🖋 雨についての雑想


目次

雨はきらいなもの……

若い頃は、雨が好きだという言葉を信じられないでいた。

雨で部活の練習が軽めになるということがあった時代には、それなりの意味はあったが、それだけで単純に好きになるというほど甘くない。

20代の半ばあたりから、山の世界を軸に自然系の旅に出かけるようになると、雨はきらいなものの代表格になる。必要なものであることは理解できても、好きにはなれないものだった。

そんな雨に対して新しい見方をするようになったのは、その頃のある出来事からだ。

☂兼六園のにわか雨……夏の雨の匂い

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梅雨明けが近いある日の夜、兼六園の茶店が並ぶ道を歩いていた。

左手の眼下にある、かつての大きな堀が埋められた通りを、ライトをつけたクルマの列が流れていく。そのまま視線を水平に戻すと、かつての金沢城の石垣がぼんやりと見える。台地の先端にある兼六園の、そのまっすぐな道を歩くのが好きでもあった。

先の「紺屋坂」という坂道を下ったところに兼六園下というバス停がある。そこへ向かっていた。時間は十分にあって、急ぐ必要もなかった。

そこへ突然、大粒の雨が音をたてて降ってきた。予感はしていたが、こんなに早いとは思っていなかった。

いきなりの雨は一気に砂利道を濡らし始める。ボクはすぐに目の前にあった茶店の軒先を借り、しばしの雨宿りと決めた。

店はすでに閉められていて、小さな明かりを残しながら白いカーテンが引かれていた。硝子戸の前に立っていると、前方の石垣が雨に煙っていく。

兼六園が有料になる前。園内を通り過ぎることが日常だった頃だ……

しばらくして、あることに気が付く。雨の匂いだ。懐かしい匂いだと感じ、夏の雨降りにおこる匂いだと思った。

ボクが生まれ育ったところは、砂丘の町だった。砂があることを当たり前のことのように感じていた。

ズボンのポケットにはいつも砂が入っていたし、家の中のどこかに必ず砂がこぼれていて、それを持ち込んだのは決まってボクたち子供だった。

そんな砂丘地にも当然雨が降った。夏の熱い砂の上に雨が落ちてくると、そこに生暖かい空気の層ができ、特有の匂いが立ち込める。何に例えることもできないその匂いを、その時急に思い出していたのだ。

☂雨を見つめる……

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しばらく…と言っても、そこにいたのは5分くらいのことだろう。時折、庇から水滴が落ちた。その一瞬に気を取られ、何度かそれが繰り返されていくのを見ていると、水滴の落ちるタイミングが計れるようになっていく。

水滴は次々と地面にできた小さな水たまりへと落ちる。そして、その音が間をおきながら徐々に大きくなっていくように感じる。

夜がより深まり、濡れた新しい緑の草が弱い光に覆われている。気が付くと、外灯が明るさを増していた。 

🖋日本的な雨の情景……

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あることを思い出した。          

大学時代の日本文学の先生が語っていた、文学における日本の雨の情景…という話だ。 

日本的な日本らしい雨の風景、情景を、日本の作家たちはまだ書き切れていないんだよね……と、長髪で太い黒縁メガネをかけた先生が、タバコの煙に巻かれながら力説していた 。その日は学校を飛び出し、近くの喫茶店での雑談?みたいな講義だったと記憶している。

その時の先生の話はいつも以上に面白く、その話はその後なぜか尾を引いた。正直ちょっと興味を感じてもいた。しかし、その後そのことを意識して本を読んだことはあったかもしれないが、特に印象に残っている作品はない。

ずっと後になって、春の雨に煙る城崎から植村直己冒険館(いずれも兵庫県)へと出かけたことがあるが、日高川の流れや川沿いの桜並木などが暖かな雨に打たれて美しかった。その印象もボクにとっては強いのだが、たしかにその時もボクは先生の話を思い出していたような気がする。

