素朴な空気と生活感が匂っていた。

あらためて広い水田地帯を見ていると、これが日本的な農村、山里風景なんだろうなあと思ったりもする。

 かつて、門前剱地・光琳寺のご住職で、歴史研究家でもある木越祐馨先生から、能登の山里について話を聞いたことがある。

その時先生は、今いる辺りの風景も能登を代表するものだと言われていた。

旧門前から旧富来や旧志賀、そして旧中島。さらに、かつて何度も訪れた旧能都町や旧柳田村、そして輪島や珠洲や内浦などの山里風景には、ほっとするというよりも、ハッとするといったものとの出会いを感じたりもする。

生活感覚は変わっても、やはり変わらないものはある。それは自然をベースにしたものだ。

しかし、過疎という不気味な現象によって、自然をベースにしたものたちが、何かに形を変えようとしているようにも感じる。

奥部で目にした、かつての水田の跡。道も、通るものがいなくなり、少しずつ土に被われ隠れていく。

自分の居る場所も、タイムスリップした後のように感じて怖くなった。

道が自然に消えていくというのは、恐ろしい。

単調とも言える道なりの風景。単調と思えるようになったということが、その中に溶け込んだということなのだろうと勝手に解釈する。

道沿いに立派な構えの神社があった。国指定重要文化財・藤津比古神社とある。

何気なくクルマを止め、境内に立つと、そこからも水田の眺望がある。

何があるわけでもないが、何かがある。何かがあるようで、何もなかったりもする。

人の生活というのは、本来そういうものだったのかも知れないとも思う。

時計を見て、再びクルマへ。太陽は山蔭に隠れようとしていた。

やがて能登有料道路の横田インターへと近づいていったのだ。次はどこへ行こうか……

 

 

ススキの滝と、一宮海岸の夕焼け

羽咋市滝町から柴垣へ抜ける道沿いの田園地帯は不思議な場所だ。奥に見える日本海と、さらにその上に広がる空とのバランスが、切ないくらい?胸に迫ってくる。

ボクにとっては、どこかの島にいる雰囲気だ。北海道の微妙な記憶とも重なる。

夏は夏らしく、青々とした草原のような輝きを放って生気に満ちたいい風景なのだが、秋口もまた、ぐぐっとくるほどのシンプルないい風景を創り出している。特にススキが生い茂る頃には、どこか幻想的なムードも漂わせ、誘い込まれていくような感覚に陥る。

背景に海があるからだろう。

午後から輪島へと向かったある日の夕方、帰りも遅くなったついでに、無理やり寄ってみることにした。

柴垣の町を過ぎ、左手奥に妙成寺の五重塔をかすかに見ながら進むと、しばらくして右手がパーっと開放的になる。その開放的な空間が過ぎる頃に、国道から滝(海)の方へと下る狭い道があり、その道へと入っていく。

左手は滝の住宅地。右手は農地。右へ入る最適な道を探しながら、小さな道があるたびに覗きこむ。何本かをやり過ごして、田圃の方に伸びた狭い道にハンドルを切った。何が決め手だったのかは、自分でも分からない。

実際にその場へと入っていくには勇気が要った。道が農作業用の様相に変わり、轍(わだち)の中には雑草が伸びたままになっている。その辺りまでクルマを乗り入れると、ちょっとした緊張感も走った。

  クルマを下りて、歩いてみることにする。道沿いに揺れるススキは、ほとんどがボクの背丈より大きい。海に向かって真っ直ぐな道の果てには太陽がある。

その太陽の下で、日本海が光っている。昼間で時間があれば、この広い空間を歩きまわりたいのだが、ススキの穂が揺れ、今は妙に切なさも募ってきた。

クルマに戻り、すぐ横にあるポケットパークに入った。その辺りからの眺望もかなりいい。思い切って来てみて、よかったと納得している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま滝港口から海岸の方へと向かった。

ここまで来れば、やはり滝・港の駅に寄っていくのが正しい人の道だ…。

と思って、海岸線に出ると、海がまた激しく美しかったりする。

まずやはり、写真なのだ。このまま素通りするわけにはいかないのが、正しいカメラマンの道でもあることにする。

贅沢なくらいに大きな駐車場の、いちばん海に近いところにクルマをとめた。ここから見上げる空は本当に気持ちがいい。左右にひたすら広がっている。

  海に向かって歩く。海浜植物の中に漂流物が散在する砂の上は、革靴では歩きにくいが、そのうち植物も途切れると砂浜は急に歩きやすくなる。

ここはやはり、千里浜と同じような地質なのだろうか。気持よいくらいに弾力的な砂の感触が靴底から伝わってくる。

太陽がゆっくりと落ちていくところだった。すぐ沖にいる二艘のヨットも、ハーバーに戻ろうと向きを変え始めていた。

シャッターを押しながら、その度にふーっと息を吐く。波の音もほとんど聞こえないくらい穏やかな浜辺に、逆に息を殺したりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの浜辺は、「一宮海岸」と言うらしいことが、近くの案内板で分かった。

今まで単に滝の海岸と言う認識でいたのだが、そのネーミングの方が何となくいい感じがしないでもない。そう言えば、近くの廃校になった建物も旧一宮小学校だったことを思い出す。

ほんのしばらくで、 二艘のヨットもハーバーの中に消えた。ひたすらとにかく夕陽を見るだけとなった。

風景が止まったように見えるが、太陽は確実に移動している。

水平線のオレンジ色も少しずつだが狭くなっていく。またしばらくして、駐車場の方に戻ることにした。

ふと足元を見下ろすと、砂の上に靴底の跡がくっきりと浮かび上がっている。さらに目を前に向けると、砂の上に長い自分の影も伸びている。

 クルマに戻り、あわてて港の駅へと向かったが、店の中の電気がぼんやりと弱い光を放っているだけだった。人影も見えない。

最近食ってない激しく美味な油揚げが、お預けとなって瞼の裏から消えていく。O戸さんの顔もしばらく拝見していない。

わがままで、人の道からはずれた自分を反省した………

瓜生(うりゅう)までの道

 

 石川県河北郡津幡町瓜生。名前を聞いてピンとくる人はまずいないだろう。

 途中で道を聞いたりしてもびっくりされる。そして、「もうちょっと行ったら、また聞いてくれ」と言われたりもする。しかし、道中で聞く相手もなかなか見つけられない。

 広い面積を持つ津幡町だが、瓜生の先はもう羽咋郡やかほく市との境界だ。しかし、道は瓜生で消えてしまい、その先に進むことは出来ない。

 瓜生を知ったのは、今から四年前。旧門前町(現輪島市)に建設された「輪島櫛比の庄禅の里交流館」の展示計画がきっかけだった。

 そこは總持寺の歴史などを紹介する施設なのだが、瓜生は總持寺の第二世・峨山韶碩(がざんじょうせき)の生まれた場所で、その生誕地にある記念碑の写真を撮りに行った。

 總持寺の後を継いだ峨山は、その後、總持寺はもちろん曹洞宗の発展にとてつもない貢献をしている。總持寺は全国に一万四千あまりの末寺をもったが、その基盤は峨山が作ったものだ。

 總持寺を離れてからも、羽咋の永光寺(ようこうじ)に入った峨山は、毎朝その永光寺から總持寺までを往復してお勤めを果たしたと言われている。その山間の道は「峨山道」と呼ばれ、今もその道を踏破するイベントが開かれているが、その距離なんと五十キロあまり。羽咋と門前の険しい山道だ。毎朝のお勤めのために短時間で往復したという伝説は信じがたい。かなり膨らました話にまちがいない。

 ところで全くもってカンペキに余談だが、先日長女が七尾から津幡までワケあって歩いてきた。距離にして約六十キロ。途中で八番ラーメン食ってたとか、京都の友達にメールしていたとか、その他余計な時間も当然費やしてきたみたいだが、昼前に出発して津幡に着いたのが夜中の一時過ぎだった。津幡まで迎えに行くと、六十キロを歩いてきた長女が半死状態でクルマに乗り込んできた。その様子を振り返っても、やはり峨山のスピードはあり得ない……という、それだけの話だ。

  話は大きくそれたが、總持寺に関してもろもろ詳しく知りたい方は、禅の里交流館へ行くべきである。なにしろ年表中の文章やその他すべての文章は中居寿(ヒサシの方ではない)の執筆によるものだ。当然、窮めてまじめに書き下ろした文章ばかりであり、撮影した写真も含めて、しみじみと読み見てもらうのがいい。もうひとつ、資料調査などで苦労した「藩政時代の總持寺」のジオラマ模型も見どころであることを付け加えておきたい。

 さらについでに書くと、交流館の前にある小さなレストランでランチするのもお薦めだ。Uターンしてきた若き青年の作る美味しいパスタなどが味わえる。

 そんなわけで、津幡町瓜生に最初に出かけたのは四年前の七月の暑い最中だった。美しい水田風景が広がり、視界に広がる緑一面の風景に目を奪われた。

 そして今回は、十月。秋空にこれまた秋雲が浮かぶといった、正しいのどかさとやさしさに包まれながらの、のんびりドライブであった。

 瓜生に行くには、ボクの住む内灘からだと、まず森林公園に向かうのが定番だ(…と思う)。途中で津幡北バイパスに乗り、高岡方面へと向かう。しばらくして刈安という降り口でバイパスから外れ、山の方へと入っていく。

 途中、進行方向左側に古い小学校の建物が見える。廃校となった旧吉倉小学校だ。今は津幡町の歴史民俗資料収蔵庫として使われているが、簡単には中に入れてもらえない。そして、そのことを象徴するかのように? この旧校舎の前には奇妙なふたつの像がある。

 ひとつはというか、ひとりは昔の小学校の究極的シンボルで、薪を担ぎながら書に親しむ二宮金次郎(尊徳)さんなのだが、もうひとりの軍人っぽい、とぼけた風貌のオトッつァんはよく分からない。ひょっとしてとんでもない偉い人だったりすることは当然想定されるが、名前は発見できなかった。次回は何としてでも調べ上げねばならない。

 写真は帰りに撮ったもので、西日を背景にしているからちょっと暗く見えるが、この雰囲気の方がなんとなく好きだ。廃校が多くなっていくが、建物だけはこういう風に残していってもらいたい。かつて多くの子供たちの歓声が響き渡ったであろうこうした校舎は、もっともっと大切にされるべきなのだと、つくづく思う。要は活用することだ……

 クルマは美しい斜面が広がる山里の中を走る。稲刈りが終わると風景は一変するが、前に見た夏の活き活きとした生命感は消え、何となく息遣いも抑えられるような気配を感じる。しかし、クルマを降りると風が気持ちいい。

 農作業で使われる道にも秋の気配がしっかりと漂いはじめ、しばらくボーっと佇んだりした。

 T字路にぶつかる手前で、畑にいる老人に声をかけた。「瓜生に行きたいんですが、右へ行けばいいんですよね?」 帽子を取った老人が、笑顔で答えてくれる。

「瓜生? 右やけど、この先は興津(きょうづ)ってとこ目がけて行って、また、その先にT字路があっから、そこまた右に曲がって…。そっからは、ええっと、まあ、その辺の人に聞いた方がいいな」

 老人は笑い顔で言った。予想していた返事だったが、ボクはそこでハタと前に来た時のことを思い出していた。

 “峨山禅師生誕の地”だったろうか。しばらく走ればそんな表示の入った案内板が目につくはずだ、ということを思い出していた。

 礼を言って、すぐにクルマを走らせる。しばらく走ると斜面に広がる興津という集落が見えてきた。このあたりはあまり記憶にないが、視界が広がりなかなか美しく気持ちがいい。すぐに峠にさしかかり、そこから下ると国道四七一号とぶつかった。左は羽咋方面だ。

 交差点正面にあった、“峨山禅師生誕の地”。右の方に矢印が向いている。やはりそうだったなと、記憶力にあらためて納得し信号が青になるのを待った。

 国道から再び県道に入り、またしても左折や右折など、案内板の指示に従って進む。

 道は山肌に伸びてぐっと狭くなり、そのうち進行方向の右下に刈り取りの終わった水田が見下ろせるようになった。

  そして、その辺りからしばらく走ると、人家が見え始め、瓜生の集落に着く。

 初めてきた時もちょっと不思議に思ったが、この小さな集落からなぜ峨山のような人物が生まれたのだろう? 集落の大きさは関係ないだろうが、この山深さに不思議さを感じる。

 昔、富山県五箇山の赤尾というところに道宗(どうしゅう)という人がいたが、その人もまた優れたお坊さんだった。しかも妙好人といって、普通の家の人から僧になったという人物だった。赤尾には、合掌造りの岩瀬家の隣に、道宗が開いた行徳寺という寺がある。

 赤尾もそうだが、瓜生もまた山深い土地であり、時代背景的なことを思うと、七百年以上も前に生まれた峨山の生涯は想像の域を超えてしまう。

 峨山の碑は、道が途絶える前にある。小さな川が流れ、ちょっと広い駐車場?があって、その脇から階段を登ったところにある。記憶がよみがえった。

 老婆が腰を曲げ、階段に手をつきながら登ってくる。登りきったところで、こんにちはと声をかけると、曲がった腰をさらに下げ、ちょっと戸惑ったように笑い返してくる。何か言ったように思ったが、声ははっきりと聞き取れなかった。老婆はさらに上にある場所で、近所の人たちなのだろうか、一緒に何事か話し始めていた。

 そう言えば、初めてきた時には人の姿を見ることはなかった。夏の暑い日だったせいもあり、外出も控えていたのだろうか。

 特に何をするでもなく、ぼんやりと川の流れなどを見ながらぶらぶらする。道はすぐそこでなくなっている。道の果てる土地に住むというのはどういうものかなと、ちょっと大袈裟に思ったりするが、なかなか想像が膨らまない。ここにはもう若者の存在もないだろうし…と、余計なことも考えてしまうだろう。

 瓜生はただ行って来たというだけの場所だ。そこに住む人たちと話をしたとか、そういったこともなく、ただ歩いたり眺めたりするだけの場所でしかない。そして、そういう場所が自分には多くある。

 道すがらの風景の素朴さに安心しながら、やっぱりいいなあ…と、そんな思いを新たにした。目的地はもちろんだが道中の風景を大切にするやり方が、自分には合っている。

 帰り道も、焦ることなくゆっくりと初秋の風景に浸れた時間だった……

 

B級風景のこと

 “B級風景”という勝手な名前を付け、身近にあって自分の好きな風景を大切にしている。先日、柿木畠でこういう話をしたら、横で聞いていたご婦人が、なかなか面白そうやねえと興味を示してくれた。“B級グルメ”と言う言葉がやたらと流行り始めてから、このネーミングを思い付いたのだが、実はずっと以前からこういう概念(というほどのものではないが)と、楽しみ方を持っていた。

 それは司馬遼太郎氏の『街道をゆく』に影響された街道と歴史をめぐる旅や、信州などへの自然を求める旅、さらに奈良京都などへの古い寺社をめぐる旅などから得た道中の楽しみ方の発展したものだった。

 ボクの場合、単独での行動が多かったこともあってか、気の向くままに足(クルマ)を止め、その場に佇んでボーッと何かを眺めるということができた。そういう時に眺めているものというと、ほとんどが深い山里の風景などで、そんな中でも少し生活の匂いのする場所が好きだった。

 たとえば、川を挟んで向かい側にぽつんぽつんと家があり、それらの家の背後に小高い山があったりすると、ボクのセンサーは鋭く反応した。それが川というよりも谷を挟んでいたりすると申し分なかった。山並みの角度や家々の建ち方にもこだわりはあった…が、それらはすべて全体の風景を構成する一部であったと思う。

 こういう風景は、観光地でも、まちづくりで整備された地域の中でもない。ごくごく普通の道すがらにあった。上高地行きの話でも書いたが、途中にある村の風景は、いつも心の中に秒速五メートル半ほどの風を吹かせた。高い山並みに囲まれた谷沿いの道、その道沿いにつづく石垣や畑や家々、道のカーブの仕方ひとつにもボクの胸は躍った。

 上高地へは登山で行くことが多くなると時間が勿体なくなり、ただひたすら若干の徐行で我慢せざるを得なくなった。夏の季節が多かったせいもあり、のびのびと子供たちが遊んでいる風景が印象として残っている。

 また、糸魚川から白馬方面へと上る国道沿いにある山里も強く印象に残り、姫川の流れを挟んで、よく向かい側ののどかな山村風景を眺めたりした。弁当を買っていき、河原から風景を眺めながら食べたこともある。ある晩秋の黄昏時、農家の屋根からゆったりと昇り始めた煙を目にした時などは、野良仕事を終え一番風呂に浸かるお父さんの姿が浮かんできた。あああ~ッという、その日一日分の疲れを吐き出す声も聞こえてきた気がした。風呂上りには、冷たいビールが待っているんだろうなあと、余計なことも考えた。しみじみと自分の人生などを思った時であった…?

 こういう状況に自覚症状が表れ始めると、敢えて遠くまで足を延ばさなくても自分を満たしてくれる風景があることに気が付きはじめる。しかも、何となく日常の中にそういうものの存在を発見し、暇を見つけて近場にも出かけるようになる。

 仕事でもそんな流れが出来ていくのは当然だ…?

 加賀から始まった観光の計画に関わる仕事は、まさに打ってつけのモチーフとなる。白山麓全体の観光計画に関わり、村々をめぐっていた頃には、プライベートでも山道に深く入り込んで、とにかく新しい発見に没頭した。能登でも一応全域の道をめぐった。仕事で行くことができたという運の良さ(自分で企画したから)もあり、仕事と趣味とを合体させるお手本のような至福の日々であった。

 当然のごとく、金沢でもよく歩いた。某大学の先生とのコラボとなった古い家並みを紹介するための旧城下の調査取材。卯辰山山麓や小立野、寺町の三寺院群をそれぞれにめぐる道の調査取材などは、とにかく四方に目をやりながらの風景探しだった。もちろん、こういう仕事には撮影や文章書きが付いてまわり、それらはいくつかの印刷物などに残っている。

 そして、その時に見つけたのが、まちの一画にある何でもない素朴な風景だった。寺院群の取材では、卯辰山山麓に最も時間を費やしたが、「こころの道」という名前で知られているルートには、隠れた魅力(いい場所)がいっぱいあった。

 小立野の寺院群をめぐるルートは「いし曳きの道」と名付けられたが、ボクは三寺院群めぐりの中で、この道がいちばん優れていると思っている。それはさまざまな坂道が生活空間の中に自然と絡み合っていて、風景をより立体的に見せているという点だ。そして、素朴な寺院の存在はもちろんのこと、何気なく建っている小さな石像なども印象的だった。

 寺町は「静音のみち」と名付けられた。“しずね”と読む。ここでは願成寺という、松尾芭蕉ゆかりの寺の周辺がハイライトとなった。寺の前の細い道をこの一帯のシンボルとして捉えたが、その後この場所は多くのメディアに取り上げられて、目新しさを感じなくなってしまった。

 金沢のように元来が観光地であると、そこにある風景には何かが宿っているといった見方が生まれる。しかし、それは兼六園であり、武家屋敷であり、茶屋街などでのことだ。それら以外の場所には、生活の匂いをプンプンさせながら独特の雰囲気を醸し出しているまちの風景がある。

 金沢のまちの場合は、それこそがB級風景と言えるものだと思う。猫が横切って行く小路、用水に架けられた小さな橋など…。

 かつて、ボクは金沢のそう言った場所ばかりを探し歩いていたことがある。尊敬する写真家でもあった故奥井進氏(ヨークのマスター)にも協力を依頼して、そういう記事を『ヒトビト』に発表していた。奥井さんの場合、特に依頼していたというより奥井さんも好きで撮っていたと言った方が正しい。

 しかし、ボクのB級風景と言う概念(というほどのものではないが)には、どうしても金沢の風景は入りにくくなってきている。街が美しくなっていき、いくら頑張っても? B級にはなれない宿命のようなものを感じている。

 そのことが悪いとかいいとかと言うのではない。金沢は日本を代表する観光のまちなのだから、B級の場所は隠れていくのだろう…?

