冬枯れ


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 季節がどんどん既成の感覚を壊し始めた。

 夏はまだ、〝暑い〟を〝物凄く暑い〟に変えているだけで、寒くなっているわけではない。

 だが、冬はたまに厳しい寒さをもたらすこともあるが、このところ平均すると〝寒い〟とあるべきところを〝暖かい〟に変えたりしている。

 自分なりの感覚の中にも小さな変化がもたらされている。

 そのひとつが「冬枯れ」のイメージだ。

 冬枯れという言葉の響きと、はっきりとはしないが、冬枯れという言葉に形容される風景が気に入っていた。

 それは自分なりの解釈というか、感覚の中だけの偏見なのかもしれないが、雪と共に冬枯れがあったからだ。

 ボクの中にある冬枯れは、秋が終わって冬に入っていくときだけの空気感ではない。

 どちらかと言えば、冬にしっかりと雪が降り、その雪が融けたあとに再び出てくる風景や空気感の方が、本当の冬枯れだというイメージがある。

 だから、秋が終わったら冬が来るのではなく、秋が終わり、雪が降り積もって初めて冬が来るという感覚が強いのである。

 自分の中の冬枯れという印象を初めて認識したのは、三月の初めに長野県・姥捨に行った時だ。

 本格的な山から遠のき、誰もいない山里や山村歩きへと下ったニンゲンだが、そういう〝情景〟にはもともと敏感だった。そして、姥捨はそうした情緒に訴える冬枯れそのものをしっかりと見せてくれた場所だった。

 もの寂しい冬の風景という印象が、高台から姥捨を見た時すぐに浮かんだ。

 残雪があった。情景という言葉が、冬枯れには合うと思った。

 秋から冬に移り、草木の枯れた草原や田園がより一層無機質に見えていく。

 さらに雪が冬そのものの情景をつくり、そして、その雪が消えた後に、もう一段深い風景への感情が生まれてくる。それが自分なりの「冬枯れの情景」だ。

 しかし、今年の冬枯れは、秋の終わりからあまり変化を見せずにいた。

 それどころか、枯れた草木が生き生きとして見えてくるような感覚もあった。

 山吹色の雑草たちが輝いて見える。裸木たちもそのアバンギャルドさに磨きがかかって、凛々しくもあった。

 そして、いつもと同じような風景を目にしていながら、自分の考える冬枯れとは何かが違っているということに気が付いたのは、ようやく雪らしきものが、気持ち程度に降ってくる直前のことだ。

 北国とか雪国と呼ばれている土地へ行っても、暖冬だ、雪がないという話ばかりで、人々はだんだん雪のない不安を語るようになってきた。

 地球温暖化などという大儀な話を背景に語ることなどできないが、冬枯れに対する自分本位の感覚すらも、冬の寒さや冷たさ、そして何よりも雪そのものの存在を大きくする。

 今、定期的に利用する信越の山裾を走る列車も、雪煙をまき散らすほどではなく、車窓の風景も物足りない。

 もうすぐ二月も半分ほどになる。冬の時間が少なくなる。

 ボクの中の冬枯れは、言葉どおりの寂しいものになりそうな気がしている………


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