山旅の歴史も面白い


100年前…

 年末の金沢駅は予想していたほどの混雑ではなかった。帰省する次女を迎えに来たのだが、駅に着いた途端、バスが20分ほど遅れているらしいとメールが入ってくる。

 少し荒れ気味の天候だった分、ちょっとは覚悟してきたのだが20分は長い。何しろ到着予定の時間にもまだ10分ほど達していないのだ。

 こうなると行くところはコーヒー屋さんしかない。ただ、ぼんやりとコーヒーを飲んでばかりではつまらないので、その前にコーヒー屋さんでの時間を有効に過ごすための本が必要だ。

 幸いにも金沢駅の商業ゾーンには本屋さんがある。すぐにそこへと向かった。

 意外とこういう時にいい本との出会いがあったりする。思惑どおり文庫のコーナーに向かって行くと、すぐに平置きになった一冊の本が目に飛び込んできた。

 『百年前の山を旅する』。タイトルも装丁もよかったのは言うまでもなく、中をパラパラめくってみると、さらに確信が深まった。すぐに決めた。

 出張の電車に乗る前とか、都会の街中のように歩いている最中の書店立ち寄りには、いい本との出会いがあったりするのだ。気持ちが、短時間でいい本との出会いを…と緊張するのかも知れない。

 コーヒー屋さんに入って、すぐにページをめくった。予想どおりなかなか面白い。著者は、山岳雑誌「岳人」の編集に携わっていたという服部文祥という人なのだが、ボクがかつて山に足を向けるようになった動機に近いものを持ち合わせているかのように感じた。もちろん、服部氏はK2などに登頂した凄い山岳家でもあるので、レベルは全く違う。

 それほど大袈裟な話でもないが、ボクは20代の中頃から長野や山梨などの高原地帯へ出かけるようになり、その中でも特に上高地が気に入って以降は、その隅々まで歩き尽くすくらいの頻度で出かけていた。

 それ以前の旅の基本は主に歴史だったのだが、それに自然の美しさや生活感みたいなものが加わっていき、いつの間にか歴史と自然とか、歴史と自然と民俗とか、何だかそういった要素が自分の興味の主流になっていったのだ。

 どこかでも同じことを書いたが、そうなってくると、例えば上高地の歴史みたいなことに好奇心が向くようになり、旧松本藩の杣人たちや梓川のイワナ採りの人たちの話なんかが気になり始め、そのうち槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の話や、この本にも出てくる上条嘉門次やその他の山案内人たちの話など興味の輪は無制限に広がっていった。

 そして、そのまま自分自身が山に入るようにもなっていったのだ。

 この本では、日本の山岳紀行の草分けとも言える田部重治が明治の頃に辿った稜線や、日本アルプスを世界に紹介した有名なウォルター・ウエストン、そして彼を案内した上条嘉門次の登山ルートなどを、今の時代に体験しながら、自然と人間、過去と現代などといった視点から考察がされている。

 同じ装備で同じものを食しながら、その困難さなどを記しているが、現代人である自分が便利というものを得た上で感じていることなどを力を抜きつつ書いているのがいい。昔の人は強かったということだが、現代人には必要がなくなった当時の苦労を振り返ることもなくなり、その弱さに気が付く機会も失っていったということか…と思ったりする。

 福井の小浜と京都を結んだ今の「鯖街道」の、原形の山道を歩くというのも興味深くて面白かった。ボクもよく知っているが、鯖街道なる名称は、ついこの前出来たもので歴史的には存在しない。

 たしかに、鯖などを運んだ道らしいが、ボクは「朽木(くつぎ)街道」という名前で認識していて、何度も書いているが、そのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』でも詳しく紹介されていた。

 今の時代の著者が、昔のように鯖の入った籠を背に担ぎ、一昼夜で京都に辿り着けるかという試みはそれほどの成果を見なかったみたいだが、当時と同じ服装で、しかも当時のルートを歩くという設定など、多少バカバカしさもあるがそれでも楽しいのだ。

 読書がいよいよ佳境に入ってきたところで、バスの到着時間となった。続きがますます楽しみになってきたのだが、実は師走からの読書は徐々に乱読傾向に偏っていき、この本もまだ完読には至っていない。断片的に読み続けている。数冊同時進行の中で、雪解け前には完読となるのであろう……


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です