 ボクは今、能登の町や村、そしてそこに生きる人たちのことを何気なく思っている。何気なくと言うとちょっと違うが、いろいろと書いたりしているから、読んでくれている人はそのことに気が付いているだろう。

 B級風景への思いは、能登から始まった。能登の中の都会、例えばW市やN市、特に前者に関わる仕事をしながら、その逆説的な意味での素朴な風景の話に救いを求めた。一般的な観光地としての魅力とは違う別なものが、そこにはあると思った。

 ボクは、能登は風景がそのすべての源にあると思っている。自然そのものである海や山に人の営みが絡みついて、どこからか独特の空気をブレンドし漂わせてきたと思っている。それはある意味重くて何物にも代えられないことでもあり、そのことが過疎を生み、観光の衰退などにも繋がったのかもしれない。

 しかし、その風景はこれからもずっと残っていく。そして、見る人たちに何らかの安らぎや高まりなどをもたらし続けるとも思っている。そこに能登のB級風景の凄さと、それによる真髄みたいなものを感じる。そして、ボクが最も引っ掛かるのは、その場所に人の営みが残っていくかだ。このことはまた別な機会に書く・・・。

 S枚田とかだけが特化されるような風景の話には、どこか違うのではないだろうか?と、勝手に思ったりもしている。あそこはA級もしくはS級で、しかも人の営みは感じさせない。

 文化などというとすぐに観光資源としての評価に結び付けてしまうから、この風景論は文化を語るものにしたくはない。しかし、身のまわりにあるような、素朴で生活の匂いを感じさせる自然風景の存在には、何らかの評価があっていいのではないかと思う。

 そんなむずかしいことを考えているわけでは全くなく、B級風景を楽しもうという素朴な思いを書きたかったのだが、意味もなく固い話になってきたので、続きは、今度また書くことにするかな…。

 生まれ育った内灘の風景にも、B級の匂いを感じ始めてきたのだ……

秋はまだ始まったばかり

某ショッピングセンター内の書店で面白そうだと手に取った一冊の本。チラチラと読んでいくと、予想どおり面白い。立ち読みは辛いので周囲を見回すと、本棚の角、いいところに椅子がある。腰を据え、ほとんど走り読みながらも七割ほどは読み終えてしまった。

談志師匠の最新本(にあたるだろう)だと思う。といっても、去年出た本だ。帯にもあるが、買うのはよしたほうがいいと言っているので、とにかく走り読みに徹しようと思っていた。しかし、三割を残して制限時間いっぱい、店を出なければならないこととなった。しかも走り読みだから、中身ももうひとつ体にというかアタマにというか沁み込み方が足りないまま・・・

帰ってから飯を食っていても、歯を磨いていても気になり、寝床に入ってからも気になっていたので、ついに我慢できなくなり、翌日、某デパート内の書店で買ってしまった。本はやはり自分のものにして読むのがいちばん。かつては本とレコードと洋服、そして山の道具と小さな旅のために金を使ってきた。今は少ないが、本のためにいちばん金を使っているかもしれない。

買ってからじっくりと二回読んだ。「やかん」というのは落語の題目だが、『世間はやかん』というタイトルは単なるゴロ合わせだろうか。全編にわたって、長屋のご隠居と住人・八っつあんとの対話形式で進んでいく。べらんめえ調の文章だから、読み方もべらんめえ調になる。内容は一言で言っていい加減。しかし、そのいい加減さが徹底されて、そこに真実が見えてくる・・・と言えば大袈裟か? とにかく立川談志の世界なのである。

短いジョークがいい。ひとつだけ紹介すると・・・

「ねえ、おにぎり恵んでくださいよ。ここ三年ばかり、満足にコメの味、味わってェないんですよ」 「心配するな、変わってねぇから」

おまけに、もうひとついく。

「お前はいつも電話が長いね。一時間二時間平気で喋ってんだから。でも今日は短かったじゃないか、三十分だったよ。だれだったの、電話?」 「間違い電話」

まあ、こんな具合にというか、矢継ぎ早にジョークが弾んでいく。弾け砕けながらの約二百ページだ。

去年だろうか、NHKの夜のラジオ番組にレギュラーで出ていた談志師匠は、声もやっと出るくらいの調子で、言っていることはおかしくてたまらないのだが、言葉少なで可哀想だった。

一九三六年生まれだから、もう七十五歳。若い頃は正直言って、どこか憎たらしい感じもあったが、今では自分も談志師匠とほぼ同類科に属しているような感覚にもなっていて、大いに親しみを感じているのだ。

そんなわけで秋の始まりを感じている。

秋晴れの午後、いい気分で、お向かいの津幡町にある森林公園へ歩きに出かけた。しかし、コース選択を間違えて予定をはるかに上回る時間を要してしまった。山で鍛えられたから普通ならそれくらい平気なのだが、歩き始めが遅かったので、駐車場の閉鎖時間に間に合わないかと焦ってしまった。

原因は、サイクリングロードを歩いたからだ。道は舗装されているが、歩行コースよりははるかに長い。当たり前だが、そこを歩くということは時間がかかるということだった。

冷え込み始めた山間の向こうから、超低質なスピーカーをとおして『蛍の光』が聞こえていた。最初は重機の異常音かなんかだと思ったが、よく聞いていくと『蛍の光』だと分かった。ただ、分かってからは焦りが増したのは言うまでなく、そのおかげもあってか、何とか駐車場にたどり着くことができたのである。

しかし、音響システムも悪いが、案内システムもよくないのではないかと思ってしまった。現在地が分からない森は、慣れない人にとってパニックになる恐れがある・・・と、思う。

森林公園には「どんぐりの道」というエリアがある。まだ九月の下旬、道にはぽつぽつとどんぐりが落ちていたが、まだまだ半熟状況で、大きさも色ももうちょっとといった具合だった。

それよりもどんぐり以上に目立ったのがカマキリだ。いたる所に待ち構えていて、アスファルトの路上まで危険な狩りに出ていた。中には蜂をカマに刺した雄々しいのもいて、秋の勇者は健在だった。ただ数があまりに多くて、「どんぐりの道」よりも、「カマキリの道」にした方がいいのではと、余計なこともついでに考えてしまったのである。前にも書いたことがあるが、ボクはカマキリが好きだ。木板張りの我が家の壁にも、カマキリたちは卵を産む。そして、そこから無数の子供たちが巣立っていく。

若いファミリーが歩いて来て、若いお父さんが一匹のカマキリを捕まえた。小さな男の子に、これが本当のカマキリだよと見せている。本当のカマキリとはどういう意味なのだろう? ちょっと考えたが、面倒臭いのでそのまま考えるのをやめた。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

空も秋になりつつあった。帰路、河北潟干拓地の道から内灘の空が赤く染まっているのを遠く眺める。中空に雲が薄く浮かんで見えて、何か爽やかで尊いものを見ているような気持ちになった。

砂丘の公園にある展望台に向かい、その階段を昇った。内灘の海に落ちていく太陽を追って、多くの人がやって来ていた。皆が海の方を向いている中、ボクは反対側に見える北アルプス北部の山並みに目をやっていた。剣岳がごつごつした山容をくっきりと浮かび上がらせている。そう言えば、来月は薬師岳の閉山だったことを思い出した。

夏や冬は焦るが、秋は焦らないで過ごせるからいい。談志師匠のスタンスで、今年の秋はやり過ごしてみようかと思う・・・・・・

富来から門前への道~その2

下り坂の前方に山里の田園地帯が予感し始めると、道はしばらくで分岐に行き当たった。

左折して、方向的には日本海方面へと向かう。まだまだ海の様子など感じ取れないが、方向的には間違いない。

進行方向の右手側にあざやかな緑の世界が広がり、白い雲を浮かべた青空とともに、見事なまでの巨大な風景画を創り出している。

すぐに道が狭くなった。さっきまでの勝手気ままな運転とは打って変わって、一気にスローダウン。右手側の美しい緑の世界も気になり、すぐにクルマを止めた。なにしろ交差も難しい狭さだ。しかも山裾をぐねぐねとカーブしていく。

カメラを構えて何度かシャッターを押す。緑が途切れることなく続いているのを、レンズを通して見ている。山里の農村風景の特徴としては、かなり定番的なものだが、ボクにとってこれはかなりいい部類に入るものである。

水田の稲の緑、背景にある斜面の草の緑。そして山肌に立つ樹木の葉の緑。稲が伸びてくると、緑の平坦な面が大きくなり、ちょうどこの季節には山の緑と融合していく。緑の威力がまざまざと発揮されて、他の色を沈黙させる。一面の緑が気持ちを大らかにさせたりもする。

日本の農村風景の原点は、やはり水田のある風景なのだと今更ながらに思う。水田に植えられた稲が成長し、緑の広がりをつくっていく。成長していく稲は夏を迎えて緑を一層濃くし、周囲にある草たちとも一体化していく。

人の手によって植えられ、大切に育てられた稲が、自然に生えてきた草たちと同じ仲間であったことに気付かされる時だ。

そして、このような緑の世界に、ボクは無条件に平伏してしまうのだ。つまり、こんな風景が大好きでたまらないということだ。

ただ、黄色や白色や赤色をした花々たちも黙ってはいない。道端に並んで素朴な存在感を誇示したりするが、集落に入って、すぐにそんな場面に遭遇した。

集落の入り口にはいきなり廃屋があったが、集落自体には人の生活の匂いがしている。

どこかでクルマを止めようと思い、そうしたのは浄楽寺という小さな寺の階段の下だった。

見上げると、こじんまりとした、上品な寺の佇まいがあった。この集落の人々が集うにはちょうどいい大きさなのかも知れないとも思った。なかなかいい雰囲気だ。

そして、そこからしばらく歩いたところに、一見無造作に植えられたかのような小さな花畑があった。盆地状の水田地帯を見下ろすようにして伸びる道沿いに、その花畑はあり、花たちは見事な緑の借景を得ている。そうでなくてもそれなりに美しいのだが、背景の風景を意識すると、遠近感に敏感になりながら花たちを見ることになる。

まだ人の姿は見ていないが、夏の炎天下、農作業も朝か夕方近くに偏っているのだろう。

能登のイメージは海のある風景が基本であるが、このような農村風景の素晴らしさも見過ごしてはいけない。『世界農業遺産』という、とてつもない勲章をいただいてしまったことでもあり、これから先もっともっと注目されていくのだろうが、それらの中の、より素朴な部分を忘れてはいけない。それが、能登の農村の原点なのだと思う。

千枚田もたしかに農業としての凄い財産ではあるが、ボク自身は今見ている何気ない山里風景にこそ、能登の農業の空気を感じたりする。もっと言えば、この風景の中にこそ、「能登はやさしや、土までも」の極意が沁み込んでいると思っている。

クルマに戻り、仁岸川に沿ってゆっくりと下って行く。額や鼻のアタマのヒリヒリ感が一層強くなったように感じる。

川沿いの木立の下の道ではエアコンを切って走った。狭い川の流れが枝葉をとおして見えるが、岩がごろごろとして渓流のイメージだ。ちょっとした広い場所には、昼食タイムらしいクルマが止まっていたりするが、結局その道に入って、クルマらしきものを見たのはその一台だけだった。

もうあとは平地だけだと分かると、少し物足りなさも感じたが、ここでもゆったりとした傾斜地と小高い山並みに囲まれた水田地帯に出た。

それほど遠くもないちょっとした高台に、寺らしき建物が見える。農村だろうが漁村だろうが、日本には必ず神社や寺があって、その建っている場所がユニークだったりする。ユニークなどといった軽薄な表現は相応しくないが、今走ってきた道からの視界にも、山裾の木々に囲まれた小さな神社の姿があった。前面に水田が広がり、近くの集落の人であろう老人が一人立っていた。ああいう場所に建てられた意図は何なのだろう?

しばらく走ると、作業場か何かだろうか、また山裾にぽつんと建物が見えてくる。

旧門前・剱地の見慣れた風景の中に入ってきた。

仁岸川の流れが、水草に恵まれてか透明感を増したように見える。小さな魚の群れが、立ち止まったり、急に動き出したりを繰り返している。手拭いを頭に巻いたおばあさんが歩いてきて、こくりと頭を下げて行った。

剱地には、光琳寺という真宗の大きな寺がある。実を言うと、前篇に書かせていただいたK越先生は、この寺のご住職さんである。

この寺の大きさに驚かされたのは、もう十五年ほども前のことだ。以前に書いたことがある、剱地出身で大学の後輩、そして会社でも後輩となり、私的にも深い交流を持っていたT谷長武クンの通夜と葬儀に来た時だ。特に葬儀では、参列者が男女に分けられ、さらに町外と町内にも分けられた本堂の広さにびっくりした。

実は、今回の門前黒島での仕事中、K越先生との打ち合わせに出向いた際、事前にそのことを話してあったためか、先生が彼の墓を案内してくれる手配を整えてくれていた。親戚の方を呼んでくれていたのだ。ご両親には連絡がつかなかった。

驚いたが、せっかくだったので案内していただいた。クルマで裏山を上り、また少し下った場所に墓はあった。海が見えた。実は五年ほど前だろうか、一度この場所に来ていた。しかし、同じ名前の墓がいくつかあり、どれが彼の墓なのか分からず、遠めから合掌して帰ったことがある。

やっと来れた…。そう思って深く長く手を合わせた。すると、そこへ一台のクルマが。T谷のご両親だった。葬儀以来だった。かわいいお母さんと、ダンディでかっこいいお父さんはご健在だった。そして、何よりもボクが来たことをとても喜んでくれて嬉しかった。総持寺関連の仕事といい、今回の黒島角海家の仕事といい、T谷が引っ張ってくれたような気がしている。

光琳寺から少し離れたところに、剱地八幡神社がある。小さいが風格のある神社だ。灯篭などもこのあたりがかつて栄えていたことを示している。

静かな剱地の界隈にも容赦なく夏の日差しが注いでいた。草の上すらも熱い。木立に近付くと、一斉に蝉たちが飛び立っていった。

とてつもなく美しい門前の海を見ながら、富来から走ってきたこの道が、門前の剱地と繋がっているということに魅かれているのかも知れないなあ…と思う。

そして、農村と漁村とを繋ぎながら、いろいろなことを感じ、考え、思わせてくれる道でもあるなあ…とも思った。

目的の黒島に着いたのは、一時少し前。仕事場である角海家周辺には何台ものクルマが止まっていた。暑い中で頑張ってきたスタッフのK谷、O崎、T橋の三人が、庭に立っている。彼らの背中がたくましく見えた。もしT谷が生きていたら、彼が今のスタッフたちを引っ張っていたんだろうなあ・・・と、後日しみじみと思ったりもした。

それから数日後、角海家は復原され再公開の日を迎えた。お世話になった地元の老人たちが、炎天下の町に出て目を細めていた。皆さんにあいさつして回ると、やさしい笑顔とねぎらいの言葉が返ってきた。

そして、そのまた数日後には、強い風が吹く黒島で恒例の「天領祭」が行われていた。

道は、いろいろなものを結び付けてくれる。能登の道もまだまだ魅力に溢れている。特にこれからは農村風景をもう一度じっくり見てみたい。ボクが勝手にカテゴリー化しようとしている「B級風景」が山盛りなのだ。まだまだ、道を探る楽しみは尽きない……

※「遠望の山と、焚き火と、なくした友人のこと・・・」http://htbt.jp/?m=201011

富来から門前への道~その1

旧富来町から旧門前町に通じる道にはいくつかあるが、最も知られていないのが、今回のこの道なのではないだろうか…、と秘かに思い、嬉しくなった。

一般的に富来から門前への道と言えば、国道二四九号線だろう。能登観光のルートとしては、増穂浦から西海、ヤセの断崖などを通る道もある。このルートは観光用途であり、最終的に門前に入る時には前者と合流する。

旧門前黒島に堂々と復原された角海家の仕事のために、八月に入ってからもよく門前行きを続けた。始めの頃は、同時に富来というか、志賀町図書館の仕事も並行していて、富来経由門前行きというパターンも数回あった。

初めてこの道を走った日は、富来で行きつけとなった超大衆食堂・Eさん(前に正式名で紹介したような気もするが…)で、いつもの「野菜ラーメン」を、いつも付けている「おにぎり」を付けずに食べてから、ふと考えてクルマを走らせた。

いつも同じ道から門前へと向かっているが、たまには違う道から行ってみたいと思った。そして、ある話を思い出した。

それは角海家の仕事で地元の歴史・民俗に関する文章のチェックをお願いしている、門前のK先生が言われていたことだ。ボクが能登の農村風景が好きだと話していた時、先生が富来から中島(現七尾市)に抜ける道にある農村風景は、特に素晴らしいよと語ってくれた。ボクは門前もかなりいい線いっていると思っていたのだが、先生の言葉にはかなりの説得力があり、是非一度そのことの再確認に出掛けてみたいと思った。

再確認としたのは、何年も前にその道を走ったことがあったからだ。しかし、記憶には残っていない。多分行ってみると、懐かしさに心を震わせたりするのかも知れないが、どうもピンときてはいなかった。

実際に走る道は、中島へ抜ける道から門前の馬場・剱地方面へと分岐していくのだが、その雰囲気は味わえるかも知れない…と思った。それに新しい道というのは、知ってしまうといつも好奇心をくすぐる。さらに、ボクには特別な意味合いもある。

しかし、初めての日は慌ただしかった……

二度目は、富来を代表する超大衆食堂・Eさんが休みで、かねてより少しだけ気になっていた、町の中心部にある古い佇まいの大衆食堂(名前が出てこない…)で、「カツ丼」を食べてからクルマを走らせた。

