自分の葬式に流す曲
今年も「金澤ジャズストリート」は遠い存在で終わった。
連休初日の真昼間から、尾山町の「穆然Bokunen」でコルトレーンとドルフィーを聴いたら、もうどうでもよくなった。
今年は渡辺貞夫、山下洋輔、坂田明、それにスガダイローなど、昔よく聴きに行っていた人や、最近よく聴くようになった人などが来ていて、少しは関心があった。
しかし、わざわざ出かけるといった気持ちに至らないまま、穆然のスーパーサウンドで聴いたコルトレーンとドルフィーのライブ盤が十分に満たしてくれたのだった。
いきなり寂しい話だが、この夏、身近にいた60代のまだ若い先輩たちがこの世を去っていた。
中には、音楽をやっていた人もいて、その葬儀の会場に流れる音楽がとても印象に残った。
通夜に出る機会が二ヶ月間に十回近くあると、そんなことに敏感になったりもする。
そして、ついに自分の時には何を流すかにまで考えが及ぶようになると、読経の響きさえも意識から遠のいていくのだ。
実は通夜の会場に流す音楽のことを考える前に、遺影に関する話も以前に聞いていた。
お世話になっている方の奥さんが亡くなった時、その遺影が奥さんの決めていた写真であったという話を聞いたのだ。
奥さんは定期的に写真を撮ってもらっていて、それらは遺影用だったという。
さらに祭壇には自分が指定した花が飾られ、とても個性的な雰囲気を演出していた。
ニンゲン、いつ死ぬか分からない。
それから後、これから撮る写真はいつか遺影になると思うようになった。
だから、最近では、山で長女に写真を撮ってもらう時でも、「遺影にするかも知れんから、しっかり撮れよ」と言ったりする。
それもかなり本気で。
そして、音楽だ。
もう亡くなってから十年以上が経つ、YORKのマスター・奥井進サンの葬儀の時には、追悼のCDが作られ、その中の曲が会場に流された。
始まる前の焼香の時や出棺の時には、やはりそれなりの音量で流すのがいいが、奥井サンの時はそれがとても効果的でいい感じだった……と聞いた。
実は裏方をやっていたので、会場には出られなかったのだが、曲も演奏ももともと素晴らしかったのだ。
勿体ぶってきたが、今考えている自分の曲は、コルトレーンの「I want to talk about you」だ。
君のことを語りたい…… 自分のことを語ってくれるヒトビトが、それなりに来てくれたらいいなという思いもあるが、やはりコルトレーンの演奏が好きだからだ。
特にスタジオ録音より、50年ほど前のニューポート・ジャズフェスティバルでの豪放なライブ録音がいい。
一応、長女にもその曲を聴かせ伝えたが、CDに入れておいてと至って事務的な返事だった。
本当は、自分が十代半ばでジャズと出合った同じコルトレーンの「My favorite things」をやってほしいのだが、あれは烈しすぎて遺族も参列者も引いてしまうだろう。
ちなみに前の曲もこっちの曲も、同じ野外でのライブ録音だ。
前者は一応バラードなのだが、コルトレーンをモノクロ映像で初めて見た時、とてもバラード演奏とは思えないほどに烈しく吹きまくっている光景に感動した。
今ではオシャレなお店なんぞで流されているコルトレーンのバラードだが、当時、カルテットはダークスーツにネクタイで決めながら、吹き出る汗を拭こうともせず熱く煮えたぎっていたのだ。
そんなわけで(?)、今のところこの路線に落ち着きそうである。
それで、一曲じゃもたないから、もう一曲と言われたら、「Violets for your furs」。
邦題があって、「コートにすみれを」という同じくコルトレーンのバラードなのだが、こちらはスタジオでの素朴な演奏で、これも好きな曲だ。
ただ、最初の曲との繋がりで言えば、ちょっとテンションが異なるかも知れない。
しかし、この曲はピアノのレッド・ガーランドもよくて、通夜にはぴったり(?)なのである。
こんなことを考えていると、早く自分の番が来ないかなあと楽しみにしている自分に気付いたりする。
そして、現実に戻ると、これから本格的に歯の治療に入るのに今死んだのでは勿体ないないではないかとも考える。
そして、さらに思うのは、その場の臨場感を自分自身が味わえないのではないかという侘しさというか、怒りみたいなもの、いや虚しさか…… とにかくそういうものだ。
仮に棺桶の中でその音楽を聴いているにしても、その時の自分にはどういう感情が宿っているのだろう。
そんなこともちらりと思ったりしながら、今75年のマイルス「Agarta」を超デカ音で聴いているのである………
あらぬご心配をいただいたりしましたが、
本人は至って軽い、
いつもの調子で書いておりますので、ご安心のほど。