金沢と旧柳田村を結ぶ小さな想い出など


 金沢の街にあまり強く感じるものがなくなってから、何年かが過ぎたように思う。

 今はただ漠然と街なかを歩いていたりする。特に新幹線と逆流するかのように、金沢観は自分から遠ざかっていく感じだ。

 以前は、金沢の特異な顔を知っている存在の一人だった…という、かすかな自負みたいなものもあったりした。

 「金沢のコト」との最初の出会いは、室生犀星だった。学生時代を過ごした東京で、なぜか犀星の作品を読んだ。青春望郷編みたいなものだ。

 今のように“三文豪”などといった呼び名もない頃だったろう。犀星は周囲にもあまり知られていない存在だった。

 しかし、前にも書いたが、その頃犀星の金沢描写になぜか心臓の鼓動が高まり続け、胸の奥がキュッと傷んだりしたのだ。それほど自分が純粋な体育会系ブンガク的及びジャズ的青年であったということなのだろうが、とにかくそういう感覚は研ぎ澄まされていたのかも知れない…? 

 同じような頃に『兼六園物語』という本も出版され、紀伊國屋でそれを買った覚えもある。兼六園の歴史や見どころなどが紹介されていて、紀伊國屋裏のDUGでそれを読み始めたとき、帰郷したら兼六園へ行こうと思いが沸いた。

 古い話だが、兼六園は無料だった。もっと古い話になると、その無料の兼六園でよく昼寝をした。高校時代の夏休みのことで、今でいうところの部活帰りの木陰のベンチは最高の昼寝場所だったのだ。

 金沢について専門的に詳しくなっていくのは、現在の会社に入ってからのことだ。仕事で金沢のことを勉強しなければならなくなった。

 まだ一人前の少し手前だった二十代の半ば過ぎ、金沢市役所からある仕事が舞い込む。1980年のことだ。

 それは新築する金沢市立城北児童会館に、金沢を紹介する展示コーナーを作るというもので、入社して数年の自分に担当の役目が下ったのである。

 お前やってみないか、と振ってくれた先輩の指示は間違っていなかったと思う。ボクはその仕事にかなりのめり込んだ。

 かつて金沢の市中を走っていた市電の模型を作るために、旧鶴来町にあった北陸鉄道の事務所へと設計図の借用に走り、それを持って東京銀座の天賞堂を訪ねた。打合せは緊張の連続。一台がかなり高価(数十万円)だったが、その完成度の高さにはかなり感動した。製作したのは三種類だった。

 ついでだが、市電の方向幕が染物で作られていて、全国でも特殊だったとか、戦艦大和と同じ造船所で作られていた市電があったとか、そんなエピソードを書いたのを覚えている。

 「加賀八幡起き上がり」という金沢名物のだるま人形の製作工程も紹介した。武蔵の中島めんやさんにお願いに行き、その時初めてホンモノを見たが、これもまた美しいものだった。

 「天神堂」という男の子の飾り物や、金沢の正月の遊具「旗源平」なども新たに製作したものだった。

 「加賀二俣和紙」の出来るまでというテーマも面白かった。二俣の和紙作り名人・Sさん宅を訪ね、アマと呼ばれる二階の間でその工程を教えてもらい、実際の材料で完成までを紹介するという内容だった。偶然知ったが、Sさんはボクの親友のお母さんの親戚だった。

 二俣の和紙は、それ以降金沢市の観光サインにも冒険的に使わせてもらったし、最近では湯涌江戸村の展示にも使用させてもらっている。 

 その他にも金沢城石川門の立体図の再現など、まだいろいろ興味深いものがあった。

 が、そんな中で特に強烈な印象として残っているのが「炭焼き」の紹介だったと思う。

 昔から金沢で行われていた炭焼き風景を紹介するという内容で、展示の方法としては単に一枚の写真を掲示するというくらいのものだった。

 ところが、この写真というのが難物で、結局、奥能登の旧柳田村(現能登町)まで撮影しに行くことになる。

 最初は、金沢の湯涌の山里にあった炭焼き小屋でいいだろうと考えていたが、実際にその場所まで行ってみると、それなりに近代化?された炭焼き小屋で、すべてがトタンで被われていた。

 それくらいと思うかもしれないが、そこがこうした仕事の重要なところで、昭和二十年代の炭焼き小屋ではほとんどが藁葺きなのであり、そこは忠実に紹介するのが常道なのであった。