古い佇まいの食堂では、テレビももうすでに地デジ放送になったのを知らないかのように、夏の甲子園をハレーション化していた。小さなお子さんたちにはかなり目に悪いのではないだろうかと思われたが、そんなお子さんたちがやって来るような店でもないからと安心して、「カツ丼」を注文。

玉子とじ状況が予想をはるかに超えるくらいに著しく過激な「カツ丼」が届いた頃には、ボク以外にまだ誰も他の客はいなかった。が、すぐに、一人また一人と入って来ては、それぞれが四人掛けのテーブルに一人ずつ座っていく。ボクが食い終わらないと、次に入ってくる客は相席となり、当然このままでは順番からしてボクの前に座ることになるであろう。そのことは明白だった。

ボクはそのような空気の中で、とりあえず普通にその「カツ丼」を平らげ、残っていたミョウガとアサリの味噌汁を飲み干して外に出た。素朴に美味かった。これだから富来は凄いのだ……。

味噌汁が効いたのか、汗が胸と背中に均等に流れ落ちていった。いや、どちらかと言えば、背中の方がやや多かったかもしれない。ゴツい造りの店内を見回し、店のお母さんに勘定を払う。“ありがとねェ”と親しみをいっぱいに感じさせる言葉が返って来た。

その言葉がエネルギーとなり、ボクは熱気ムンムンのクルマに乗り込んだ。そう言えば誰かが言っていたなあ。黒いクルマは熱いんだと……。でも仕方がないではないか。

今日は、あの道を究めよう。気温は三十五度近くまで上がっているに違いない。アスファルトが白く見える。

住宅地を抜け広々とした田園地帯に出ると、進行方向の低い山並みの上に見事な入道雲。その先端が、風に揺らされ靡いている。ゆっくりとした動きが感じ取れる。クルマを止めカメラを構えた。〈タイトル写真〉

トラックが通り過ぎていき、熱気が右から左へと移動していく。質量とも半端ではない。鼻のアタマがあっという間にヒリヒリし始めた。いきなりいい場面に遭遇できたことに嬉しくなった。

道は山越えバージョンに入って行く。

能登は海なのだが、能登は山でもある。今風に言えば、里海でもあり里山でもあるという優等生なのである。実はボクにはそのことに関して、ずっと持って来た自分なりの思いがあるのだが、今ここで書くかは分からない。なりゆきでいこう……

陸上をひたすら進んでいくには、真っ直ぐな道がいいに決まっている。昔は海運の発達で海辺にある村が発展するのだが、山里の人たちはそのような海辺の村に行くためにただ山道を歩いていった。

ただ、山道はときどきいくつにも分岐しているから、逆にいろいろな方向へと行けるメリットがあった。海沿いの道には全く分岐がないのを見れば分かるだろう。片側が海だから十字路など存在しない。

しばらく走ると、例えば北海道や信州の山道の何分の一かのスケールで、見事なダウン・アンド・アップの直線道が現れる。本当はカナダやアラスカなどの壮大な例えを出したいのだが、新婚旅行のハワイと万国博の上海しか行ったことのない、幅の狭いボクにはそんな例えが精一杯だ。

しかし、実に爽快なドライブ感覚でもある。下りはアクセルを踏まなくても一〇〇キロ近くまで出た。しばらくは人の生活感を全く感じさせない人工的な道が続いた。次第にあまりにも味気ないので退屈になる。対向車もかなりまばらで、沿線の草は伸び放題になっていた。

待ちに待った山里らしき気配、農村風景への期待が高まってきたのは、下りがずっと続いた後だった……

※後篇につづく……

門前黒島の 素晴らしき人たち

かなり性格が歪んでいたと思われる台風6号の影響が消え去りつつあった日。旧門前町(輪島市)黒島の空には、久しぶりの夏の青空があった。金沢は一日曇りだったり、雨もチラついたらしいが、ボクたちはとにかく汗を拭きながらの状況下で仕事に追われていた。

といっても、仕事は屋内での映像の収録で、まだ我慢のしようがあったが、午前午後合わせて五時間近く緊張が続いた。話していると唇が渇いた。話が面白くて、何度も仕事を忘れた。何度も書いている、「角海家」の展示に使う地元の人たちの思い出話を収録するという作業だった。

午前は男性六名、午後は女性五名。最高齢は九十歳、最も若い人で八十歳という凄まじい布陣だ。男性の部では後半から、女性の部は最初からとボクも直接参加してナビゲーター役をさせていただいた。高齢化が極端に進んでいる黒島には、その分元気な老人たちが多い。しかも、江戸時代は天領であり、北前船による廻船業で財をなした地域である。誇りもある。

廻船業の衰退後も漁業を続けたり、その子孫たちは働く場を海に求め、ほとんどの男たちは海外航路の船員となって広く活躍してきた。今回集まっていただいた男性陣も、角海家のご当主さん以外は全員そんな船員OBである。中には商船大学を出られ、大型船の船長をされていた方もいる。そういう意味で、その時語られていたことの多くは、黒島の“船員文化”みたいなものだった。

父親の背中を見、海で育ってきた少年たちにとって、海で働くことは至極当然のことであったろう。戦前から昭和の中頃過ぎまでは、給料も非常によかったらしく、家を長期にわたって留守にしながら、男たちは船の上で働いてきた。家には外国からの土産で買ってきた品々が今でも多く残っていると言う。

同じ旧門前町剣地という地区で住職をされ、今回の展示解説についてアドバイスをいただいているK越先生から、こんな話をお聞きしたことがある。

子供の頃に、黒島の子供が「ドックへ行く」というのをよく聞かされ、自分は船員の子供でなかったから、その子たちが凄く羨ましかったという話だ。ドックとは造船所のことだ。定期的に受けなければならない点検のために船は、そのドックへ入れられる。その間に船員である父親に会いに、横浜や神戸などの都会へ家族で出かけるという習慣があったというのである。

都会へ行くということは、よい洋服を着せてもらえる。美味しいものも食べれる。流行などの生活感覚も吸収する。特に黒島という地区は先にも書いたとおり、廻船問屋の子孫が多くいたりして気概も高かった。周辺の地区の人たちもそういう目で見ていた。

今回集まっていただいた人たちは、そういう意味で黒島の中でもさらに上流の皆さんということになる。しかし、さまざまな生活習慣などをとおして語られることの多くは、“奥能登のひとつの村”である黒島を舞台にしたものばかりだった。大正から昭和の初めにかけて生まれた人たちにとって、多感だった時代は戦前戦中になる。そして、朝から夜まで“よく働く母親”を見てきた。家の主がいない中で、母親たちは、何でもやりこなさなければならなかったという。団結する村の人たちも見てきた。自分たち子供もまた、縦と横のバランスのとれた環境下で、兄貴分たちの言うことに服従し、友達同士のつながりを深めていたという。

最近はどこにでもある話だが、黒島でも祭りの衰退が悲痛な問題となっている。黒島には有名な「天領祭り」と、「船方祭り」というふたつの祭りが受け継がれてきたが、かつては多くの若者が祭りだということで故郷に戻っていた。たとえば行列に配置される役割などをみても、贅沢なほど豊かだった。若い娘たちは地毛で日本髪を結うために髪を伸ばし、着飾ったという。ある方から一枚の写真を見せていただいたが、十七歳という娘時代の姿に思わず見惚れてしまった。黒島ではなく、京都の祇園だと言ってもいいような雰囲気が漂っていた。

昔は、黒島同士の縁組が多く、そのことが黒島を維持していくことのできた理由でもあったという。「昨日の晩、どこどこの娘もろうたわいや…」というような話が、当たり前のようにあったと聞かされた。新郎が船乗りで、海外航路から帰っておらず、新婦だけが家に入るということもあったとらしい。ある日、突然知らない男が家に入って来て、それが自分の夫であったと初めて知った・・・そんなこともあったとか。

嫁入りする時の風習なども面白かった。特に嫁ぎ先の家の前に何本も縄が張られ、花嫁を家に入れないようにする風習があったという。そして、その縄をといてもらうには縄を張っている人たちにお金を渡さなければならなかったというのだ。

黒島の人たちは、かつての繁栄やその後の海外航路の船員という職業をとおして、自分の子供や孫に高い教育を受けさせるようにあっていく。そして、船乗りの仕事がアジアなどの船員たちの進出によって低収入化していくと、船員になる子供たちもいなくなった。多くが都会の大学などに進み、そのまま戻らなくなった。もちろん、奥能登に職場がないことも大きな理由のひとつだった。

都会へと出ていった黒島の次世代たちは、そこで結婚相手と出会い、そこで家庭を築く。別にどうということもない当たり前の現象だ。しかし、お嫁さんが黒島や、黒島でなくても能登や石川県の人であればまだいいが、全く異郷の人だと黒島は見向きもされない。先に書いた、昔は黒島同士の縁組が多かったということの意味がそこにある。最近、娘が婿を連れて帰郷してくるという現象が多くなっていると言うが、黒島の場合、やはりそれも定年後の移住などが今のところ考えられる最高のことでしかない。

実は、男性陣の取材の最後に、九十歳の最高齢だった方が、来春神奈川の息子さんのところへ行くことにした・・・と、淋しく語られた。その他の人たちにも、その時初めて話されたような気配だった。終始、俯きながら話す様子に、そう選択せざるを得なかった無念さが伝わってきて、その場がしんみりとした。

やはり、思ってしまう…、こんな素晴らしい黒島を、このままにしておくことは許せない…。 “能登はやさしや土までも”という言葉がある。土までもがやさしい…ということは、人はもっともっと、ハゲしくやさしい・・・ということだ。今回の取材だけでなく、そのことは最近になってまた多くの場面で認識させられる。

取材の終わり際、ボクは皆さんに自分の思いを少し語らせてもらった。角海家をとおして黒島を知ってもらい、黒島をとおして能登の一画を知ってもらう。能登の原点は自然と一体化した歴史や風土であるということだ。そのことをもう一度しっかり認識しなければ、能登という大きな地域性は中身のない空虚なものになってしまう。小さなことから始めないと・・・なのだと。

皆さんを、今回の会場になった旧嘉門家という廻船問屋の屋敷跡から見送る際、是非角海家に足を運んでくださいと告げた。この人たちの魅力が角海家や黒島の魅力を語ってくれると、ボクは何となく思っていた。

お世辞でもまったくなく、ボクは、正直あまりにも皆さんが快活で、知的で、そして楽しい人たちばかりであったことに感動した。

帰る前に、角海家を見に行く。中に入って、いちばん好きな、海の見える古いガラス窓の部屋に足を踏み入れる。それから外に出て、黒島の小さくなった砂浜に下りたり、周辺を少し歩いたりした。復元された佇まいと、海へとつながる石畳の道を見つめながら思ったのは、自分に何が出来るのだろうか・・・ということだった。今日お会いした素晴らしい人たちに、どうやって報いたらいいのか、はっきりと答えは見えなかったが、さらに入りこんでみる好奇心は確実に感じた。

まだ、あの人たちから離れて二十四時間も過ぎていないが、もういちど皆さんにお会いしたい・・・・・

門前黒島で頑張る時が来た

 

再び能登・旧門前町(現輪島市)の仕事に足を踏み入れ、とりあえず真っすぐに取り組んでいかねばならない状況下にあることを、数日前から悟りつつある。なにしろ、能登地震の震災復興最後の事業なのだ。

仕事の内容は、石川県の文化財に指定されている「角海家」という、かつて北前船で財をなした旧家における展示の計画と実施だ。数年前に同じ門前で総持寺に関する展示施設「禅の里交流館」というのをやらせてもらったが、門前の二大文化遺産を担当できるというのは実に幸せなことだ。ただ、今回の仕事は果てしなく厳しい。なにしろ六月のはじめにスタートしてから、八月中旬のオープンまで時間がないのだ。

角海家があるのは、黒島という地区。かつては天領であり、北前船の船主も多く、能登では最も廻船業の盛んな土地だった。今では昔の威勢はないが、それでも古い家々などを見ていくと、その面影に納得したりする。人々の気質も高く感じられるし、ボクたちのような中途半端な地域性しか持ち合わせていない者からすれば、その文化性はカンペキに高いと納得する。

ところで総持寺の住職さんは、代々輪番制で門前にやって来たわけだが、昔はもちろん船が交通手段だったわけで、能登の上陸地点は黒島だった。沖で小舟に移り、浜に上がると、そのまま黒島村の森岡さんという廻船業者(総持寺の御用商)の屋敷に入り、旅の疲れを落としたという。そこから総持寺の裏手にある小さな寺まで、お伴の者を引き連れての大行列。多いときには五百人くらいの行列となったそうだから壮観、凄い。このように黒島は門前の発展の礎となった総持寺の存在とも深く関わっていて、そういう意味でも貴重な地域性を持ってきたわけだ。

ちなみに総持寺は曹洞宗発展の基点となったとてつもない寺だが、明治に入って大火災で多くを焼失してから、横浜市鶴見に本山を移転した。移転された方は大打撃になり、祖院として存在を継続させたが、それほどまでに総持寺の存在は門前にとって大きかった。

しかし、先に書いた禅の里交流館の仕事をしている時にも思ったが、能登半島の先端に近い場所に、なぜあれだけ大勢力を張った寺院の本山が存在できたか?・・・なのだ。その答えが黒島にある。つまり、海運業だ。

昔は、少なくとも江戸時代までは、陸運といっても馬や荷車程度だから軽量な荷物の運搬しかできない。しかし、海運は船によって大量の荷物を動かすことが出来た。しかし、明治に入り日本にも産業革命の恩恵が押し寄せてくると、鉄道が敷かれ運送業のスタイルは一気に変わっていく。そういう時代の変化で海運業が廃れていくのに合わせ、総持寺の本山移転が実行されたのには、それなりの大きな理由があったわけだ。能登は東京から遠すぎた。

角海家の展示をとおして、ボクはこのような黒島の存在を伝えねばならぬゾ…と、秘かに思ってきた。なぜ、能登の先端にこのような豊かな文化が息づいたのか? これを伝えないで、黒島も角海家もない。そして、さらに黒島の人たちの誇りをいい方向へ向けてほしいとも思う。

先日行われた打ち合わせ会(委員会)で、資料調査を担当された神奈川大学のチームや、家屋復元の設計監理を担当された建築家のM先生、地元寺院の住職さんで、さすがだなあと唸らされた歴史家のK先生、さらに黒島区長さんであるKさんなどから、大変ためになる話をお聞きした。それらに返す言葉として、ボクも演出担当としていっぱしの話をさせてもらったが、やはり、根幹に置きたいのは“なぜ黒島が?”というテーマだった。そのことを平易にわかりやすく伝えられればと…

それにしても、黒島のまちは美しい。昔はなかった国道が海岸線にあり、あれがなかったらもっと素晴らしい景色が見れたのだがなあ…と、どこかの野暮な景観先生みたいなことは言わないが、何もないようで何かを感じさせる…、そんな“よいまち”のエキスが漂っている。高台にある神社や寺も、ちょっと歩くというだけの楽しみを誘発する。潮風に強いという板張りの家々も徹底していていい。

角海家は素朴さがいい。規模はそれなりに大きいが、決して豪邸ではない。とてつもない造りへのこだわりというより、普通に海が見えるとか、庭が見えるといった質素な目的が感じられて、安心したりする。廻船業が衰退した後、魚そのものや加工品などでの商いが続き、周辺の地区などで魚を売り歩いていたという、黒島の人たちのシンプルな生き方も角海家を通じて伝わってくる。地元のK先生が言われていた“黒島のカアカ(母ちゃん)”たちの働きぶりもまた浮かんできて、ボクなどはひたすら嬉しくなるのだ。

そんなわけで、この一件は今後ますます佳境に入って行き、いつものようにバタバタ・ズタズタ系の真剣勝負に突入していくだろう。かつて、地震の一週間後に門前入りした時、角海家は大きく崩れ、周辺の鳥居は折れて無残な姿だった。あれから地元の人たちは復興に向けて頑張った。その頑張り自体に意味があった。そのことを忘れず、そして、真夏の太陽がガンガンと照った空の下、黒島の砂浜で美味いビールが飲める日を、秘かにアタマの片隅に描いて、ボクたちも頑張るのだ…

医王・湯涌水汲みツアーの休日

 

湯涌街道を温泉街には向かわずまっすぐ進み、福光方面への道にも折れずにまっすぐ行くと、医王山の裏手の山道へと入っていく・・・。

湯涌の住人・足立泰夫クンと後者の分岐のあたりで待ち合わせ、いつもよりグレードアップした特別編の水汲みツアーに出かけた。

八時には行くよと言っておきながら、十分ほどの遅刻。六時半に起床して、花に水をやったりしながらの慌ただしい朝だったが、前夜買ってきた“つぶ餡マーガリン”入りパンを頬張りながら新聞を読んでいたら時間が押してしまった。

というのも、最近連載が始まった日経の「私の履歴書」…現在書いているのがあの山下洋輔(ジャズピアニストです)で、ついつい今朝も読み耽ってしまった。特に今朝はまた、その下の欄の「交遊抄」が椎名誠のミニエッセイときていたから、活字拾いに忙しかった。

ところで話はそのまま脱線していくが、ボクの場合、日経などはその本来の趣旨記事から外れて、日経的に言うと番外編みたいなところばかりに目がいってしまう癖がある。かつて「日経デザイン」という同じ系列の雑誌を購読(会社で)していたが、巻頭の赤瀬川原平のエッセイが何よりも楽しみだった。実に飄々として、経済やらデザインやら難しいことは後回しにして、とにかくこれ読みなさい…と、氏が言ってくるものだから、はいそうですね・・・と、こちらも本文ページは後回しにしていた。日経はそういう意味で、なかなかボクのハートを掴んで離さない渋い存在である。かつて、松井秀喜のことを書いたある記者の本も、素晴らしく核心をついた内容でよかった。

分岐で待っていた足立クンと合流して、久々の道へと入っていく。すぐ先の集落に、かつて足立クンが住んでいた家があり、そこには小誌『ヒトビト』第八号(打止め号)のインタビュー取材で訪れたことがある。大木に囲まれた大きな家の前に愛用のカヌーが積まれていて、彼は岩魚釣りに出かけていた。すぐ目の前を流れる沢の奥に入り込み、数匹の釣果を家の前で見せてくれたのを覚えている。あの時はちょうど土砂崩れがあった翌日で、道が塞がれていたが、住民の道だけは確保されていた。

