🖋 五十嶋博文さんとの今年最後のひととき


北アルプス薬師岳、太郎平小屋には一年に数回は訪れていた時期がある。小屋のマスターである五十嶋博文さんを訪ね、ご自宅がある立山山麓にもよく出かけていた。

山に登れる機会が減ると、立山山麓を訪れ五十嶋さんとお会いするのが楽しみになった。五十嶋さんはいつも笑顔で迎えてくれ、ときには奥さん手作りの美味しいお昼ごはんもご馳走になったりした。この文章はもう何年も前の初冬に訪れた際のものだ。

越後湯沢で上越新幹線からほくほく線に乗り換えると、空が少しずつ灰色に変化していった。

二日間いた東京は晴れていた。寒くなりそうとは言っていたが、やはりまだそれほどでもない。それに晴れていれば、それなりに気分は明るくいられる。

電車が進むにつれ、空はますます暗くなり、学生時代の冬の帰省時、いつもそんな体験をしていたのを思い出した。別にそのことで損をしているとかは思わなかったが、それが故郷へ帰ることのひとつの習わしのようであり、窓外の吹雪の風景などは、気持ちも引き締まる思いがした。

上越の山々はすでに白く薄化粧を始めている。少し前だったらもう今頃はもっと雪が積もっていただろうにと思うが、この景色も悪くないと窓の外に何度も目をやったりしていた。

🖋 五十嶋博文さんとの今年最後のひととき


12月の始め、久しぶりに北アルプス・太郎平小屋の五十嶋博文マスターを訪ねていた。もちろん山小屋は今閉じられていて、立山山麓の店を拠点に相変わらず忙しい毎日を過ごされている。素晴らしく天気のいい午後の遅い時間で、連絡せずに行ったのだが、五十嶋さんは事務所とお店がいっしょになったご自宅にいらっしゃった。

奥さんがたい焼きと美味いお茶を淹れてくださり、その素朴な組み合わせに唸っていると、奥からマスター(五十嶋さんは若い頃から、そう呼ばれている)が出てこられた。「おお、ナカイさん、久しぶりだねえ…」

今年最後に山を下りてから、もう一ヶ月半くらいだろうか。この時期のマスターの顔はいつも穏やかに見える。事務所のソファに向かい合って座っているだけで、大きな安心みたいなものが生まれる。初冬ののどかな立山山麓の風景の中で、マスターといられる時間というのが貴重で嬉しい。

🖋 五十嶋博文さんとの今年最後のひととき


マスターとはじめてお会いしたのはまだ駆け出しの山好き青年の頃で、やたらと無邪気に山に入ろうとしていた。しかし、前にも書いたが、ボクの山デビューは剣岳でさんざんな目に遭い、決して将来に期待の持てるものではなかった。そして、次に出かけたのが、マスターの太郎平小屋をベースにする薬師岳だったのだが、それも大雨に降られて登頂できず、小屋で一日停滞して、そのまま下山するという有り様だった。

当時から、五十嶋博文という北アルプスの名物おやじの存在を知っていた。初めて太郎平小屋の中で、マスターと面と向かったとき、必要以上に緊張したのを今でもはっきりと覚えている。その時は当然特に話すこともなく、ただ、こんにちはと普通のあいさつをしたに過ぎない。

しかし、それから後、毎年のように薬師岳へ行くようになり、しかも地元の町づくりのことでマスターと仕事ができるという幸運にも恵まれて、急激にその距離が縮まった。毎年秋の閉山山行のことを書いたエッセイは、専門誌『山と渓谷』に掲載され、マスターにも喜んでもらえた。

太郎平小屋を中心としたエリアのパンフレットも、特に2作目にはチカラを入れた。ガイドを作る仕事はとても楽しかった。特に最初にある書いたマスターのあいさつ文にあたる文章は、自分でもとても気に入っていた。

そうこうしているうちに、太郎平小屋のパンフレットやロッジのパンフレット、絵はがきやTシャツなど、直接多くの企画に参画させていただくようにもなっていった。もちろん手弁当の仕事だ。現在使われているパンフレットは、ボクの写真と文章、そして地図などをボク自身でデザインしたものだ。一部写真の提供を受けているが、自分で山に入り撮影したものが多い。撮影で山に入った時、長く履いてきた登山ブーツの底がはがれ、マスターの長靴を借りて歩き回ったこともある。