 そういうことで、市役者の方に相談に行ったが、そこはお任せになっているのでよろしく頼みます的な返答しかなかった。当然だった。

 そこでたまたま少し前の新聞に、能登の炭焼き風景が写真入りで紹介されていたのを思い出してくれた誰かの助言があり、意を決し奥能登へと出かけることにしたのだった。

 旧柳田村は能登にしては珍しく海に面しておらず、山あいの村だった。まだ現在の立派な道もつながっていなかったと思う。

 季節は三月頃の残雪期。湯涌の雪もそれなりだったが、柳田の雪はまだまだそれなりの量で残っていた。

 あらかじめ金沢市役所から柳田村役場に連絡を入れていただいておく。

 役場に着くと、ボクよりも若そうな職員がやや緊張の面持ちで出てきた。そして、後ろを付いてきてください的な言葉を発し、それ以上は特にありませんとばかりにクルマに乗り込んでいく。

 着いたところは、残雪の山あいといった場所だった。クルマを下りると、彼が斜面の先を指さした。ここをまっすぐに登っていったところに、新聞に掲載された炭焼き小屋がある……というのだ。ただ、どう目を凝らしてもボクの視界には入ってこない。

 長靴を出した。その長靴は持参したものだったか、役場で借りたものだったか記憶がはっきりとしていない。

 そして、長靴を履くと、両肩からタスキ掛けのようにカメラを二台下げた。どういう区分の二台だったのかも覚えていないが、一台が白黒、もう一台がカラーのフィルムを入れていたような気がする。

 一台のカメラは、その当時の若造が持つにはかなり上質な、兄のおさがり一眼レフだった。

 で、時間もないことからすぐに雪の中へと足を入れていくが、そこからの数十メートルは格闘に近いほどのツボ足歩きとなった。膝下までしかない長靴の中に、容赦なく雪が入ってくる。すぐに雪は靴の中でやや固めのシャーベット状になっていった。

 そして、ほぼカンペキな居直り状況がしばらく続いていた中、地面が平らになって雪も少なくなった視線の先に、藁で葺かれた炭焼き小屋が見えたのだった。

 ボクは思わずオオッと小さく声を上げた(と思う、いつもそうしていたから)。しかし、ちょっと様子が怪しい。藁葺きだが、屋根にはたしかにトタンが掛けられている。

 何を考えたかは覚えていないが、とにかくトタンが見えないようにと撮影したことだけは確かだった。

 ボクはそこで炭を焼いている人には声もかけず、離れたところからカメラを構え何枚も写真を撮った。三十六枚撮りのフィルム二本くらいは撮ったと思う。撮影場所を変えるのにも苦労したが、そこまでの道のりを思えば、大したことではなかった。

 そして、無事、トタン葺きではなく藁葺き(一部トタン掛け)の炭焼き小屋写真を撮ることができたのだった。

 まだ日は短く、帰り道はカンペキに夜になった。

 翌日、会社のすぐ近所にあったお抱え写真屋さんから写真が上がってくると、勇んで市役所へと出向く。当時、香林坊にあった会社からは市役所まで徒歩五分くらい。

 いやア、ご苦労さんやったねえと笑って迎えられた。トタンの話は軽くクリア。が、ここでもまた問題が発生した。

 写真に写っている炭焼きのおじさんの咥(くわ)えタバコに、なんとフィルターが写っていた……

 戦後間もない頃には、フィルター付きのタバコはなかったという話になったのだ。

 気が付かなかったというのが本音だったが、そこまでは普通いいのでは……と、一応言い訳などもした。

 そして、タバコのフィルター部分は修正して使うという単純明快な処置で了解を得たのだ。小屋そのものは当時からあったものだから、写真の趣旨としては正しい?ということなのでもある。

 かくして、写真は何事もなかったかのようにパネルの中に納められ展示された。アングルとしても、なかなかいいのではあるまいか…と、思えるほどだった…?

 それから後、何度も数えきれないほど旧柳田村に出かけたり、村を通過したりしたが、その場所はわからないままだった。このエピソードもかなり風化していた。

  金沢の話から、旧柳田村の話へと発展(?)したが、この時のこの仕事がボクのその後の文化事業分野に道をつけた。金沢市の担当の方も、炭焼き小屋のエピソードについてはその後もよく口にされていた。若かったから自分では意識していなかったが、それは間違いないだろう。

 最近、金沢にはあまり関心が生まれないみたいなことを書いたが、たぶん仕事として捉えたときにもこうした面白みを感じなくなったせいだろう。

 そういうことにしておくが、まだまだドラマの生まれそうな場所もいっぱいあるような気がする。もちろん自分の次元での話だが。

 いつもクロコであり、ウラカタであった身としては、そこまでが精いっぱいなのである………

 

 


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