 今回の水汲みは、かつて足立クンが県の観光パンフレット制作のために取材した貴重な水場情報に基づくもので、湯涌・医王山方面の“美味しい水”を是非紹介したいという、彼の誘いに甘えさせてもらった。彼はカヌーに始まり、根っからのアウトドア青年(かつての)であった。山の世界とかではボクの方に一日の長はあったが、水の世界では若い頃からノメリ込み方が尋常ではなかった。さすらいのカヌーイスト・野田知如を崇拝し、カヌーツーリングというカッコいい遊びをこなし、水面に釣り糸を垂らしては川魚を燻製にするなどして、その楽しみを満喫してきた。もちろんそれだけではなく、ジャズや活字などにも傾倒し、その繋がりも長く付き合ってきた理由になっている。

そんな彼であったから、湧水のある場所なら、たとえ火の中水の中(例えが変かな)、ひたすらまっすぐに訪ね歩くことも何ら問題なかったのだ。

前置きがやたらと長いが、そんなわけでボクたちはとにかく医王山の裏側方向へと回り込みながら、最後は一気に高度を稼ぐように登って、「行き止まり」と書かれた案内板の方向へとクルマを走らせた。そして、文字どおり行き止まりとなった所にある水場にたどり着く。着くまでに、狭く急な道で先導の足立クンが迷走するというシーンもあり、また何度も切り返しを繰り返さなければならないなど、スリルも大いに味わった。

ところで、その場所について詳しく書かないのには理由がある。実はこの水場、足立クンが取材したパンフレットには周辺をぼかした形で掲載されているのだ。それはこの水場がこの直下の集落の人たちの飲料水となっているからで、それをとにかく無闇に取りに来られては困るという配慮があった。だったら、おめえらも行くなと言われそうだが、年に数回だけいただくということで、来ている人もごくごく少ないということだった。

水は岩がゴロゴロする山肌の窪みから湧き、取水用には二本のパイプをとおして勢いよく流れ出していた。足立クンでは水温十一度。実際、家に戻ってからもまだ容器のまわりには水滴が付いたままだった。冷たい証拠だ。

クルマからポリ容器やペットボトルなどを出す。総量としては結局八十リットルくらいになっていただろうか。最初の二十リットル容器に水がいっぱいになる時間で驚いた。いつもよりはるかに早い。勢いも量も半端ではない。あっという間に二十リットルがいっぱいになり、慌てて持ち上げようとして右腰に違和感・・・。おまけだった。

とにかくどんどん汲んでいく。足元はシューズもパンツもびしょ濡れになっている。路上では、自分の分を汲み終えた足立クンが、クルマからコンロとコッヘルやらを出してきて、新しい水を沸かし始めている。すっかりコーヒータイムの準備が整っている様子だ。

足立クンから、少しペットボトルを残しておいて、別の水場にも行ってみようという提案が出た。すぐに賛成して、クルマのダッシュボックスから、山用のマイマグを持ってくる。いい香りが山間に漂い始めると、カメラも持ち出して撮影タイム。

 コーヒーはマンデリン。足立クンご自慢?のドリッパーで、ご立派~に出来あがっていた。実に上品な味がした。今朝はこのためにと、家を出る前にコーヒーは飲んでこなかったのだ。

 かなり山深いなあと感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。山装備をした夫婦連れらしき二人が、大きな木の下あたりの道らしきところを登っていく。近づいて、その道は奥医王の頂上に繋がっているのかと聞くと、そうだと答えてくれた。久しく奥医王には行ってない。かつては北アルプスなどに入る前には必ず医王山で足慣らしをしていったものだ。

後片付けをして山道を一気に下り、湯涌方面への抜け道である王道線を走る。頭にイメージしている距離感より長く感じる道だ。この道も好きな風景がつづく。樹林の間から見える山並みものどかだし、森も深く感じられて神秘的な雰囲気さえある。

 

湯涌街道に出る前にある、いつもの水場で小さなペットボトル二本に水を入れる。さっきの水の冷たさがはっきり感覚に残っていて、この場所の水が温く感じられた。今日二つ目の水場だった。

 さらに足立クンの案内は湯涌街道に出て金沢市街方面に向かい、すぐに左に折れた。橋を渡り、ゆっくりと水田に挟まれた狭い道を走り続ける。道は途中で山間に入って行き、美しいせせらぎと並行して進んでいく。

また小さな橋を渡ると、そこでまた急旋回の狭い道の登りになった。通常の感覚ではクルマの通る道ではない。車幅いっぱいの狭い道を登って行くと、またしても狭い中でのヘアピンまがいのカーブに出くわす。足立クンのやや小さめのクルマは難なく曲がり切ったが、ボクのクルマではちょっと面倒だ。考える間もなく、カーブする反対方向の土の中にクルマを突っ込み、バックで登ることにした。幸いにも、すぐ先に目的の場所があった。

クルマから降りてびっくり。そして、ニンマリ。そこには、いかにも手造りといった何とも言えない風情の家が建っていた。足立クンが、家の前にある石の上に腰を下ろしている。手巻きタバコがいかにも足立クンらしく、この場所の雰囲気にも激しく合っている。

 この場所は地元の知り合いの“別荘”とのことだ。いつでも水は持って行っていいと言われているらしい。よく見ると、本当にいろいろなモノが組み合わされて、ひとつの家が出来ていることが分かる。意外なところに、ステンドグラスが嵌められたりしていて、手造りの楽しさがしみじみと伝わってくる。

水場は、玄関先に綺麗なカタチで整えられていた。残りの小さなペットボトル五本ほどにまた水を入れた。石の腰かけは整然と並べられていて、真ん中にある石のカタマリがテーブルになっている。

足立クンが、またコーヒーの準備を始めた。今度はグアテマラ(タイトル写真)。さっきの山の中よりもさらに落ち着いて、その分コーヒーの味もゆっくり楽しめた。なんとも贅沢な時間だ。心地よい風の吹き方も、静けさも、ちょうどよくて文句のつけようがない。新緑と呼ぶべきか、若葉と呼ぶべきか、周囲はそんな活き活きとした生き物たちの息吹に包まれている。

ボクたちは、そんなやさしい空気の中で、いろいろな話をした。とりとめのない話ばかりだったが、久しぶりにゆっくりと会話が楽しめた時間だった。今日、三か所目の水場だ。

足立クンでは、今日の三か所は、湯涌・医王山周辺ではベストスリーなのだそうだ。彼が言うのだから間違いない。金沢でそうだと言ってもとおるのだろう。ボクの場合、やはり自然の水汲みなどはちょっとした冒険心をくすぐってくれないと意味がない。だから、水汲みを理由にして、こういう場所へ来れるというのは最高なのだ。

時計を見ると、もう昼近く。コーヒーの香りも樹間を吹く風とともに流されていき、周囲にはただ前のように静けさだけが残されていた。足立クンは、午後から事務所へ行って広告用の原稿を一本書かねばならぬとのこと。それを聞いて、ボクも二本目の創作が、五十枚くらいのところで止まっているのを思い出す。

文句なく楽しかった。これからまだまだこういうことを続けていけたらいいなあと、若葉を見上げながら思う。日本は、日本の経済は、自分たちの生活は、これから一体どうなっていくのだろうか。そんなことも一応アタマに浮かんできた。だが、すぐに腹が減っていることに思考は動く。素麺だ。今日は素麺しかあるまい。湯涌の里に下りると、広々と水田が光っていた……

B級風景と港の駅の油揚げ

志賀町の図書館で、いつものMさん・K井さんと打ち合わせ及び雑談を楽しく済ませた後、羽咋滝町の「港の駅」へと向かう途中で、懐かしい風景に出合った。

その話に入る前に、MさんやK井さんのことをちょこっと書いておこう。

二人とはもう何年もの付き合いになる。知り合いになった頃、Mさんは志賀町図書館にいて、地元が生んだ多くの文人や画人などを広く多くの人たちに知ってもらうために頑張っていた。その企画にボクも参画していた。やさしそうな容貌とは裏腹に熱い情熱をもった人だ。島田清次郎を取り上げた「金沢にし茶屋資料館」や、「湯涌夢二館」の仕事などでご一緒させていただいている小林輝冶先生(現徳田秋声記念館館長)も、Mさんの存在を非常に頼もしく語っておられる。

一方のK井さんは、かつて志賀町と合併する前の旧富来町の図書館にいた。K井さんには前にもよく書いてきた、旧富来町出身の文学者・加能作次郎に関する仕事を頼まれ、記念館の創設や冊子の作成などをお手伝いさせてもらっている。その仕事も小林先生と深く関わりのあるものだ。ついでに書いておくと、K井さんは女性である。ボクよりもちょっと年上で、“姉御肌”の女史的司書といった感じだ。

二人は今、互いに居場所を入れ替え、それぞれの図書館で中心的に活躍している。定期的に仕事をいただいているボクには、単なる仕事相手という直接的な存在ではなく、その仕事を通して知り合えたさまざまな人たちとの懸け橋になってくれる存在でもある。

今度はどんな人と出会えるかと楽しみなのだが、K井さんでは地元出身の有名女流漫画家の先生と会える段取りをしてくれているみたいだ。かなりの酒豪と推測しているK井さんなのだが、どんな形で盛り上がるのか、恐る恐るも期待している。

先日金沢の西部地区にオープンした「海みらい図書館」に行って、その洗練された雰囲気にかなり激しく溜息をついてきたのだが、志賀や富来の図書館には、もっとボクの好きな大らかな空気が流れている。

昔、金沢大手町、NHK金沢放送局の裏側、白鳥路の入り口付近にひっそりと建っていた市立図書館の佇まいが、ボクの図書館に対する原風景だ。ギィーッというドアの開く音、本たちが漂わせる匂い。あんな空気感に最近出会うことはなくなった…。

志賀や富来の図書館にそんな空気が残っているとは言わないが、立派過ぎて落ち着かない図書館から最近足が遠のいているのは、自分でもよく分かっている。

志賀町図書館を出て、たまに昼飯を食べる中華屋さんのある交差点を右へと曲がる。志賀から羽咋への道は、右手の日本海に沿いながら伸びている。志賀には大島(おしま)、そのまま羽咋に入ると柴垣という海水浴場・キャンプ場があり、幹線道路から一本中に入れば、海に近い町の佇まいが色濃く残っている。

柴垣にある旧上甘田小学校の建物、特に奥にある古いままの講堂(タイトル写真)には以前から関心を持っていた。高校生の頃だろうか、気の合う仲間たちと柴垣でキャンプをしたことがある。大鍋で何かよく分からない晩飯を食べ終えた後、ボクはこの小学校の校庭の隅に寝っころがって、夜空を見上げていたことを覚えていた。ボクの横にはO村Mコトくんという血気盛んな友もひっくり返っていて、彼と、何だか毎日が果てしなく面白くないのである…といった会話を繰り返していた。

当然夏のことであったが、夜になると海岸べりは冷え込む。松林があり、海風にその松の枝が揺れていた。雲はほとんどなく、星がぼんやりと光っていた……

そんな思い出の中に、かすかにその古い講堂の建物も残っていた。講堂というのは、自分が通っていた小学校での呼び方だ。今なら体育館という方がいいのかも知れないが、ボクにとっては、あの大きさ、あの形は講堂なのだ。

あの時以来初めて、ボクはその校庭跡に足を踏み入れた。今はゲートボールかグランドゴルフかのコートになっているのだが、その狭さが意外だった。

話が聞きたくて、正門の方に回ってみた。ちょっとカッコいい感じの二宮金次郎の像がある。記念碑もあったが、裏側に回ることが出来ず石に彫られた文章を読むことはできない。建物はコミュニティセンターになっていて、誰かいるだろうと玄関に向かってみた。しかし、玄関のガラス扉に貼られた紙に、主事さんの不在の旨が書かれてあった。

もう一度、講堂の方に戻り、板壁に触れてみる。今は何に使われているのか分からない。ガラス窓から中を覗いてみると、強く昔の匂いがしたように感じた。

あの時確かに、仰向けになっていた視線を横にすると、暗い空の中に、かすかにこの講堂のシルエットがあったのだ。ボクがその時に見たもっと前から、この講堂はこの場所に建っていた。その時ですらも、古い学校のイメージを抱いていたのに……と思う。

 夕方近くに羽咋滝町の「港の駅」に着く。店には折戸さんと愛想のいいおばあさんがいた。このおばあさんも重要スタッフのお一人であることはすぐに分かった。いつもの美味しいコーヒーを今度はきちっとお金を払ってからいただく。そして、三人でいろいろな話をした。二度目だが、二人とも親しく接してくれ気兼ねが要らない。落ち着ける場所なのだ。

港の駅の大親分・福野さんに会えるかもしれないと思っていた。しかし、姿はなかった。家の前にも愛車パジェロはなく、入院が長引いていると言う。そう言えばメールの返事も来ていない。心配になってきた。大親分とは、もっとやっておきたいことがいっぱいある。早く元気になって戻ってきてもらいたい。

今回は、サバの粕漬けと三角油揚げを買った。油揚げは翌日食べてみたが、果てしなく美味かった。最近これほどの油揚げを食べたことがなく、これは是非一度試してみることをお勧めしたりする。

両方ともお隣の志賀町の産なのだが、滝からすればご近所に見える。ところで何度も書いてきたことだが、油揚げはボクにとって非常に重要な食材である。子供の頃、正月にはボク用に?油揚げだけが煮られた鍋があった。一度に一枚分食べていたこともある。そのことを話すと、おばあさんは笑っていた。

帰り際に外に出て周囲を見回す。なんか夏のイメージが気になるなあと思う。今年の夏、この滝の港の駅がどうなるのか楽しみですと、ボクは口にした。もちろん、自分でも何かをしでかしたいという意味を込めていた。

ところで、ボクは今「B級風景」というカテゴリーを自分で勝手につくり、そのことを自分で楽しんでいる。自分だけの大好きな風景や情景などを集めている。今回のような日常の中に、そんな何かがはっきりと見えてきたように感じた。

B級と言うのには少しだけ抵抗はあるが、その分、人からああだこうだと言われたくないという点で納得できる。これからの楽しみのひとつだ。同好の友求む……かも。

薄雪・湯涌水汲みの朝

カーテンを開けると、前夜からの冷え込みで、家の周りの土の部分に薄っすらと雪が積もっている。ほとんどが土の部分だから、薄っすらとした雪の白さが柔らかそうで、しばらくボーっと眺めていたくなった。

休日の朝は、のんびりと起きることができ、外の様子などにもゆったりと目をやることができるからいい。仕事の日の朝は、今の季節だとまだ暗い。会社まで平均四十五分ほどの通勤時間を要する身としては、明るくなる前の起床もやむを得ないのだ。

その点、休日の朝はいつもよりかなり明るく平和な感じがして、陽が差していたりすると、かなり得をした気分にもなれる。

三月はまだまだ冬と決めているボクとしては、その日の朝の、新雪の薄化粧も、当たり前の真ん中のちょっと横くらいのもので、全く驚くほどのことではなかった。ただ、少し頭をよぎったのは、午前中に決行しようと心の片隅で決めていた、恒例のお勤め“湯涌の水汲み”に無事行けるだろうかということで、前にも最後の山道に入ろうかという場所で前進を拒まれたことを思い出していた。

しかし、ボクは決めた。今は亡き写真家・星野道夫が、悠久を思わせるアラスカの空を見上げた時のように…とはいかないが、内灘町字宮坂上空から、医王山、さらに県境の山々を経て白山などに続く青い空を見上げた時、ボクは「そうだ。やはり湯涌へ水を汲みに行こう!」と、短い睫毛を揺らせながら決めたのだった。

前週は“氷見のうどん”を食べに行こうと決め、やや勇んで出かけた。が、いざ氷見に着いてみると、気が変わって刺身と焼き魚のセットになった定食を食べてしまった。その時も、風は冷たかったが天気は良く、絶好のドライブ日和となり、帰り道は七尾湾の方へと迂回した。春を思わせる日本海はひたすらのどかで美しかったが、眠気との戦いがきつい試練だった。この話は、特に今回のこととは関係ない…。

十時少し前だろうか、水入れ容器をいつものようにクルマに積み込む。二十リットルのポリ容器が二個。二リットルのペットボトルが約十五本。それに一リットルから五百ミリリットルのペットボトルなどが無数……。とにかく家にあるモノは何でも積んで行って、ひたすらそれらに水を入れ、一滴もこぼさぬようにして家まで持ち帰るのである。

家を出ると、まず河北潟干拓地の端に造られた真っ直ぐな道を、ただそのとおりに進む。途中干拓地の中心部に向かう道二本を無視し、競馬場方面への長い橋にも目もくれないで進む。さらにクルマを走らせ、右手に曲がる橋を渡って津幡町西端の団地の中へと入っていく。

しばらくして高架化された八号線に乗り、すぐに山側環状道路へと車線変更する。ボクの理想としては初めの景色のように、そのまま山の中へと吸い込まれていけるといいのだが、この道はそのうち杜の里付近の明るくにぎやかな街の中の混雑に吸い込まれてしまう。そこからしばらく進んでから医王山・湯涌方面の道に入って行くのだが、そこまで来てボクはいつもホッするのだ。

実は出かける前、湯涌の善良なる住人・A立Y夫青年(かつての)にメールを入れ、今から水汲みに行く旨を伝えておいた。いつも水汲みに行く際には、地元の住人である彼に連絡している。ただ行くよとだけ連絡するのだが、何となくよそ者が黙って水汲みに行くことに申し訳なさを感じていて、ただ一人知っているA立青年(かなり前の)に一報を入れるのだ。彼も湯涌の水の愛飲者であるのは言うまでもない。

彼からは、“薄雪の医王山きれいですぜ”という返事が届いていた。その日は仕事らしく、かなり気合が入ってるみたいだナ…と、文面から察せられるものがあった。

クルマを走らせながら、彼のメッセージを確かめるように、湯涌の山里の雪景色に目をやる。見慣れてはいるのだが、小さな風景ながらの新鮮な感動に浸れる。この辺りも、ボクがずっと親しんできた場所のひとつなのである。

すうっと伸びていく青の空。どこからかただ流されてきただけのような柔らかな白い雲。それらが春に近い冬の晴れ間らしい空気を山里に漂わせていて、ついつい目線を上の方へと持っていかれる。眩しいが我慢する。

山王線という最後の山道に入るところで、またしてもたじろいだ……

道に雪が残っている。今朝の新雪が重なっている。細い山道はすぐに左に大きくカーブするのだが、その先まで雪が残っていて、先の見えない道筋に大きな不安がよぎった。

しかし、今日は何だかそんなに悪いことは起きそうにないみたいだという安易な思い込みがあり、ドアを開けて雪を手で触ってみたあと、特に躊躇(ちゅうちょ)することもなくボクは山道へとクルマを乗り入れた。

しばらくすると、道の雪はタイヤの踏み跡部分だけ消えた状態になり、微かな不気味さの中をゆっくりと静かに進んで行く。対向車が来たらどうするかな?と、のんびりと考えていたが、当然何とかなるだろうぐらいにしか思っていなかった。