マスターが奥から一冊の本を持ってこられた。マスターのお兄さんである五十嶋一晃氏が書かれた『山案内人 宇治長次郎』という本だった。長次郎とは、ご存じ『剣岳・点の記』で測量隊の登頂をサポートした山案内人だ。本には、地元出身で優れた山岳技術と人間性を誇った長次郎のことが、実に詳しく記されている。特に癖のある人が多かったという山案内人の中で、長次郎については悪く書かれた資料が全く残っていないらしい。それが安心して頼める山案内人としての長次郎の評価になっていたと、マスターも話しておられた。

一晃氏とは、数年前に現在のパンフレットの撮影で山に入っていたとき、太郎平小屋のさらに奥になる薬師沢小屋で出会った。ついでに書くと、さらに奥にある高天原山荘(たかまがはら)、そしてもうひとつスゴ乗越小屋という四つの山小屋がマスターの経営下にある。北アルプスのド真ん中の、奥黒部を含む静かな一帯がエリアなのだ。

ボクは初めてだったのだが、一晃氏のことを“お兄さん”と呼ばせていただいた。お兄さんは、太郎の小屋の誕生の時、建設資材を背中に担ぎ、裸足で麓から登ったという人だ(下の写真)。当時の写真は、パンフレットの冒頭部にも使わせていただいている。法政大学山岳部OBで、卒業後は製薬会社に入られ、山岳部に所属。最後は取締役として会社を去っておられる。日本山岳会会員でもいらっしゃる。

当然だが、山のことは詳しい。厳しさも並はずれていて、ボクがお会いした時も、これからの山小屋のあり方や山との接し方など熱く語っておられた。特に女性に優しい山小屋にならないとダメだと力説されていたのを覚えている。今はシーズンになると、山に入り小屋の仕事を手伝っておられるらしい。

それにしても、この本の内容は実に綿密な記録の集大成だ。まだすべてを読み尽くしていないが、興味のあるところから先に読んでいる。山の記録と言うのは、さまざまな想像の中で楽しめる。街の記録とは違い、その場所に簡単に行けないからこそ、面白味が増す。

🖋 五十嶋博文さんとの今年最後のひととき


半世紀の歴史を通り越した太郎平小屋だが、マスターでは『50年史』を出した後、これからは毎年その年のこと記した冊子を出していこうとの思いもあるようだった。もちろんそういうことなら、お手伝いさせていただきますと答えた。

2年前、会社の行事でマスターとのトークセッションを企画し、ボクがナビゲーターとなってやらせていただいた。

山小屋のオヤジさんとして人の命や安全をどう考えるかという、堅苦しいテーマだったが、マスターが若くして経験された、薬師岳での愛知大学生遭難事故(昭和38年冬に起きた山岳史上最大の事故で、死者13名)をとおして、山小屋のオヤジとはどうあるべきかを語っていただいた。

その時のことが、マスターも好印象で残っているらしく、ああいうことを他の小屋の人たちも入れてやりたいと言われた。そんな企画も頼まれた。実はボクも、是非やってみたいと考えてきた。素朴な人たちの、素朴な話を、ただひたすら素朴に聞く。そこから生まれてくるものは、厳しくもやさしい、ニンゲンと自然とのドラマだ。むずかしいことを考える必要はない。マスターたちに、ただのんびりと語ってもらうことがすべてだ。

それにしても、季節としては暖かく、のどかな立山山麓の夕方だった。マスターにお会いする時は、いつも帰り際で物足りない気持ちになってしまう。もちろん自分自身に対してで、もっともっといろんな話がしたいと思ってしまうのだ。

外はまだまだ肌寒さを感じるというほどでもなかった。

来年は忙しくなりそうですね・・・。ボクがそう言うと、そうやねと言ってマスターが笑う。

立山山麓はすっかり夕焼けに染まっていた。

帰りは急ぎ足になったが、岩肌を赤くした初冬の剣岳の姿だけは、しっかり目に焼き付けておこうと、何度も振り返っていたのだ・・・・


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