布橋とプモリと芦峅寺と
めずらしく家人が立山山麓へ行こうと言ってくれた。
当然二つ返事どころか、四つか五つほど返事して行くことになった。
当方にとっても、ふらりと行きたいところ・不動のベスト3ぐらいには入っているので、行かないわけがない。
それに9月の休日も、ほとんどどこへも出かけられない下品さだった。
立山山麓には山関係を中心に、いろいろと知り合いも多い。
天気は最高。非の打ちどころのないカンペキな初秋の青空である。
目的となる場所を細かく言うと、立山博物館から遥望館という施設に向かう途中の「布橋」。
布とあるが、アーチ型の木橋だ。
数日前、「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という行事をテレビで見た家人が、是非その布橋に立ってみたいと言ったのである。
布橋灌頂会とは、かつて立山へ入山が禁じられていた女人たちのためにと営まれてきた儀式で、布橋はこの世とあの世の境界になるという。
そんな橋の上に立つのであるから、それなりにしっかりと考えてから行く必要があったが、当然そんなことはなかった。
もう四度目となる立山博物館に、まず立ち寄った。
ここから遥望館に向かえば、否応なく布橋を通ることになる。
それが自分にとっての常道?でもあった。
ところが、受付嬢さんが言うには、遥望館の映像が始まるまでに時間がない。
今からすぐクルマで「まんだら遊園」に向かい、そこの駐車場から遥望館へ向かえば上映時間に間に合うというのだ。
緊急の決断が求められた。
遥望館の映像は、今を見逃すと数時間後になる。今しかない。
彼女の目はそう訴えていた。
その目に家人は負けた。
正直言って、ボクはもう何度も見ているので、今見なくてはならないといった緊急性はない。
たしか、家人も一度見ているはずである。
ただ、もう何年も過ぎているから、ひょっとして映像が新調されているかも知れない。
そのことに期待することとした。
われわれは再びクルマに戻り、800メートルほど走って「まんだら遊園」の第1駐車場に入った。
そこから“熊の目撃情報あり…”の看板を横目に歩いた。
遥望館の裏側に辿り着くと、すぐに入館。立山博物館とまんだら遊園も含めた共通チケットを購入した。
正面に回っていたが、布橋の存在には気が付いていない。
予想どおり? 映像はほとんど変わっていなかった。
畳の上に腰を下ろして見るシステムは同じで、上映終了後に壁が開放され、はるか彼方に立山連峰を望んだ時だけがよかった。
それまで見てきた中で、最も好天に恵まれていたせいだろう。
トイレを済ませて、「まんだら遊園」に入り散策。
この施設はかなり難解ながらも、体感的には楽しい。
遥望館の映像の上映時間が長く、気が付くと昼時間を過ぎていて空腹である。
このまま立山博物館に戻る気はなく、昼飯を求めて決めていた「プモリ」へと向かった。
ところが、プモリのまわりはクルマで溢れかえり、玄関先にはヒトがいっぱいだ。
恐れていたことが現実となった。
ひとつは、映画『春を背負って』の主人公俳優がテレビで紹介したために、多くの客が訪れているだろうなあという恐れ。
もうひとつは、遥望館で時間を費やし過ぎたことによって、お昼ど真ん中になってしまい、これもまた多くの客でごった返しているだろうなあという恐れだ。
両方共が当たった。見事に。
空腹は耐え難く、われわれはすぐ近くにあり、この間名前を変えてリニューアルされた「ホテル森の風立山」に向かうことにした。
二階にあるレストランで和食の昼飯を食った。
ついでに二階フロアの椅子で軽く昼寝。
うまく時間がつぶれて、再び「プモリ」へ。時計は2時を回っていた。
こうなったら、プモリでのんびり美味しいコーヒーをいただく。
久しぶりだ。オーナーのHさんとも長いこと顔を合わせていない。
覚えていてくれるかも半信半疑だ。
予想どおり、さっきのランチ族は退去し、わずかに二組ほどの客がいただけだった。
ケーキセット、つまりケーキにコーヒーが付いたものをオーダーすると、美味しいチーズケーキとチョコレートケーキが出てきて満足した。
家人はチーズケーキはワタシのよと言っていたが、チョコレートの方も気に入ったらしく、最終的にはほぼ半々くらいの分配となったのである。
相変わらず店の空気感が素晴らしく、オーナー夫妻の心づくしが至る所に息づいている。
もう二十年ほどになるだろうか、Hさんとは地元である旧大山町の仕事の関係で知り合った。
中身はややこしいので省略するが、町の観光に関わる人たちから意見を聞かせてもらう会をつくり、当時、憧れの人であった太郎平小屋のIさんを中心にして活動した。
その会に、Iさんの推薦で入っていただいたのがHさんだったのだ。
帰り際、厨房にいるHさんの顔が見たくて声をかけると、ああ~と久しぶりの再会を喜んでくれたみたいだった。
実を言うと、最近クマと遭遇し、その時に大ケガを負ったという話を聞いていた。
そのことを聞くと、まだ後遺症が残っているとHさんは笑いながら話してくれた。
Hさんと話ができたことで、満足度は二十倍くらい大きくなった。
真昼間の大忙しタイムに来ていたら、話どころか挨拶もできなかっただろう。
大事にしてください…また来ます。と、お二人に声をかけ店を出る。
名物カレーとの再会は果たせなかったが、また楽しみが続くだけだ。
外にも夫妻の大事にしてきた庭があり、そこも覗いてきた……
グッと下って立山博物館駐車場に戻る。そのままお目当ての布橋へと歩いた。
懐かしいTさんのギャラリーの前を通り、坂道を下る。
ほどなく前方に布橋。そのはるか彼方に、立山連峰が秋らしい装いで控えていた。
先にも書いたが、布橋はこの世とあの世の境界。
その下にほとんどせせらぎしか聞こえないほどの小さな流れがある。
その“うば堂川”が三途の川なのだそうだ。
明治初めの廃仏毀釈によって消滅したが、布橋灌頂会には白装束に目隠しをした女性たちがこの布橋を渡った。
その奥にある“うば堂”でお参りした後、もう一度布橋を渡って戻ってくると、極楽浄土に行けるということだった。
この儀式は平成8年、138年ぶりに再現された。その後も今年を含めて数回再現されている。
いつだったか忘れたが、一度だけ偶然見た記憶があるが、よく覚えてはいない。
橋の頂点よりやや下の位置から見上げると、立山連峰とのバランスがよく、清々しい心持ちになる。
家人も落ち着いた空気感に満足しているようだ。
ここまで来るにはかなりの曲折?があったが、久しぶりに来てみて充足感は高まった。
帰り道には石仏が並ぶ短い石段を上り、木洩れ日と、石仏一体一体に添えられた素朴な花たちに癒される。
上り切ったところにある閻魔堂で、閻魔さまにお参りすることも忘れなかった。
これで少しは死後の極楽行きに光が差し込んだかもしれない。
立山博物館もすでに歳月が経ち、中の展示はかなり冷めた感覚で見てしまった。
それよりも、その両隣にある「教算坊」というかつての宿坊の庭や、芦峅雄山神社の杉林を歩く方が印象深かった。
すでに陽は西に傾いているはずだが、まだ木洩れ日には強い力が残っている。
芦峅雄山神社の鳥居まで戻り、振り返って一礼。
今日一日の締めくくりらしい場所だなと、ふと思った。
立山山麓には自分なりに好きな場所が多くあるが、今日のように家人と一緒でなければ、その魅力を再確認できなかったかも知れない。
そんなことを思いながら、楽しい一日が終わろうとしていたのだ……