🖋 甲府行き (1) 金沢を出て 車中書き下ろし
3月初めの土曜の朝。北陸新幹線「はくたか」の7号車7番C席にいる。
ちょっと前に動き始めた客車内はかなり空いていて、さっそくいつもの質素なノートを取り出した。つまり、ナマ書きを始めている。
レベルやその他カンペキな違いはあるにせよ、自分が“モノ書き”の端くれであることを実感する時でもある。
耳のアナからアタマの奥の方へと送られてくる、フレッド・ハーシュのピアノの音そのものと、ほぼ即興的なメロディラインがいい感じだ。
ドビュッシーだの何だのと言われても、やはり彼のようなジャズ的ピアニストたちが醸し出す世界が自分にはフィットすることを認識させられる。
外の風景を中央の席から見て、すぐにまた視線を戻す。
本が好きだとか、モノ書きの端くれを自認しつつも、元来、旅は風景をながめることにこそ面白みがあると言ってきた。昼間の道中は、本など読んでいる場合でないとも言っている。
しかし、状況による。今はガラガラの座席に安心しながら、好きなようにペンを走らせていられる。しかも、フリータイム。ネクタイにジャケットなどといういで立ちでもなく、文字どおり自由なのだ。
今、これを読んでくれている人たちには分かるとおり、何を書くというテーマなどなく、こうして成りゆきを文章にしているということそのものが楽しい。
昔よく、山の岩の上や、高原のベンチやテーブルの上、そして原っぱの草むらに腹ばいになって書き流していた時のような、それらに近い感覚だ。
仕事上のこともあるが、実際には自分なりにいろいろと書いておきたいことと、それなりに書いておかなければならないことが山積している。
先週久々に近くの山里から奥の里山を歩いてきた、ああいうことも早めに書き記しておきたい。
よくある出来事などは、いつでも書けるという妙な安心感からか放りっぱなしになっていく。そんなことだから、まとまったものが書けなくなっているのだと、“こんなもの”を書きながら嘆いているのも実に情けない話だ。
写真もだんだんスマートフォンで済ませてしまうようになっているし、残された?人生を思うと、これらは憂慮すべきことである。いったい何をしているのだ、N居よ……
ところで、今日はこれから新幹線で長野まで行き、長野から篠ノ井線で塩尻に出て、甲府へと向かう。
塩尻から甲府へは完全に各駅停車だ。
実は一年前にも全く同じルートで、甲府の先の勝沼まで行った。一日違い。今年の方が一日早いのかな……
中央本線の窓外の風景は、八ヶ岳や甲斐駒、北岳などの南アルプスの山容によって、ボクにとってのすべてが構成されていると言っていい。
というわけで、当然話はこの先、断片的に続くはずである……
昨年見た甲斐駒の威容は、各駅停車の窓外ならではのものだった。
ゆったりとした時間の流れを、甲斐駒の微動だにしない姿(当たり前だが)が一段と明確に教えてくれたような気がした。
もちろん、三月とは思えないほどの激しく快い青空も見事だった。果たして今日はどうだろうか……?
新幹線はようやく最初の停車駅・新高岡に着きそうな辺りであるが、想像は、はるか彼方に富んでいる……