そのとおりに何もないまま水場にたどり着く。誰も来ないうちにと、タイヤを滑らせながらクルマをUターンさせ、バックで雪に被われた水場の脇へともぐり込む。

空気が冷たい。新雪を両手ですくい上げると、その冷たい感触が心地よく、その塊を斉藤祐樹のピッチングフォームで、約二十メートル先まで投げてみた。塊は途中で空中分解し、身体の硬さだけが実感として残った。思わず、笑ってしまった。

この水場は、しっかりとした水道栓になっていて非常に便利になっている。ここまで整備してくれた地元の人たちに感謝しなければならない。そのおかげで、内灘くんだりから来ている我々でも恩恵が受けられるのだ。奥に立つお地蔵さんに、では汲ませていただきますと手を合わせて、いよいよ水汲み開始だ。

二つある水道栓を使って、手際よく容器を入れ替えていく。水は出しっ放しにしておき、容器を順番に置き換えていくのである。しかし、時間がたってくると、素手にかかる水の冷たさが徐々に厳しく感じられてきて、かなりしんどい状況になる。指の辺りはピンク色になってきて、そのうち感覚も鈍っていく。白い息を手にかけるが、全く効果はない。

しかし、当然のことながら、そんなことに気を留めているわけにもいかないのである。

二十リットル容器に入れる時は少し余裕もあり、周囲の雪景色などを眺めていたり、カメラを構えたりもできるが、ペットボトルになると、そんなのんびりとはしていられない。どんどん水を入れては、蓋をしての連続となる。かといって何も考えてないわけではなく、一連の単調な動きの中でも、ふと前夜ビデオで見たNHK-BSの『仏像の魅力』のワンシーンを思い返したりしている。

自分の冷たく腫れ上がった指を見ながら、仏像の手は赤ん坊の手のようにふっくらと作られていて、特に指先の爪などは、まったく赤ん坊のものとそっくり同じに作られているという話を思い出したりしている。

仏像の手の指の爪は、赤ん坊のものと同じように反っている。仏様は赤ん坊と同じく純粋無垢な存在であり、ニンゲンたちに赤ん坊のような無垢な気持ちを持ちなさいというメッセージになっているものらしい。なんと、素晴らしい話だろうかと、前夜ボクはますます仏像が好きになっていく予兆に気持ちを高ぶらせていた。ときどき爪を立てたりする大人(特に女の)もいるが、赤ん坊の時は爪は立てられない。そして仏様のように穏やかな心を持った人は、爪を立てない…(話が飛んだ?)。

あれよこれよとオロオロ・モタモタしているうちに、ようやくすべての容器に水が入り切ると、クルマの荷台に運ぶ作業に移る。無理やりクルマを水場近くまで潜り込ませておいたのが功を奏して、快適なうちに積み込みは終了。

登りの対向車が来ないようにと思いながら、雪の坂道を下る。街道に出ると、ホッと一息つき、当然のことながら、このまま帰ってしまう手はないと帰路の逆方向へとハンドルを切っている。

しばらく走って、「創作の森」への登り口あたりにクルマを止めて歩き出した。何となく、その反対側の風景が昔から好きで、何となくそのあたりを歩いてしまう。足元の履物はトレッキング用の浅い靴なので、ちょっと失敗したなあと後悔したりしているが、せっかくの好天の下、歩かないのは損だと思っていた。

青空が気持ちよかった。何がどうなんだと聞かれても、うまく答えることはできないが、とにかく青空があり、その下に雪の山里があるということに満足していれば文句ないではないかと自分自身に語っている。

ボクには、いつもではないが、自分が今感動していることをどう表現して人に伝えようかと考えるクセがある。その時もふと、そんな思いに襲われ、ちょっと戸惑っていたが、そんなことを思うより前に、青空があっさりとその思いに勝ってしまった。

木の枝から、融けた雪のしずくが数滴落ちてきて、雪の上に小さなあとをつけるのを見た。残雪の下に垂れ下がったツララからも、ひっきりなしに水滴が流れ落ちている。

新雪が降ったとはいえ、雪融けは確実に進んでいて、自分自身が寒さを感じなくなっていることにも気付かないでいる。

カメラを遠くの小高い山並みに向けたり、ジェット機が飛ぶ空に向けたり、ぽっかりと雪融けでできた穴から見える緑の草に向けたり、何だか慌ただしくなった。しばらくカメラのシャッターを押し続け、そのあとはのんびりと雪景色をまた眺める。

う~む・・・と唸った。水汲みに来る湯涌には、まだまだ魅力がいっぱいあるなあ・・・とも、あらためて満足。これから先、どれだけこの場所を眺めるのかと、ふと思ったりし、ゆっくりと帰路に就いたのは午後ののどかな時間帯だった……

動橋川 冬の朝

滅多にない機会が突然訪れるというのはいいことだ。しかも、思い描くことすらなかった機会となるとワクワクする…。

二月も後半に入ろうかという好天の朝、ボクは野暮用で小松の某温泉地にいた。満月に近い美形の月が、まだ完全な明るさには至っていない空に堂々と浮かんでいた。好天であり、大気は冷え込んでいる。

早く出たせいもあって用事までには四十分ほど時間があった。その時、ふと思い立つ。近くに法皇山古墳跡がある…と。前にも書いたが、その辺りはボクにとって“いい気分になれる場所”のひとつである。しかも、冬の晴れた朝などという条件は、それこそが“滅多にない機会”そのものだった。

こういうことは、とにかくすぐに行動に移すのがいい。道はすぐに加賀市へと入り、左手奥に小高い山並みを見ながら進む。程なく見慣れた町の風景となって、すぐに法皇山古墳跡の駐車場へとクルマを乗り入れる。資料館はまだ冬季閉鎖中。駐車場にはボク以外のクルマはない。バッグの中のカメラの存在を確認したが、なかった。

ハーフコートを着込み、動橋(いぶりばし)川に架かる橋まで歩いた。ちょっと下流側の堤に入って、朝霞の中の白山やその周辺の山並み、それから川の流れに目をやる。相変わらずの水の美しさに安堵したりしながら、もう一度山並みに目を戻すと、山の霞み具合が余計に濃くなったような錯覚に陥る。

今、橋の上流の方、右岸の堤にはきれいな道が作られている。去年の終わり頃に来た時、何だか工事が始まりそうだなと感じていたのだが、今回来てみて、すでに堤の上が道らしくなっていることを確認できた。ここに道が出来れば、その奥にある洞窟のような場所まで、気持ちよく行けるようになる。これまではあまり気持ちよくは行けなかった。靴やズボンの裾がかなり汚れた。

この洞窟のような場所というのは、実に神秘的…とまではいかないが、少なくとも予備知識がない身としては、興味津々といった心境になれる場所だ。法皇山という歴史的な匂いが漂うこともあり、来た人の目を楽しませるだけでなく、好奇心などをそそるものになるだろう。ただ、ボクとしては、この整備がきっかけとなって、自分だけ(?)の世界が失われていくことになるかも知れないことに危惧もしている。ちょっと大袈裟だが……。

橋を渡り、川の左岸を上流方向へと向けて歩く。法皇山の低いながらも急な山肌を左手に見ながら、道は川沿いを右の方へとゆっくり曲がっていく。もちろん川が曲がっているから道が曲がっているのであり、低い山並みが曲がっているから川も曲がっている。

道沿いには桜の木が植えられている。当然、今は裸木状態だ。朝靄の中、その立ち方がいいなあと納得したりする。春先には思わず赤面したくなるくらいの花を咲かせるのだろうが、そういう頃にはあまり来たくはない。桜そのもので、この場所を評価したくないといった、いつもの我が儘だ。

それにしても川の流れがとてつもなく美しい。川面からはかすかに湯気も上がっている。空気がきっちりと冷えている証拠だ。農道のような(なのかもしれない)道の脇にある草むらには霜が降りていて、それに朝日が当たった光景も美しい。

この道はどこまで続いているのか知らないが、いつか完全踏破してみたい道だなあ…とあらためて思ったりしている。なにしろ、もう二十年以上も前から知っている風景なのだ。

それにしても、後半とはいえ、まだ二月なのに春の匂いがプンプンしてくる。山里でも木立の深い場所ではまだ深い残雪があるが、水田地帯では雪解けが進み、顔を出してきた水面が春の光を浴びたかのように輝いていたりする。毎年同じようなことを言っているが、やはりもう少し冬でいていいのではないかと思う。ついこの前まで、雪すかしは大変だとかという話題で盛り上がって(?)いたのに、ちょっと性急すぎる。もう一回ぐらい、雪すかししてやってもいいよと言いたくもなる。そういえば去年の今頃、誰かから“道沿いの雪が眩しいです”という内容のメールをもらったことを思い出した。山里を走る道沿いの雪が、まだまだしっかりと存在している光景こそ、今どきの正しい風景なのだと思う。

クルマに戻って、また元の道を引き返すことにした。橋の上からもう一度川の中を見下ろし、魚でもいないかと目を凝らしてみるが、動くものは何も見えない。夏だったら団体行動で泳ぎまくっている魚たちも、冬の冷たい水の中でじっとしているのだろうか。猫も炬燵で丸くなるように、魚たちもそうなのだろう…と、どうでもいいことを考えたりした。

クルマの中からだが、少しずつ白山の姿が見え始めている。霞の中に光を受けた雪面だけが浮かび上がり、なかなか幻想的だ。いくつかの自分なりのビューポイントを持っているが、そこを通るたびに目をやっている。

ニコンもコンタックスも持ち合わせていなくて、携帯電話のカメラしか使えないことを激しく後悔した。最近ちょっと写真の手抜きがはなはだしい。もっと執拗にカメラを持ち出さねば。

こんな滅多にない機会をもらったのに…と、自分を叱りつつ、もう一度動橋川沿いの道に思いを馳せたりしているのだった……

金沢・中央公園で思い出したこと

金沢・片町にある「宇宙軒」で「豚バラ定食大(ご飯大盛り)」を食ってから、香林坊のホテルで開かれる「中心市街地活性化フォーラム」まで30分以上時間があったので、久々に中央公園へと足を運んだ。

特別な目的があったわけではない。何となく、宇宙軒におけるご飯の大盛りが心残りとなり、朝、大和さんの地下で青汁の試飲をして身体にいいことをしたばかりだったのにと、小さな罪悪感に心を痛めていたのだった。

せめて中央公園にでも行って、色づき始めた木々を眺めるふりをしながら、カロリーを消費させよう・・・。そう思っていた。

そういう安直な思いでやって来たのだったが、思いがけなく、あまりにも色づいた木々が美しいのにボクは驚いてしまった。

あまりにも思いがけなかったので、驚きはかすかな喜びに変った。そして、かすかな喜びは果てしない郷愁へと変化し、ボクは青春時代の自分の姿を、その郷愁の中に見つけていたのだった。

何だか、昔の堀辰雄の文章みたいな雰囲気になってきたが、大学一年の夏、ボクはこの中央公園で見た光景を原稿用紙20枚にまとめた。それは初めてのエッセイらしきもので、ハゲしく志賀直哉大先生から五木寛之御大に至るまでの大作家たちの文体を真似た一品だった。

体育会系文学青年の走りだったその頃、ボクは経営学を専攻しながら、日本文学のゼミにも顔を出していた。先生は、奈良橋・・・(下の名前が出て来ない)という名で、作曲家の山本直純を若くし、さらに髭を剃って、二日半ほど絶食したような顔をしていた。果てしないヘビースモーカーで、ゼミの間は煙草が絶えることはなかった。

夏休み前の最後の授業の時に、先生はヤニで茶に近い色になった歯をむき出しにしながら、「夏休みの間に、何でもいいから、ひとつ書いてきなさい」という意味のことを言った。もちろんボクにだけ言ったのではなく、15人ほどいた学生全員に言ったのだ。

ボクはその言葉を忘れないでいた。しかし、夏合宿が始まり、精も魂も尽き果てていく日々の中で、そんなことはどうでもよくなっていった。

そんなある日、ボクは練習で腰を悪くした。もともと中学三年のとき、野球部に在籍しながら陸上部に駆り出されていた時の疲労が溜まり、身体に無理をさせたことが原因となって右の骨盤を骨折したことがあった。それがまた腰に負担をかける原因にもなり、ボクは時々腰が異様に重くなるような症状を感じていた。

久々に感じた症状だった。しかし、一旦それを感じてしまうと、身体はどんどん硬くなっていった。というより重くなっていったという方が当たっている。その年、チームは四国で行われる全日本選手権に出場することになっていたが、その出発の一週間ほど前に、ボクは石川に帰らされた。一度身体を休めて、遠征に向かう新幹線でまた合流しろというキャプテンの指示だった。

帰省してからの日々は退屈だった。金もない。ただボクは身体を休めることもせず、街をぶらぶらしていた。文庫本一冊を綿パンの後ろポケットに入れて、中央公園へとよく行った。

芝生に寝転がって本を読む。今では考えられないかも知れないが、当時の中央公園の芝はきれいだった。たくさんの人たちが芝に腰を下ろしていた。

 ある時、仰向けになり両手で持ち上げるようにして本を読んでいると、足元にボールが飛んできた。ボクはそのボールを起き上がって投げ返したが、そのままもう一度本の方に戻る気になれずにいた。そして、身体を横向きにして、また芝の上に寝転んだのだ。

ずっと向こうに近代文学館(現四高記念館)の赤レンガの建物があった。芝も木々の葉も緑だったが、同じ緑ではなかった。

そして、ボクはその中に小さな男の子と、涼しそうなワンピースを着た母親の姿を見つけた。見つけたというより、目に入ってきたという方が合っていたが、ボクは何度も転びそうになりながら走り続けている男の子の姿を目でしっかりと追っていたのだった。

どんな動きだったのかはもう覚えていないが、ボクはその時のことを文章にした。今から思えば、エッセイというよりは超短編小説といった方がいいかもしれない。なにしろ、その中のボクは「榊純一郎」という名前を付けられていたのだ。純一郎は、どこかに脱力感を漂わせる青年だった。その純一郎が、純粋な子供の仕草と母親の動きに目を奪われ、そこから何かを感じ取る・・・・。そんな話だったのだ。その時の自分に何があったのかは分からない。

帰省している間に、ボクはそれを書き終えた。そして、夏休みが終わって、学校が始まると(といっても10月だが)、最初のゼミの時間に先生に渡した。先生は驚いたような顔をしていたが、じっくりと読ませてもらうよと、また茶に近い色の歯を見せて笑っていた。

そして、次の授業の時間、先生がボクに近づいてきて言った。「なかなか見る目を持っているよ。こういうことをしっかり見て文章にできるということが大事なんだ。どんどん書きなさい」 この言葉は今でも忘れていない。

久々に来た短い時間だったが、ボクは中央公園でのことを思い出した。どんどん書きなさいと言われた言葉は、今の自分にも当てはまっていると思った。今、ただひたすら書くことによって安らいでいられる。思ってもみなかった中央公園での時間が、そのことを納得させてくれたのだった・・・・・

今年いちばんの、コスモスだった

能登・志賀町の国道を走っていると、視界の隅っこに突然カラフルな空間らしきものが現れ、そのまますぐに後方へと流れ過ぎていった。

慌てて顔を向けると、それはコスモスの一群で、無造作な咲き方ではあったが、それなりの美しさで目を引いた。20mほど通り過ぎてから、クルマをバックさせ、写真を撮ろうと思った。今年はまだコスモスにカメラを向けていないことを、その数日前から漠然と考えていたのだ。

 クルマを止め、コスモスが咲く場所への入り口を探した。道路沿いに延びた白いフェンスによって、その場所へは簡単に行けなくなっている。しかし、ちょっと目を凝らすと、フェンスの先に入口らしき場所を見つけた。自転車がそこに停められていた。

道らしきものはなく、ちょっと深めの草の上を歩いていく。無造作にコスモスが咲いていると思った場所は一応畑になっていた。そして、コスモスが咲く中におばあさんが一人しゃがみ込み、草取りをしている姿が目に入った。

 背中を向けているおばあさんに、「こんにちわ」と声をかけると、不思議そうな顔をしながら向き直り立ち上がる。すかさず「コスモスの写真、撮らせてください」と言うと、さらに驚いたような顔になり、「こんなもん撮ったって、なんになるいね・・・」と答えた。

ボクはまた、「すごいキレイですよ」と言った。おばあさんは口元に少し笑みを浮かべているようだった。

しばらくウロウロと撮影していると、「どこから来なすったいね・・・」と、おばあさんの方から話しかけてきた。振り返ると、背中を向けたまま、両手でまた雑草を取っている。「内灘からです」と答えたが、おばあさんは「ほぉ」と言っただけで、手は休めない。

畑には、もう最盛期を過ぎたミニトマトと茄子がまだ実を付けていた。「ここは、おばあさんの畑なんけ?」 「そうやァ・・・、でももう歳やし、なんもできんがやわいね・・・」。

 おばあさんの話では、国道が整備されてから畑が分断され、今いるこの場所は、切り離されたような形になり、それ以降あまり力が入らなくなったということだ。

「今年また、久しぶりに畑しとるがや・・・」

前の年とその前の年、この畑には何も植えなかったらしい。娘さんが病気になり、その看病などで畑に出られなかったらしかった。娘さんの病気のことを聞こうかと思ったが、それ以上のことはやめにする。

おばあさんが顔を上げていた。手も休めている。カメラを向けようとすると、ダメダメと手を振り、すぐにまた手を動かし始める。

ボクは自分の母親も、身体を動かせる間はいつも家の後ろの畑に出て、砂の上にどさりと座り込み、草取りをしていたのを思い出していた。声をかけると、にこにこと笑い返し、小さい頃には見たこともなかったやさしい顔なった。そんな母が死んで10月で2年、三回忌をすませたばかりだ。

 そのようなことをおばあさんに話すと、「こんなことは年寄りの仕事やさけえねえ・・・」と答える。自転車に乗ってやって来るのだから、畑にいた頃のボクの母親よりは、まだまだ若いおばあさんだったが、どこかに淋しい気配も感じさせた。

「ばあちゃんの家、この近くけ?」「この辺の部落の外れやわいね・・・・」 それがどの辺りなのか全く見当もつかないが、一人ぽつんと、コスモスの花の中に埋もれて草取りを続ける姿は、余計なお世話ながら、やはり淋しいのだ。

ボクはもう一度カメラを手に、コスモスの方に足を向けた。背丈も伸び、大きな花びらをつけたコスモスが、秋の日差しと風を受けて、愉快そうに楽しそうに揺れている。その柔らかな身のこなしが、カメラを向けるボクをからかっているようにも見える。

そう言えばと、何年か前に我が家の南側側面をコスモスだらけにしたことを思い出した。圧巻的な光景だったが、台風が来て、ほとんどが倒れてしまった。しかし、コスモスは強かった。一度斜めに傾いたところから、また真っすぐに空に向かい始め、我が家周辺の“多目的空き地(ボクはそう呼んでいた)”は、L字型コスモスの一団で再び活気を取り戻した。

