hisashinakai
🖋抗体の交代
☀ウイルスの抗体を経てストレスの抗体へ
コロナ禍そのもののストレスと、それが誘発したのだろうと思われるストレスを新たに感じることがよくあった。それこそまさにストレスが “飛散” しているといった感じで。
自分も含めて多くの人たちは、課せられてきたさまざまな規制や自粛に十分対応してきたと思う。しかし、心得ているつもりでも、小さな気の緩みや不可抗力的なことにあのウイルスは寛大ではない。というよりも、話の分からないやつに似ている……
ただでさえストレス充満の状態になりつつあったのに、自分自身の中に不思議なストレス源が新たに存在していた。そのことに気付いたのは、昨年の後半に入ってからだ。
たとえば、アメリカ大統領選挙の推移。あのモタモタ騒動などには要らぬ動揺?を課された。それはまさに自分の中に生まれた新たなストレスだった。嫌気がさし、気が付くとそのニュースや取り上げるTV番組などを避けるようになっていた。
しかし、どんなメディアにも常時取り上げられる。コメンテーターたちが仕事上アーだコーだとしゃべり出す。個人的に当時の現職は好きでなかったのだが、その現職を肯定するような話も出てくる。そして、平常時なら聞き流せたことに過敏にならざるを得なくなっていく。自分にとって逃れられない世の中の空気は、まるでウイルスそのものだったとも言える。
大げさかもしれないが、コロナウイルス感染予防へのストレスと相対しながら、派生してきた別のストレスに対しても考えなければならないと思うようになった。ウイルスではなく、ストレスに対する “抗体” 探しなのだ。
そして、その“抗体探し”を考えた。単純に言えば、趣味の世界などをこの状況下でも楽しめるようにする…とかなのだが、それもクオリティを維持したまま長続きはしない。それこそ逆にストレスが増すのではないかとさえ思ってしまう始末で、夏が過ぎ秋になっても安らかではなかった。
心が安らかでないということが、いかに生きづらく、生活しづらいものか。今よく言われる普通にや平凡なということの大切さが、心身共に沁み込み始めてきていた。
そして、もう少し我慢すれば、それを取り戻せると思えるまでになっているが、その時に、本当に自分はそうなれるのだろうかと考える。
楽しいとまでいかなくてもいい。気分が晴れる、癒される、楽になれるといった日常の小さなことのために、何かを用意しておく必要があるのではないだろうか。自分自身が持っている抗体候補を、あらためてチェックしてみるのも手だ……と思ったりする。
まずはそこから。今待ち望まれるあのワクチン接種も、とりあえずストレス抗体になるためのグッドニュースになればと思うのだが……
きれいな文章です。
いつも思います。
声を出して読むとますますその良さがわかります。
ありがとうございます。
失礼します。