ついでに書くと、映画の世界での強烈な雨の印象といえば、理屈抜きに『七人の侍』になってしまう。もうひたすら雨、雨、雨だった。しかも雨に墨汁を混ぜたという演出を知った後からは、余計にその印象は強烈さを増した。その雨の表し方そのものが、まさに水墨画に見られる日本的な手法の延長なのかもしれないと思ったりした。

そういうわけで、雨を“情緒的”に見たのは、兼六園での雨宿りの時が初めてだったような気がする。多分に先生の影響を受けていたのだろう。

大学を出てまだ3、4年ほどしか経っていない頃のことだったが、あれ以来、梅雨が訪れたり、夏の俄か雨に出くわしたりするとたまに先生の話を思い出すことがある。

⛈雨と自然……

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しかし、歴史志向から自然志向へと旅の目的が変わった頃には、ますます雨を受け入れにくくなる。

特に山を始めた頃には、運が悪かったのか、行いが悪かったのか、よく雨に当たった。

本格的な山行のスタートが土砂降りの剣岳。なかなか休みが取れないサラリーマンパーティ(俄か)の、梅雨真っ只中における強行軍だったが、その時の思い出を書き留めた文章は、当時「山と渓谷」に掲載させていただいたくらい?悲惨だった。

初日は登山口である番場島を出発してすぐに豪雨となり、二日目の朝も太く密度の濃い雨が降り続き、強い風が吹いた。他のパーティの多くはそのまま下山したが、ボクたちは上を目指す。

伝蔵小屋(現早月小屋)から何とか頂上に立ち、下りのカニの横ばいを過ぎたあたりで何か食べようということになる。小屋の朝飯から何も腹には入れていない。というより余裕がなかった。 

そう言えばと、リュックに入れておいた缶詰のことを思い出す。雨の中、岩場に立ち尽くした状態。蓋を開けた途端に、何人かの汚い指が突っ込まれてくる。

雨が缶の中に入らないようカラダを寄せ合う。雨よりも指の方が汚いのは間違いなかったが、とにかくアッという間に缶の中は空っぽになった。何を食べたのか、クジラの肉だったかという曖昧な記憶しかない。

雨の山行では、大袈裟だが自分自身との葛藤という感覚に陥る。後に雪中の山行にも入っていくが、初期の頃の雨天山行の方がよく自分を見失っていたような気がする。

雨に叩かれながら岩場を上り下りするのは危険も伴う。風が出てくるとなおさらだ。なんで、こんな所へ来たんだと自分自身に怒る。

剣岳以降2回目も3回目も雨降りに遭った。さすがに山への積極性が薄れてもいた。しかし、それだけではつまらない。その後、雨あり晴れありの山行を繰り返すうち、連日の雨の中を平常心で歩いている自分に気が付いた。

そして、山肌から上空に吸い上げられていく雲を、余裕をもって見ている自分がいた。

あれは雨にというよりも、自分に勝ったという感覚だったのだろうか。

雨は決してやさしくはない。時折人の生活や命までをも奪う恐ろしい存在にもなる。      

この世にさまざまなものを創り出す源でもある雨は、裏表なく厳しさを見せることも忘れない……

だから、雨は好きでも嫌いでもない。どちらでもいい。心が都合よく変わっても仕方ない。

♬雨と歌姫……

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この話をもう一度書き直そうと思ったのは、クルマのラジオから流れてきた、ジリオラ・チンクェッティの『雨』(1969年)を懐かしく聴いたからだ。

そして、この曲が、ボクが15歳の頃のものだったということを知り、ジャズを聴き始めた頃に、しっかりとこういう曲にも触れていた…ということと、彼女もまだ22歳であったということに改めて驚いた。

しかし、実は彼女の歌との出会いはもっと古かった。1964年のサンレモ音楽祭での優勝曲『夢見る想い (non ho l’età) 』の方が、はるかに印象深く残っていた。

その時ボクは10歳…… 彼女もなんと16歳だった。クルマの中で計算し、その事実に気が付くと、さらに驚いた。

小さなラジオからの、AM放送、もちろんモノラルで聴いていたやさしい歌声に惹かれていたのだ………


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