コスモスは可憐なだけではないということを、その時初めて知った。そして、それ以来、ボクはコスモスに一目置くようになった。

 シャッターを押していると、おばあさんが言う。「あんた、金沢の方に帰るんやろ? そんなんやったら、羽咋に休耕田利用してコスモス植えとるとこあっから、そこ行ってみっこっちゃ・・・」 「どの辺?」と聞くと、猫の目(柳田IC)から市内の方に向けて行き、歯医者さんの角を左に折れて・・・・と、説明を始めた。弥生時代の遺跡に造られた公園の近くということが分かった。それで場所は推測できた。

しかし、行っては見たが、おばあさんの畑のコスモスほど心を和ませてはくれなかった。

それからまた後日、砺波の夢の平へ、スキー場のゲレンデ一面に植えられたコスモスを見にも出かけた。たしかに壮観な風景だったが、ここも今ひとつだった。

志賀町のおばあさんの畑に勝てるコスモスはなかったのだ。カッコつけているわけでもなく、感傷に浸っているわけでもないが、今年は志賀町のおばあさんの畑のコスモスがナンバーワンだと決めてしまった。歴代でもかなり上位に入ると思った。

そういうことで、秋ののどかな一日であったのだった・・・・・・

夢の平のコスモス

永光寺と、今年初めてのどんぐり

大学の後輩に「明彦」と書いて「あきよし」と読む名前のやつがいた。初対面の人は必ず「あきひこ」と読んだ。ボクもそうだった。

 石川県羽咋市にある曹洞宗の名刹・永光寺。「永光寺」と書いていながら「ようこうじ」と読ませる。こちらも絶対的に「えいこうじ」と読まれる宿命にあるが、そうは読ませてくれない。しかもそのくせ、どれだけへそ曲がりな読み方をしようが、ボケて間違えたふりをしようが、絶対「ようこうじ」とは読めない。

永光寺と出会ったのは、今からちょうど20年前。地元羽咋市の観光サイン計画に取りかかった頃だ。当然「えいこうじ」と読んだ。さも当然のように、正々堂々と、自信たっぷりに「エーコージ」と読んだ。

そして、「ようこうじ」と読むのだということを知らされてから、いろいろと資料を調べていき、なんだか凄い寺らしいぞということが分かってくると、なぜか、「ようこうじ」と読む方が正しいように思えてきた。足を運ぶのが楽しみになった。

羽咋市内の、観光スポット評価のための見て歩きが始まった。羽咋市といえば、石川県で最多の文化財を誇るところであることも知り、なるほどと気多大社や妙成寺などの存在が頭に浮かんだ。しかし、名前も知らなかった永光寺の存在を教えられ、興味はかなり高まっていた。

 季節は、春と言うには暖かく、夏と言うには暑くない。かといって梅雨と言うには雨の気配は感じられず・・・、つまり初夏の日差しと爽やかな空気が、何とも心地よい頃だったように思う。

同じ羽咋市内にある名所、妙成寺などには観光客が大勢いた。観光バスが何台も入っていて、休憩所みたいなところも賑わっていた。しかし、永光寺にはボクとスタッフ、合わせて三人だけ。

どの辺りだったかは覚えていないが、駐車場にクルマを置き歩いた。たぶん、今の駐車場の位置と変わっていないだろう。国道159号線から山間の道に入り、意外にちょっと深く入るんだなと思い始めた頃に駐車場があった。クルマを降りて見上げると、木立の新緑が目を和ませてくれた。

しばらく歩くと、ここは凄いゾ…と、ボクの旅人エキスが波立ち始める。薄暗い登り道を、その先に何があるのか知らないまま歩いていくのは、奈良あたりの山寺に向かっていた時と似ていた。違うのは、そばに二人の連れがいるのと、一応仕事であるということ。それから着ているモノと履いているモノと……エトセトラ。

 山門を見上げる石段の、その手前にある小さな橋に立った時は、息を落として構えてしまった。写真では見ていたが、おお、こういう風にして迎えてくれるのかと嬉しくなってきた。石段を囲む木立ちも凛々しい。

急な石段を登り、山門をくぐって境内へと入る。仕事だ、と自分に言い聞かせる。まず挨拶をと思い勝手口のようなガラス戸を開けようとした。しかし、簡単には開かない。ようやく開いたが、中から返事がない。この大きな寺に誰一人いないのだろうかと不信に思ったが、しばらく待って諦めた。後で聞いたが、当時の住職さんは90歳を超える高齢とかで、かなり耳が遠くなっていたらしく、寺の管理もよくなかったらしかった。

寺は荒れていた。荘厳なイメージこそしっかりと残っていたが、視界に入ってくるものは、かなり傷んでいた。ベースにあるものを知っているから、ついつい舌打ちしてしまう。凄い寺なのに、なぜこんな状態になっているのだろうかと勝手に怒ったりもしている。

後日、市役所の担当の方に永光寺で感じた凄さを語った。まったく知らなかった存在。あの場所に、あのような寺があるという意外な事実がまた心を動かしていた。

市の担当の方に提言して、モニター調査をやりましょうということになった。ボクの周りにいた何組かの家族やカップルや個人、それにその頃いろいろと付き合っていたアメリカ人とドイツ人の友人のグループにも頼み、羽咋へ出かけてもらうことにした。

その結果は、妙成寺や気多大社、千里浜などと並んで、永光寺が最高得点のグループに入っていた。中には、永光寺を最高の場所として位置づける人も何人かいた。敢えて事前に永光寺について宣伝しておいたわけではなく、その結果にボク自身も驚き、納得した。

それからボクはそのことをまとめたレポートを書き、市役所に出したのだが、永光寺については寺としての歴史的価値だけでなく、周辺の自然と一体化した魅力について書いた。簡単なレポートだったような気がするが、その頃のボクは「法皇山古墳…」の話でも書いたように、自分自身の提言など具現化するものとは思ってもいなかった。だから、それなりに自分の理想みたいなことを、それらしく書いていた。

 ところが、二年ほどの羽咋における仕事が終わってからすぐ、永光寺周辺を整備する事業が始まっていた。国と県と市とが一緒に行う、かなり大きなスケールの事業だった。それから後、永光寺は今のような美しい姿となった。いや取り戻したというべきか…。単にタイミングが良かったのだろうが、ボクの考えもそれなりに活かされたのかも知れなかった。そして、美しい風景などに囲まれた歴史的な場所(法皇山古墳もそのひとつ)などは、周辺に魅力を付加することがいかに大切かということがよく分かってきた。

10月の中旬、いつもの富来行きの帰り、久々に永光寺に足を伸ばしてみた。約2年ぶりだったろうか。

午後の遅い時間でもあり、下の駐車場は空っぽだった。そのまま境内の近くまで登っていくクルマも多いから、寺には先客がいるかもしれないが、やはりウィークデーのこの時間ではあまり人はいないだろうと思った。

 まだまだ周辺の木々の紅葉は早い。しかし、空気は十分肌寒さを感じさせた。いつものように石柱を過ぎて中道門(ちゅうどうもん)を通り、ゆったりとした登り坂を歩く。相変わらずの静けさと薄暗さ、寺までの道はもうちょっと長くてもいいなあと、来るたびに余計なことを考えてしまう。

寺には一人だけ先客がいた。拝観見学というより、仕事絡みみたいな人で、座禅会の申し込みか何かの打ち合わせをしていた。

ボクも実はこの寺の魅力を何とか活かした催し(この場合短絡的にイベントという言葉は使わない)を、企画したいと考えている。京都で見た学生たちのまだ青臭い感性と、メチャクチャな体力と、奉仕精神いっぱいの意欲とが合体した活動をヒントに、借景とか目に見えない力みたいなものをテーマにした、大人にもグッとくるような催しをやってみたくなっていた。

 永光寺は、1312年の創建ということで、もうすぐ700年になる。詳しい話は置いとくが、とにかく来年の春から、永光寺ではその記念行事を行っていくらしいのだ。ボクが聞いたのでは、永光寺に残されている開祖などいくつかの名僧の坐像が公開される予定にもなっていて、実はボクはすでに一度拝見させてもらっているが、これは必見の価値がある。

ところで永光寺と、旧門前町(現輪島市)の總持寺とは同じ僧によって開かれており、歴史も同時期になる。かつて總持寺に関する仕事(禅の里交流館)をさせていただいた時、地震の被害が生々しい法堂の奥にある坐像の撮影を依頼された。狭くて真っ暗な空間に照明を持ち込んで、蚊に食われながらの撮影だったが、ほとんど一般の人には目にするどころか、足を踏み入れることもできない場所に入らせてもらった。そこで見た坐像も迫力があったが、その原本が永光寺のものらしく、永光寺のものは總持寺のものよりも製作年代もかなり古いものだということだった。

 お茶とお菓子をいただきながら、そんな話などをしていると、寺を使った催しについての話にもなり、ボクは自分が思い描いていることなどを簡単に語った。かつて、荒れていた時代に訪れ、その凄さを感じた話や、ついでにボクが訪れた前年に映画のロケにも使われていたというエピソードなどについても話すと、奥から昔のファイルが出されてきて、これのことですねと言われた。観光資源として活用するのであれば、その時が大きなチャンスであったのだが、荒れた寺のイメージで使われたとしたら、あまりいいものになるはずもなかった。

地道に心に染みることをやっていくには、永光寺は非常にいい条件を備えていると、ボクは生意気にもそう思っている。

 ひとりでゆっくりと寺の中を見て回った。もちろん仏さまの前に座り手も合わせた。ちょっと贅沢な時間だった。

今度また、ゆっくり来させてもらいます。そう告げてボクは寺を去った。空が薄暗くなり始めていた。木立の中の石畳の道で何度も振り返った。20年前の時のことを思い出そうと、かなり一生懸命になってはみたが、全くと言っていいほど具体的なことは甦ってこない。もうそんなことはいいのではないか…と、もう一人の自分に言う。そうだな…と、もう一人の自分が答える。 寺務所の人たちとの語らいに何かを見出しながら、またここへと戻ってくる時が楽しみになってきたのだった。

 帰りの道すがら、夕暮れに目線を落として何かを探しながら歩く親子を見かけた。すぐにどんぐり拾いをしているのだと分かった。

クルマを停め、足を運ぶ。見事に美しいどんぐりの実が道端の草の上に落ちていた。小さな女の子が手にしたどんぐりを見せながら、母親に“ママ、ドングリ好き?”と聞くと、母親が“うん”と答える。その小さな女の子と目が合った。

“おいちゃんも、いい歳してドングリ好きなの?”と聞かれたらどうしよう…と、考えてしまう。しかし、女の子は聞いてくれなかった。“うん、大スキだよ”と、答える準備が出来つつあったのに拍子抜けだった。

今では、永光寺を「えいこうじ」と読むことはない。逆に「永」という字が出てきたときに「よう」という読み方が頭に浮かぶことがあるくらいになった。「えいこう」という言葉を思い描くときにも、「栄光」よりも「永光」の方が意味が深いようなイメージを持つようになった。

助手席に無造作に置かれたどんぐりたちを見ながら、そんなことを思い返す帰り道だった……

法皇山横穴古墳群を活かす動橋川の風景

 

最近、かつての仕事人的旅人、いや旅人的仕事人かな? とにかくどちらでもいいが、そんなスタンスで、身近なところにあれやこれやと出かけている。そして、ふと懐かしい風景や人に出くわしたり、かつて見逃したり見過ごしたりしていたものなどに心を打たれたりもしている。

 金沢から国道8号線で加賀市に入り、しばらくして山中温泉方面へとつながる道に入ると、動橋(いぶりばし)川にかかる橋の手前に、「史蹟法皇山横穴古墳」と彫られた石柱が建っている。広い駐車場があり、奥に小さな建物があり、その背後に小高い丘のような山がある。名のとおり、国の史跡だ。

 6~7世紀の頃に造られたといわれ、山に横穴を掘り、家族集団の首長の人たちを葬った墓なのだそうだが、花山法皇(かざんほうおう)という方が、行脚(あんぎゃ)の途中、この地に立ち寄られ、大いに気に入られたと伝えられており、その花山法皇の墓なのでは?と伝えられたこともあった。しかし、大正時代の調査で、そうでないことが判った。ただ、その法皇さんとのゆかりを残した形で、今の名前となっているのだろう。

かつて、加賀市の観光の仕事に携わっていた頃、ボクはまず、観光資源の調査というのをやった。それは市が観光パンフレットなどで紹介しているポイントを自分の目で確かめ、客観的に評価してみようという試みだった。

そのことによって、ほとんど観光客には評価されないだろうと思われるポイントと、逆に大いに見てもらおうと積極的になれるポイントとを分類した。それは観光ルートをつくるという重要な作業に結び付くもので、そこで選ばれたポイントが、加賀市の観光ルートを形成し繋がっていくというストーリーになっていた。

 ただ、こういう場合、いちばん困るのが、この法皇山古墳のような場所だった。何しろ国の史跡だ。本来ならば、市として地元として大いに誇るべき資源なのだが、そうは簡単にいかない。それは、はっきり言って人を惹(ひ)きつける魅力に欠けるからだ。国の史跡と言っても、来て見れば、ただ小高い山があり、いくつか得体の知れない穴が開いているだけ。発掘された土器などが収蔵庫に収められているが、それとて特に目を引くものではない。しかも、解説もほとんどなくて、楽しめるとかタメになるとか、そのような要素もまったく期待できない。

ボクが初めてこの場所を訪れたのは、もう20年ほども前のことだ。駐車場で市の人と待ち合わせていたが、収蔵庫はカギがかかっていて入れなかった。市役所へ電話すると、開けてもらえるということが張り紙に書かれてあった。

 ところが、先日久しぶりに収蔵庫に行ってみると、扉が開いていた。こんにちはぁ、と言って入っていくと、奥の部屋から高齢だが、生真面目そうで、かなり知的な匂いのするご婦人が出てきた。入ってもいいですか?と尋ねると、どうぞどうぞ・・・と、答える。ボクは以前のことがあったので、ここはいつも開いているんですか?と、また聞いた。すると、ご婦人は忙しそうな素振りを見せながら、11月いっぱいは開いていて、12月から翌年の3月までは閉まっています、と、しっかりとした口調で答えた。前に来た時は閉まっていましたよと言うと、それは閉館期間中だったのでしょうと、またきっぱりと言う。

ボクは自分が初めてここへ来た頃とシステムが変わったのだろうと思い、これ以上この話は続けないことにした。そこへご婦人が逆に聞き返してくる。いつ頃、おいでになったんですか? ボクは20年ほど前です、と、妙に自信たっぷりに答えた。答えた後で、そんな前のだったら、ずっと閉まっていたのかも知れませんね・・・と、申し訳なさそうな顔をするご婦人を想像し、自信たっぷりに言ってしまったことに後悔した。しかし、私はそれ以前からここに来ていますから、と、さっきの3.5倍ほどのきっぱりさで言われた時は、横穴群の穴のひとつに身を隠したいような、そんな気分になっていたのだ・・・・・。

 ご婦人は、K上さんと言った。ボクがかつて、加賀市の仕事をさせていただき、ここへもたびたび来ていたことを話すと、会話の内容も、K上さんの表情も、口調も変わっていった。

国の史跡であるから、加賀市が手が出せないこと。収蔵庫という性格上、展示館のような演出ができないこと。K上さんは、市の担当から聞かされていることをボクに話してくれた。だが最後に、私は何にも分からないが、もう少し何とかならないのかと思いますよと本音も語ってくれた。聞くと、収蔵庫内の壁に貼ってある古墳の歴史などが書かれたコピーは、K上さんが自分で準備したものだそうだ。

だって、公開している意味ないでしょう ─── そのとおりだ。K上さんの言葉に力がこもっていた。

実は、この場所には別の意味での大切さを感じていた。

それは、感覚的な表現で言うと、“もどかしさ”に似ていて、単にボクが独りで勝手に思っていたに過ぎないことであった。それは、古墳の横を流れる動橋川のやさしい流れが織りなす素朴な風景が美しかったからで、その風景と一体化した古墳の在り方みたいな・・・、何だか自分でもよくは分からないことを、ただ漠然と好きな風にイメージしていたのだ。

かつて、橋の上から見下ろしていたり、堤を歩いて眺めていたりした川の風景は、心に染みついていた。20代の頃から、自分の中に息づいていた風景へのあこがれ・・・、その中のいくつかの要素が、そこにあったのだ。蛇行する流れと水の美しさ、そこで遊ぶ子供たちの姿、大きな遠景はないが、散策したくなる適度な広さがあった。それらがこの国の史跡である古墳の魅力を引き出す要素になる・・・。

 かつて、ボクは自分の仕事としての範囲を見究められないまま、何も提案しなかった。そのときはまだ、私的な思いや理想みたいなものを、仕事に重ね合わせることはそれほどできなかったのだ。今、特にそのことをどうのこうのと言うのではない。ただ何となくだが、自分自身の風景への思いを、仕事とのバランスの中で初めて意識させられたのが、この場所であったような気がしている。国の史跡なのだから、もっともっと多くの人たちに知ってもらいたいという思いと、そのためにはもっとその場所に魅力を創らなければならいという思い。その魅力の要素が、動橋川の風景にあったとボクは思っていた。仕事的に見ていくと、こういった課題?は、いたるところにある。

今流行りのB級グルメではないが、S級やA級にはない、B級風景の中にこそ本当に安らげる要素があったりする。S級やA級風景は、山岳などの自然や寺社などの歴史的なもので、日常ではなく、身近でもない。しかし、B級風景はすぐ近くにある。そして、それらが人それぞれによって、A級にも、S級にもなるのだ・・・・・

帰り際、閉館前にもう一度来ますと、K上さんに言った。K上さんは、どうぞ、またいらしてください。それと、市に何か提案してあげてくださいよと答えた。K上さんのご自宅は、駐車場の目の前。孫を遊ばせながらでも、できるんですから・・・ 最後にK上さんの笑顔を初めて見ることできて、何だかホッとした。

秋の気配も少しずつ深まっていくし、提案もアタマの中でうごめいている。そろそろ、また行ってこなくてはならないのだ・・・・・・・

  

 

 

 

 

 ※実は、ここでの思いは、後にある寺で、たまたま活かされた・・・・・

西海風無に、O野先生を訪ねた

 月曜の夕方から能登で打合せを…と言われると、今までのボクだったら、ちょっと躊躇していただろう。月曜でなくても、かなり消極的になる時間帯だ。しかし、今は何となく違う。今は時間さえ空いていれば行ってしまう。理由はいくつかあるが、そのひとつは、そこで待っている人たちがとても魅力的だからだ……

 能登半島の旧富来町は、2005年にお隣の志賀町と合併し、現在は志賀町という町名の下に、かつての地名を残しているにすぎない。しかし、地区名として残った独特の響きを持つ地名には、その土地特有の風土を感じさせるものが多く、残っててよかったなあ…と勝手にしみじみと思ったりする。

