下品な日々


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前にも書いたことがあるが、香林坊日銀裏でかつて繰り返されてきた、今は亡き奥井進さんとの会話の中に、「下品やねぇ」という言葉がたまに使われていた。

ボクたちは、ただひたすら自分のために時間を過ごしている状態を「上品」と呼び、仕事のことしか今は考えられないなどといった時間の過ごし方を「下品」と呼んでいたのだ。

一週間ほど店に顔を出さないと、「どうしとったん?」と問われ、「ちょっと忙しくてね」と答えると、「そうなん、下品やねぇ」と言われる。

「私的エネルギーの追求」などといったテーマで雑誌を発行し、ひたすら自分らしくいられる時間を得ようと、静かに息巻いていた時代だった。

今から思えば、ただ中途半端であっただけで、それ以外に何とも表現できないさびしい時でもあった。

でも、今でもアタマの中でこの「下品やねぇ」を使うことがある。

第三者に言っても仕方がないので、自分だけに言うのだが、ただそういう場合は、余計にクールな響きになったりして虚しい。

上品でいたければ、会社なんか辞めて好きなことをやっていればよかったんだよとも言われそうだが、そこがまた「ニンゲンの意外性」などといった別なテーマも掲げたりしたものだから、仕事をしながら私的エネルギーを燃やし続けているということにも、意味を持たせていたわけである。

結局、話をややこしくしていたのは自分自身であり、上品であるとか、下品であるとか、表現の遊びみたいなことをとおして自分をかばっていただけかもしれない。

そう言えば、最近、楽しいという感覚が分からなくなってるなあと思う。

単純に言えば、楽しいと感じる時間がないからなのだろうが、これは一種の病気だ。

NHKの『とと姉ちゃん』を見ていると、雑誌作りに情熱を燃やす主人公に自分を重ねたりして、その純真さみたいなものに刺激されている。

胸が痛くなるような、諦めと羨望が混ざる感覚だ。

あれが家族を養っていくための手段だとする主人公の思いとはちょっと違うが、それでもよい雑誌を作りたいという気持ちは同じなのかもしれない。

結局、8号までしか出せなかったわが『ヒトビト』(雑誌の名前)だが、あの時の気恥ずかしさや気怠さも混じった妙な楽しさはしっかりと胸に刻まれている。

最近、一旦あきらめかけた絵本作家への道に、もう一度チャレンジしようと決意した、ある図書館司書の女性の話を聞いたり読んだりしたが、その再び立ち上ろうというエネルギーに爽やかで、すがすがしいものを感じたりもしている。

自分のことは半分あきらめて、そういう人たちをわずかながらでも応援しているだけで、少し満足出来たりもする。

4月に鳥羽まで電車の一人旅をやった。

現地で昔の大学の友人たちと合流したのだが、あの電車の旅はそれなりによかったような気がする。

車窓の景色とか、最近特に目を凝らして見るようにしていて、なぜか懐かしい楽しさを感じ取っていた。

休みの日、かつて仕事で出かけていた土地に、敢えて私的に出かけるということの新鮮な感覚も味わったりした。

「上品な日々」は、自分の意識次第ですぐ目の前に現れたりするのかもしれない。

そんなことを束の間思いながらの「下品な日々」が続いている……

 


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