 そんなひとつが「西海風無」という地区の名だ。「さいかいかざなし」と読む。

 旧富来町の海岸線を走る国道249号線から、増穂浦方面に入り、そのままひたすら海に近い道を走る。港を過ぎ、二方向に分かれる道を、丘陵地の方へと登っていく。海岸線から離れたように感じるが、実はそうではない。民家が立ち並ぶ左手はそのまま斜面となっており、家々がその斜面上に建つ。そして、海はすぐ眼下から広がっている。

 そこが旧西海地区だ。かつての羽咋郡西海村。1954年の合併で富来町の地区名になった。

 ボクはさっそく道に迷った。カーナビなどという文明の機器は搭載していない。四時までには行きますと言っておきながら、すでに時計は四時を十分ほど過ぎている。何となく道を間違えたなという実感はあったのだが、何とかなるだろうと、いつもの調子でそのままクルマを走らせていた。そして、いい加減にルート変更しなければなるまいと思えるような所まで来ていた時、ちょうどクルマの前を漁師さんが横切ったので、すかさず覚悟を決めた。

 「すいません。この道で、風無に行けますかね…」「風無のどこ行くんけ?」「O野さんていう方の家へ行きたいんですけどね…」「O野さんて、O野先生のことけ?」「そうそう、O野先生宅です…」

 ボクが間違えたのは、さっきの分岐を丘陵地側へ登らずに、安直に海側へと入ったからだった。なにしろ海沿いとばかり頭に叩き込んできた。より海に近い道とばかり考えてきたが、丘陵地側の方も十分に海に近い道だったのだ。

 そこからボクは、とてつもない急な坂道を登ることになった。漁師さんの説明も至って簡単で、最後は、「簡単には言えんさけェ、坂登って行ったら、左手に駐車場があって、ちょっと広い道に出るわいや。それ左行ったら、道が下りになってくさけェ、下りきった辺りで、もう一回聞いてみっこっちゃ…」だった。

 当然ボクはそのとおりに行った。そして、道を下ったところで、小さな湾を臨むようにして造られた公園らしき広場を見つけた。狭いが駐車場がある。その公園こそ目印にしていたものだった。

 ボクはクルマを降りて、携帯電話を取り出した。すぐに繋がった。

 迎えてくれたのは、先生ご自身だった。ボクは先生の後を付いて行き、そこからすぐのところにある先生宅に案内された。目の前は海、激しく暑い日から少しは解放されたような涼しい風が吹いていた。

 先生とボクは、加能作次郎という富来出身の文学者の物語を綴った冊子を作っている。かつては、旧富来町役場の中に開設した「作次郎ふるさと記念館」という資料展示室の企画をさせていただき、その時から先生とのコラボが続いている。

 玄関で迎えてくださった奥様に挨拶する。そして、ボクは居間に通され、ソファに座って早速先生に校正原稿の中での確認事項などを説明した。先生はそれに目をとおしながら、真剣な表情で考え込み始めた。部屋の中が静まり返り、窓の外から聞こえてくる鳥のさえずりと、先生が走らせるペンの音ぐらいしか音らしきものはなくなった。しばらくして奥様が大きなイチジクの実を一個持って来られた。その前に冷たいジュースも置かれていて、それを少しだけいただいた後だった。

 「うちのイチジクなんですよ。皮ごと食べてくださいね」 久しぶりに口にするイチジクは美味かった。ボクはゆっくりとイチジクをいただき、先生に美味しかったですと言ったが、先生は、そうですかと無表情で答えるだけで、仕事にどっぷりと専念されていた。

 O野先生は、今年71歳。県立富来高校の校長を最後に、現役を退かれた教育者だ。専門は英語だったらしい。穏やかに話をされる雰囲気は、若き日のロマンチストぶりを十分に想像させるし、明解な言葉の端々からは、教育者らしいしっかりとした信念みたいなものが感じ取れる。

 先生は「加能作次郎の会」の代表をされていて、作次郎のことになると目の色が変わる。今もこちらからお願いする原稿の修正に、真剣に取り組んでおられるし、提案させてもらうさまざまな企画についても、納得のいくまで考えていただいている。作次郎の話になると妥協しない強い信念を感じる。

 加能作次郎は、1885年(明治18)西海村生まれ。西海風無のとなり西海風戸(ふと)という地区には、生家跡があり文学碑がある。早稲田大学卒業後、『文章世界』の主筆となり、1918年に発表した私小説「世の中へ」で認められ作家となった。その他にも「乳の匂ひ」などの作品がある。1941年(昭和16)に56歳で死去したが、作品は私小説が多く、ふるさと西海の風景や生活の匂いが背景にある。能登の漁村で生まれ育った作次郎の、ふるさとに対する思いが文章の端々に感じられて、そのことを想像させるものを今の風景の中にも見つけることができる。

 三十分ぐらいが過ぎて、先生がボクにチェックされていた原稿を差し出された。

 「ナカイさん、やっぱ、あれだね… 第三者が読むと、ボクと違うように感じることがあるんだね…」 ロッキングチェアに背中を預けながら、先生が言う。ボクは笑いながら、「だから、先生、面白いんですよ」などと、生意気な答え方をした。

 それから、先生とボクはこの西海地区の話をした。公民館長をされていた時に、地元の人たちの頑張りを知り、自分自身があらためて驚かされたという先生からの話には、ボク自身も大いに関心を持った。そして、ボクはその話がきっかけとなって、これまで自分がやってきた能登での仕事のことや、今やろうとしていることなどを語った。

 先生が、ボクがたくさんの引き出しを持っているという意味のことを話してくれたが、それよりも、「ナカイさんと出会えなかったら、作次郎のことも、こんなに深く考えなかったかも知れないなあ…」と言われたことの方が嬉しかった。

 話しているうちに、外はもう昼の明るさを失っているようすだった。夕暮れが近づいている。台所の方から夕餉の焼き魚の匂いがしていた。ボクはゆっくりと原稿やペンケースをバッグに入れ、立ち上がった。「先生、そろそろ失礼します」

 「ああ、そうですか」先生もゆっくりと腰を上げられた。それと同時に台所から奥様も出て来られ、ボクはそのまま玄関へと足を運んだ。玄関で靴を履き振り返ると、奥様が跪(ひざまづ)いておられる。ボクはいつもより深く頭を下げ、礼を言って玄関を出た。

 外へ出ると、風が一段と涼しさを増したように感じた。クルマには戻らず、そのまま公園の中を歩き、古い屋敷の塀に沿って延びる、狭い坂道を歩いて行った。人の気配は感じなかったが、その辺りにも夕餉の煮物の香りが漂い、その香りに生活感が重なった。懐かしい思いが一気に胸に込み上げてくる。感傷ではないが、自分が遠い町に独りいる…ということを強く感じた。

 小学校にも入る前の頃、従兄たちが住む加賀海岸の小さな町まで遊びに行ったことがある。昼間は従兄たちと一緒に楽しく遊びまわっていたが、夜になると、急に家が恋しくなった。慰めようとしてくれたのだろう、親戚のおじいさんに連れられて、漁港の見える道を歩いているとバスが見えた。ボクはおじいさんに、あのバスに乗ったら家へ帰れんがかと聞いた。しかし、あのバスに乗って行っても、汽車が走っとらんから家には帰れんと、おじいさんは諭すようにボクに答えた。

 もう家には戻れないかも知れない… その時、ボクはそう思った。しかし、悲しさも淋しさも感じなかった。海の近くに生まれていながら、海が闇の中に広がっているのを、生まれて初めて見た時だった。そして、時間がたつにつれ、その闇の中の海に強くボクは打ちひしがれていった。孤独なんぞという言葉は知る由もないが、怖いような切なさに、自分自身が包まれていくのを感じた。

 坂道を下りながら、少しずつ視界に入ってくる海が、幼い頃の小さな出来事を思い出させていた。

 クルマに戻り、ゆっくりと走り始める。その辺りも、かつて先生に連れられ歩いた場所だった。生家前を通り、文学碑前を過ぎて、ボクは少しずつ西海から離れて行く。

 増穂浦あたりに来ると、すっかり正真正銘の夜になっていた。ボクはふと、西海の夜の明かりが見てみたいと思った。

 旧富来町庁舎や図書館、スーパーや道の駅などが並ぶ国道249号線には、ライトを点けたクルマが列をなしていた。しかし、そのクルマの明かりが徐々に少なくなっていくと、いつの間にか、自分のクルマの明かりだけが路面を照らしているのに気が付いた。

トンネルを通り抜け、さらにもうひとつあるトンネルには入らず、脇道へとハンドルを切った。そこは機具岩という名所を見るためのポイントになっている場所だ。

クルマを降り、カメラを手にして、増穂浦を挟んで海に突き出た西海地区の方に目をやった。小さな明かりがいくつも点在していた。O野先生宅の明かりは角度的に見えないだろうとは思ったが、作次郎の時代にも、明るさの違いはあるとは言え、このような光景が見えていたのだろうと思った。

眼下からは夜の海が広がっていた。ゆったり動く夜の海に目を凝らしていると、地上の闇が、そのまま海の中にも溶け込んでいくようにも見えてくる。

闇の中の海とその先に見える半島の明かり。切ない風景だった。遠い世界に、自分が本当に独りでいるのかも知れない…と思った

海風が冷たく感じられ、ボクはクルマに戻った。熱いコーヒーが飲みたい… そう思っていた……

『もう少し、夏ものがたりを…』

 

 

 8月の終わり近く、久々に立山山麓への道沿いにある鉄橋が見たくてクルマを走らせた。これからいよいよ本格的に山麓に入っていこうかという辺り、常願寺川の河原に付けられた鉄橋だ。

 いつの間にかこの鉄橋のある風景が好きになっていた。かつて、信州から八ヶ岳山麓方面に何年も通っていた頃、清里や野辺山あたりで小海線の線路を見ていると、何だか強く、夏だなあ…と感じたことがあった。小海線は日本の最も標高の高いところを走っている鉄道だ。最高駅は野辺山駅で、最高地点もその近くにあった。

 その時ボクは初めて線路から立ち上がる陽炎(かげろう)をマジマジと見た。映画のワンシーンを見ているような気分になり、真っすぐに伸びた線路に強烈なエネルギーを感じた。線路の上を歩きたくなった。そして実際にそうしてみると、靴底から伝わってくる熱が、足の裏からすぐにカラダ全体に広がっていくのが分かった。

 ボクはその時の感触が恋しくなると、この鉄橋のある場所にやって来る。八ヶ岳山麓までは遠いが、立山山麓はそれほどでもない。小さな駐車場があり、クルマを置いてぶらぶらするにもちょうどいい。その日も相変わらずの強い日差しであったが、それがまた鉄橋や線路というものに熱いエネルギーを注入しているように思わせた。ボクにとって、鉄は夏の季語なのかも知れない。

 そこからクルマでしばらく行くと、「あるぺん旅行村」の奥の原っぱに、数頭の牛たちが放たれていた。クルマを降りて、草むらの中の道をとぼとぼと歩いて行くと、牛たちがいた。牛たちも暑いのか、木陰に寄り添い、静かに午後のひと時を過ごしているかのようだった。

 この光景は、二年前だろうか、妙高高原の笹ヶ峰牧場で目にしたものと似ていた。もちろん笹ヶ峰の方が圧倒的に大スケールで、牛のデカさも比較にならないのだが、そののんびりしたムードは同じだった。笹ヶ峰は夏よりも春先の豊かな残雪のシーズンによく出かけているが、夏の光景の方が本来の姿なのだろうなあと、つくづく感じた。空の美しさ、緑の美しさ、水の美しさ、どれをとっても心の底から嬉しくなるものばかりだった。

 立山山麓は、ボクにとってかなり慣れ親しんだエリアだ。場所もそうだが、そこにいる人たちとの交流もかつては盛んだった。山の世界の人たちはもちろん、山麓でペンションを経営している人たちのところへも、よく足を運んだ。個性的な人たちが多く、楽しい時間が過ごせた。

 金沢に近くて、藩政時代で言えば、ほとんど金沢色に染まっていたと言っていいかもしれない高岡に行ってきた…のは、暑い暑いある日の昼だった。

 毎日暑いから、暑い日というだけでは特別なこととは言えなかった今年の夏。毎日暑いのだから、そんなこと話題にしなければいいのにと思っていたが、ニュースのトップはほとんど毎日「今日も暑い一日となりました…」だった。夏は暑いに決まっているのに。

 そんなことは置いといて、高岡にはよく行くが、それほど詳しいわけではない。と言うよりも、ただ漠然と行ってしまうクセ?があり、何気なく自分の行きたいところだけは確保しているといった感じなのだ。

 その日も仕事で砺波まで行く時間を活用し、高岡の古い町を見て来ようと思った。何度も見てはいるが、具体的に参考にしたいという仕事なんぞがあった時には、この目とこの足などを通して積極的に感受して来ようという気になる。高岡の古い町の再生は、この辺りではなかなかそれなりによいものだとボクは思っているし、関わってきた人たちも知っているから、その人たちのハートが分かるような気になれる。

  それにしても一時間弱歩いて、汗まみれになった。顔の鼻から上が痛い。アスファルトの上の一時間弱は、お好み焼きの鉄板の上の何分に該当するか?などと考えてはみたが、途中で考えるのもイヤになった。しかし、ボクは夏の子なんで、そんなことぐらいでは潰(つぶ)れない。積極的に歩き、蔵がモチーフになって生まれた街のパワーみたいなものを、あらためて感じ取ろうとした。

 強い日差しの中で、古い建物の黒壁がより凄みを放っているように感じた。レンガ造りの銀行は、かえって涼しそうなイメージを創り出しているのかも知れないな…とも思った。

  帰りの高速で、トイレに行った時だ。ふと用を足しながら目にしたサインが、ほのぼのとした気持ちにさせてくれた。

 暑さをもぶっ飛ばす富山弁の朴訥(ぼくとつ)さは、いつも心に沁みるのだった。

 甲州ブドウの勝沼(甲州市)から、採れたて「ピオーネ」が届き、今年もいよいよ、ブドウやワインの季節が始まるのだなあと感じたのが、九月のアタマだった。

 送り主で親友のMは、母校が久々の甲子園出場を果たしたにも関わらず、ブドウの仕事が忙しくて応援には行けなかったと言っていた。そこまでして育てたブドウだ、じっくり味わおうと気合を入れ堪能させてもらった。さすがに美しくて、うまかった。いつも申し訳ないが、買うといい値段なのだ。

 偶然というか、それからすぐに能登の穴水町で、交流している同じ山梨県の南アルプス市の特産市があり、それに出かけてきた。勝沼と同じように、美しい風景が広がる南アルプス市には合併で市になった直後、仕事でお邪魔した。秋の快晴の空の下で、澄んだ空気を腹一杯に吸い込んできた記憶がある。

 穴水での特産市はあらかじめ知っていて、特に訪問時に知り合った人たちが来ているというわけではなかったが、何となく行ってみようと考えていた。

 行ってみると、小さな会場が人でごった返していた。その人たちのお目当ては、なんと無料で配られるブドウ、それもまた「ピオーネ」だった。当然“最後尾こちら”のプラカードを持った係の人の前に入り、一房入手。なんかブドウづいているな…と、強く感じさせてくれた。

 ところで、夏の暑かったことも忘れて、秋も普通になった頃には、勝沼では甲州ブドウが一斉に実りの時期を迎える。そして、楽しみなのが甲州ワインだ。Mにゴマすっておかねば……

                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

「夏のハーフタイム的雑感~その2…」

 

 旧盆の休暇は、特に何をするでもなく、天候不順という最低な条件にも左右されて不満足な出来であった。昼間は独りでいることが多く、そうめんを作ったり、冷奴の試し食いなどに、微かな喜びを見出したりしながらやり過ごした。

 冷奴はシンプルなのがいちばんと前に書いたが、富山県八尾から某スーパーに入って来る「絹ごしどうふ」が、何となく健気(けなげ)で、心をそっと揺さぶってきたりしている。京都から、いかにも工夫しとりますゥ的雰囲気満載の豆腐が入ってきたりもして、そんな言葉の誘惑に負けそうになったりもするが、八尾という名前にも、尊敬する奥井進氏の生まれ故郷であることもあってか、ぐっとくるものがあるのだ。

 八尾の豆腐は四角だ。豆腐は四角で当たり前で、近年のやたら丸かったりしている輩には、まずもって不信感から入ってしまうのはボクだけだろうか…(そうだろうなァ) しかし、そのシンプルな味に共鳴している。

 そうめんはいつも適当に作る。冷蔵庫の扉に貼り付いているタイマーのようなものを一応セットしたりするが、ほとんどは見た目でいく。冷水にさらす時も指の感触で決める。食べる時は生姜あるのみ。30年前に奈良で三輪のそうめんに出会って以来、そうめんに目覚めてしまったボクとしては、そうめんはあくまでも、大切な食材のひとつなのだ。『ゴンゲン森・・・』の中で、ナツオが食べていた、あの時代のそうめんは一体何だったのか? 一説によると冷麦だったのではとの話もある。だから、どうなのかと言われてもボクは、その意味を理解していないのだが……

 フットサルの話を書いたが、能登島で合宿中の高校チーム同士のゲームを見た。言葉から推測するに関西のチームらしかった。凄いハイレベルのゲームで、選手たちが輝いて見えた。夏合宿で伸びる選手と、伸び悩む選手とがはっきり分かれていく。猛暑の炎天下、申し訳ないので、ボクも木陰に入らず、熱くなった木製のベンチに腰を下ろしていた。

 そういえば、山梨県旧勝沼町で、兼業でブドウ作りをやっているMくんの母校が30年ぶりに甲子園に出た。試合当日の朝、「今、応援バスの中か? 応援してるぞ」とメールしておいたが、昼近い頃になって、「ブドウ畑も忙しくて、今日はテレビで応援だ」と返信が来た。野球部熱血OBとしては、さぞかし応援に行きたかっただろうにと思っていたが、相手も強豪校でMくんの母校は久しぶりの甲子園を勝利で飾れなかった。夜のメールでは、「悔いの残る試合だった…」と。悔しい思いが綴られていた。話は変わるが、今年の秋には、Mくん自家製の甲州ブドウとワインを楽しみにしている…

 本格的な山には一度も行けないまま、夏はハーフタイムを迎えた。ラグビーで言えば、ノートライ、ペナルティゴールが辛うじて一本決まったという程度だ。上高地から穂高や、いつもの太郎小屋周辺をアタマに描いていたのだが、時間がボクを許してくれない。そんな中、前にも書いたが『笑顔の冒険家・植村直己』(NHK教育)が充分に楽しませてくれている。一回わずか25分のドキュメンタリーだが、今度が最終週となってしまった。第2回目のエベレスト登頂の話は、植村さんの真実を伝えるいい内容だった。

 もうひとつ、民放でやっていた『剣岳・点の記』もよかった。測量士の柴崎芳太郎もよかったが、案内人・宇治長次郎(うじちょうじろう)もいい描かれ方だった。山案内人であった長次郎の銅像が立っている場所を知っている人は少ないだろう。旧富山県大山町(現富山市)の立山山麓家族旅行村の入り口にある。もっと分かりやすく言えば、ゴンドラスキー場の入り口。分かりやすくもないかな… 一緒に連れて行ってあげた人でさえ、覚えていないと言うかもしれない。

 宇治長次郎は山の案内人として剣岳登頂に貢献したが、もう一人この旧大山町からは日本の山岳史上偉大な人物が出ている。それは、北アルプスの盟主と呼ばれる槍ヶ岳を開いた播隆上人(ばんりゅうしょうにん)で、百姓から僧侶になり、笠ケ岳、そして最も難しいと言われた槍ヶ岳を開いた。播隆の物語も『剣岳・点の記』と同様、新田次郎によって小説化され、『槍ヶ岳開山』のタイトルで広く読まれている。ついでに言うと、新田次郎の山岳小説は『孤高の人』、『栄光の岩壁』など、どれも昔最高に面白く読んだ。

 本と言えば、『ゴンゲン森・・・』でも大変お世話になっている、うつのみやさんの百番街店で、実にもって嬉しいかぎりの文庫のレイアウトを見つけてしまった。なんと、椎名誠氏の『岳物語』と伊集院静氏の『機関車先生』とが並んで置かれていたのだ。これは集英社文庫の企画らしく、同じ装丁デザインで特別販売されているシリーズなのだそうだ。サイトのプロフィールにも書いているが、ボクの尊敬する二人の作家の、しかも『ゴンゲン森・・・』という作品では、ボクが手本したといっていい二作品なのだ。

 なんてことだろう…と、ボクは大いに驚き、そしてゾクゾクと背中を縮み上がらせてしまった。嬉しかったが、なんだか怖くもあった。こんな感性がやっぱりまだまだ生きているんだ…、だとしたら、このまま『ゴンゲン森・・・』を眠らせていくわけにはいかないなあ…と、大いに思ったりもした(思わず店内で小型カメラによる撮影もしてしまった)。

 そういえば、盆休暇直前日の夕暮れ時、独りで待っていた我が家に、「地デジ」がやってきた。ところで、ウォシュレットの出現により、だいぶ前に「キレぢ」が去ってから十何年が過ぎたが、両者はなんら関係ない。言葉の響きによっては、同類に聞こえたりするので誤解を招きやすいが、全く関係ないのだ。地デジによって、我が家のテレビ文化はかなり変わるであろうが、なにしろかなりの衝動買いであったため、その支払いなどの条件も、我が家の生活文化を変えそうだ。番組では、特に天気予報が見やすく分かりやすくなり、買った甲斐があった。

 しみじみとした夏のハーフタイムには、古いお寺を訪ねたりするのが良かったりする。加賀大聖寺の山の下寺院群は、かつてボクがルートづくりをさせていただいたところだが、久しぶりに行ってみると、一段とやさしい雰囲気に包まれていた。ちょっと休めるところがあったらいいなあと感じながら、人のいないことに中途半端な安ど感…… 暑いからだろうなあと思いつつ、もっと多くの人に知ってもらい、来てもらうためにはどうしたらいいのか? 深田久弥・山の文化館でも、必ずその話題になったりする。

 カフェで、独り静かにかわいいカバーを付けた文庫本を読む女性がいた。カバーもやたらと目を引いたが、アイスコーヒーのストローにも夏を感じていたんだなあ…

その3につづくかもしれぬ……

「夏のハーフタイム的雑感~その1……」

 

 ある休日の夕方、美しい夕焼けが窓から見えていたので、カメラを手にしてふらっと外に出てみた。そして、数枚の写真を撮影した後、あることに気がついた。

 それは、夏の夕暮れ時というのが、これほどまでに静かなものだったのか…ということだった。鳥のさえずりと、ヒグラシの鳴き声だけが遠くから聞こえてくるだけ。ごくごく日常的なことでありながら、いつもはゆっくり夕焼けなど見ていられることがない分、その日の夕焼けは美しさとともに静けさを、強く感じさせた。

 そういえば、その何日か前、夜の打ち合わせが加賀であり、高速の帰り道、海を見ていたことがあった。SAの自販機でブラックコーヒーでも飲もうと思ったのだが、小銭入れのカネがわずか10円足りず、コーヒーを諦めて夜の海を見ていたのだ。なかなかコーヒーへの恨みは消えなかったが、それを癒してくれるに十分な夜の海の美しさだった。

 海も山もそうだが、人だかりでごった返す雰囲気は好きではない。ボクの思いの中には、その両者ともが、独りでボーっとする場として位置付けられている。だから砂浜なんかに、小さな舟が一艘だけ繋がれているのを見つけたある日の風景などには、惜し気もなく自分自身の感性をリンクさせようとし、出来るだけその風景の中に自分を同化させるための努力をしていた。

 必ずしも近づいて行こうとは思わない。ちょうどいい距離を見つけて、その空間の中でいい気持ちになれる瞬間を探す。カメラのピント合わせの感覚に似ているのかもしれないし、レンズを動かしている時の感覚にも似ているかもしれない。

 暑い夏には、やはり入道雲が似合う。

 今年の夏の入道雲は、8月に入って気合が入ってきた。入道雲が怒っている(とボクには見える)時は、夏がいい夏であることを証明している。だから、子供の時の夏は、やはりいい夏だったのだと思ったりする。真っ黒に日焼けしたボクたちの肩や腕や足や、そして首や顔などと、入道雲はぴったりの相性を誇っていた。

 仕事で立ち寄った金沢市民芸術村で、正装した高校の吹奏楽部だろうか、練習を終えて全員がぞろぞろ炎天下を歩いて来るのを見た。その光景と芸術村の赤レンガと黒瓦の建物、そしてその上に、純青の空と、怒りを露(あら)わにした入道雲を見た時には、思わず心が騒いだ。声を上げたくもなった。無性に誰かにこの凄さを伝えたくなったが、誰に伝えていいのか分からないまま高ぶりを抑えるのに苦労した。

 

 今夏でも、めったに自分からは食べない「カキ氷」が出された時には、心の中で“しまったなあ…”と思うことがあった。ボクは極度に冷たいものはあまり好きではない。適度に冷たいものは好きだが、極度はダメなのだ。なぜかというと、アタマの前方付近に突如やってくる、あの刺激的痛みに襲われやすいタイプなのだ。だから今年も、極力、極度に冷たいものとは付き合わないようにしてきた。

 しかし、夏のイベントの打合せで兼六園下の坂道をオロオロと歩きまわっていた後、ついにその商店会の会長さんのお店、詳しく言うと、店舗二階の階段付近にあるL字型応接セットのテーブルの上にその「カキ氷」は届けられ、“見た目”的には爽快感満点のソレを思い切りよく口へと運び、その後、三度ばかり激痛に襲われ、眉をしかめ、唇を噛み、鼻の穴をおっ広げては耐えに耐えた。

 そのおかげもあってか、旧盆直前に催した打ち水イベントは大成功で、県内各紙と各局が取材に来てくれ、NHKは全国ニュースでも流してくれた。

 そういえば、自分がクーラーも好きではないということを、今夏あらためて認識した。特に暑いのと冷えたのとを繰り返すのが嫌いだし、局部的に冷やそうとするカーエアコンなども好きではない。暑いのなら暑いだけのところで、暑いままいる方がいい。

 何日だったか、小松で全国一の気温(37.7度)になった日があった。その日の夜、小松在住の一級建築士兼フラメンコ・ダンサー及びスパニッシュ系ミュージシャンの“m”さんに、日本一おめでとうございますとメールした。ボクとしては、非常にうらやましい話で、何年も前に一度京都で40度近い気温を体験したが、最高気温日本一になった感想とその体感の喜びの声が聞きたかったのだ。しかし、夜遅くなって、いよいよメールが返されてきたが、「運よく、小松にいなかったので、よかったです…」的お言葉だけで、ボクの期待はカンペキに裏切られた、のであった。

 その2につづく……

旧宮崎村の空と風景

 土曜日の夜、ふと思い立ち、“明日、福井の越前町へ行くかな”ということになった。ふと思い立ってというのは、正確に言うと嘘で、数日前から、思っていたことでもあった。だが、本気でそう思ったのは、間違いなく土曜の夜だったのだ。

 越前町と言っても、ボクの中では、“旧宮崎村”という方がぴったりくる。今から何年前だろうか、陶芸が盛んで、そのデザインを村づくりのシンボルにしている宮崎村へと出かけたのは… 記憶はまったく定かではないが、とにかく山里深く入って行ったのを覚えていた。越前町は、平成17年、宮崎村を含む4町村が合併してできた町なのだ。

 北陸自動車道・鯖江インターからクルマで30分。天候は煮え切らない、この先あまり多くを望んではいけないような曇り空。ところどころに、思い切りの悪い雲の切れ間はあるが、思い切りが悪いだけに、陽光など見えてこない。しかし、まあ、仕方ないかとクルマを走らせていると、そのうち、少しずつ前方が明るくなってきた。目指す方向に、思い切りのいい雲の切れ間… というより、カンペキに開き直ったような青空が見えてきた。視界が広がり、気分も冴えてくる。

 “ここは越前町なのです”というレンガ造りのサインが立っている。これはボクが昔見たものと同じはずだが、時間が経っているにも関わらず、とても綺麗だ。ということは、昔見たものと違うのかも知れない?そんなことを思っている間に、クルマは見覚えのある、大木が並んだ場所へとさしかかった。道路の真ん中に立つ二本の木。まっすぐに伸びた凛々しい高木(こうぼく)が迎えてくれる。

 曖昧(あいまい)だが、記憶がわずかに甦(よみがえ)ってきた。わざとらしいと自覚しつつ、おおっと声を出す。逆光の空を背景にして、二本の木のシルエットが眩しい。写真を撮りたいと思ったが、咄嗟(とっさ)のことでそのまま通過。どちらにせよ、クルマを停める場所がなかった。撮影は帰り道だ、と自分を納得させる。

 山間(やまあい)の道を、くねくねと緩やかに曲がりながら、そして緩やかに上下しながら走って行く。少しずつゆっくりと高度は上がっているのだろう。ところどころに、焼き物の町らしいレンガ風の建物が散在する。大きな公共の施設はもちろんのこと、バス停などの小さな建物もそれらしく整えられている。たまに木造のほんとに小さな建物があるが、それはゴミの集積場所かなと、勝手に想像。

 小高い山並みは、当たり前のように新緑であふれており、道沿いに植えられた色とりどりの花々も、かなり普通にやさしく、そして美しかった。

 道なりに進む… そして、かなり奥に入り込んだあたりで、越前陶芸村の入り口へと向かう道を左に折れる。「陶芸まつり」が開催中の村への道は大混雑していた。のろのろ走りながら、かなり離れた、田んぼの中の空き地に作られた駐車場にクルマを入れた。

 天候は空の半分ほどで晴れと曇りに分かれている。こういうのを気象予報士はなんて言うのだろう。晴れたり曇ったりでもなく、晴れ時々曇りでもない。今日の天気は、右を見たら晴れ、左を見たら曇りでしょう…… なんて言うのだろうか、そんなはずない。向きによっては、右が曇りで、左が晴れの人もいるから。まじめに考えてしまった……

 水田に囲まれたまっすぐな道を歩く。陶芸まつりの会場はテントでいっぱいだった。かなり本格的なイベントなのだ。ひととおり歩いてまわり、マグカップを一個購入。越前焼どころか、九谷焼にもそれほど関心のないボクだが、それなりに個性的な作品を目にしていると、自分自身でも時折手に取ったり、作家さんに声をかけたりする。作家さんの個性がどういうものかの方に、ボクの関心は高まってしまう。そして、サイクルが合っていたりすると、ボクはすごく嬉しくなる。その経過の中で、マグカップ購入のモチベーションも高まったのだ。タケノコごはん弁当一個500円也で、それなりに腹ごしらえ。それからまた会場の外れまでブラブラし、そしてクルマへと戻る。

 空は、いつの間にか半々から七・三で晴れが有利になっていて、体中がホカホカ状態であることを、しっかりと自覚した。

 ゆったりと戻りの道へ。集落の家々が、しみじみと目に焼き付けられていく。緑の木立を背景にして建ち並ぶ土蔵の美しい白壁が印象的だ。このあたりの家々は、昔から土蔵を持っていたのだろう。今は塗り替えられた明るい白が眩しい。畑にいた老人に話しかけると、土蔵には、かつて米が入れられてたんですと答えてくれた。穏やかな、温かい話し方をする老人だった。

 “もうずっと前になりますが、かつてこの村に来たことがありまして、その時のことを思い出そうとしてたんですが、なかなか決め手がないんですよ”ボクがそう言うと、老人は、“もともと、何もない村ですから”と答えて笑った。

 ふと思い出したのは、季節感だった。あの時は、紅葉の終わりの、これから冬に向かおうという時季だったことを思い出した。寒々としていて、どこかの公園みたいなところで、ドングリの実を拾っていたことが甦(よみがえ)ってきた。そうか…ボクはあまりにも今と違う風景の中にいたんだな。

 思い切り空を見上げた。自分の好きな季節がやって来ようとしている。そんな思いが瞬間的にアタマの中を通り過ぎて行った。

 なんだか変だなア~と思いながら、そんなことを感じさせてくれた、旧宮崎村の空と、旧宮崎村の風景とを、あらためて見回していたのだった……

湯涌街道の素晴らしき普通さ

   湯涌街道を走る機会がよくある。もちろんクルマで。仕事では、湯涌夢二館へと出かける時に走る。プライベートでは、飲料用の湧水を汲みに出かける時に走る。頻度は水汲みの方が多いが、どちらもそれなりに、山里の風情を楽しみながら走るということに変わりはなく、ボクにとっては、車窓から見る風景に心を和ませながらの“小さな旅”になる。

まったくほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日。久しぶりに仕事でこの道を走った。目的地は相変わらずの夢二館だ。新しい館長さんに挨拶にと出かけて行ったのだが、留守だった。三月に金沢美大を退職されたのだが、週一回だけ講義を続けているとのこと。ちょうど、その日がそうだったのだ。これ幸い?にと、名刺と拙著を一冊置いてきた。念のために言っておくが、ボクは新館長のO田S子大先生には、絶大なる信頼を得ている…と思っている。

用事を済ませて総湯の方へと足を向けると、真っ青な空がはるか彼方的に広がる頭上に、鯉のぼりが浮かんでいた。たいした風もないまま、決して元気もなく、ただゆらりゆらりと揺れている鯉のぼりたちを見上げていると、鼻の頭が焼けてくる感じがする。日差しが強かった。

ぶらぶらと歩いてみることにした。夏を思わせる雰囲気の温泉街は、ひっそりと静まり返り、日向のところと木立の日陰のところとが、アスファルトの上に鮮やかなコントラストを描いている。めずらしくクルマも走ってこない。総湯の前には多くのクルマが止まっていたが、皆さんまだ、風呂場でくつろぎ中なのだろう。こちらとしては、想像しただけで汗がどどっと溢れ出てきた。しばらくして、温泉街を離れる。

湯涌街道は、これといって際立った美しい風景がないところがいい。生活感と混ざり合った何でもない普通さに、魅力を感じる。それは金沢のまちに近いからかも知れない。金沢の市街地を出て、二十分もしないうちに、いきなり大峡谷が現れては、ちょっと心の準備が間に合わない。それになんだか信用できない風景になってしまう。自然が創り出した地形などといっても、嘘っぽい。建設重機を持ち込んで、人工的に作ったのではと疑われる。やはりそういう風景は、クルマで二、三時間、いや四、五時間走ってから現れてほしい。

    そういう点で、湯涌街道は自身の身分や素性、さらに言えば、家庭環境、家計状況までもをわきまえている。決して気取らず、奢(おご)らず、普通の風景でいることに徹している。みなで湯涌街道を褒めてやらなければならない。湯涌街道よ、あなたは偉いと。

そんなわけで、ボクは二~三週間に一回ぐらいのペースで湯涌街道を走っているわけなのだが、これからもこの風景の普通さに安堵しつつ、のんびりとハンドルを握っていくのだろうなあ、と思っている。ますます湯涌街道が好きになっていく、ボクなのである…

 

「水田のある風景」が好きであるということについて…

   水田が好きだという、ボクの秘かな思いを知っているのは、ごくごく一部の人だけだ。いや、誰も知らないかな。一人ぐらいいるだろうと思うのだが、もしいたとしても、そうだったっけ?と、首をかしげられるかもしれない。

 水田が好きだというのは正しい表現ではない。正式には、水田のある風景が好きだということなのだが、そんなややこしいことも、掲載した写真を見れば、一目瞭然に納得してもらえるだろう。それにしても、なぜ水田のある風景はこんなにも美しいのだろうか?

 ここでは、そんなこと考えたって仕方ないジャン…などと、妙にシティボーイっぽくなって欲しくはないのだが、どうしてもそうなってしまうという人は、荷物をまとめて去ってもらおう。

 そんなこともどうでもよくて、やはり、なぜ水田のある風景は美しいのか?なのだ。写真で一目瞭然と書いたが、やはり一目瞭然である。五枚あるから五目瞭然とも言え、五目ラーメンのように、いろいろな具が混ざって絶妙の味を醸し出している、とも言える。

  当たり前だが、水田は水があるからいい。しかも、今の季節は田植えが終わった後の、まだ水面が広々とした鏡のようなはたらきをしていて、新緑や、青空を映し出したりしているのがいい。そして、時折、風に水面が波立ったりするのもよかったりする。文句のつけようのない美しさだ。これを美しいと思わない人は、たぶん、こころのどこかに捻(ひね)くれた何かを持っている人か、素直に自分の気持ちを言えない人だ。われわれ美しき心の持ち主には、そんなことはあり得ない。上高地の梓川の清流を見た人で、美しいとは思わなかったという人はいないとよく言われるが、初夏、晴れた日の水田風景も、それに二歩半ほど及ばないものの、充分、正しい美しさを持っているのである。

 5月15日の午後、ボクは中能登のある町で、これらの写真を撮った。カメラを構えているボクの横を、地元のおじさんやおばさんたちが通り過ぎて行ったが、当然、誰も声をかけてくるわけでもなく、カメラを構える方向に、ちらりと視線を投げるだけだった。

 ボクが「水田オタク」ではないことは、みな承知だろうが、素朴な風景を好む人間としての、そのノメリ込み度は並みではない。その一環にある、「水田のある美しい風景」に出会った嬉しさを書いてみた…