カテゴリー別アーカイブ: 自主イベント編

マイルス・デイビス没後20年特別番組

 

昨年12月に書いた『マイルスから始まった…』( http://htbt.jp/?p=1730 )。金沢で唯一行われたマイルス・デイビスのコンサートを再確認しようとしたイベントの話だが、そのイベントの中で貴重な資料として提供してもらった映像がテレビで再生・再演された。

マイルス・デイビスが他界してから9月28日で没後20年となることの記念番組で、9月30日の深夜というか、日付は10月1日になっていたが、NHK総合テレビで再放送されたのだ。

番組名は「マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973」。深夜1時40分からのスタートだったので録画し、翌日の昼飯時、インスタントラーメンなどを食べたりしながらじっくりと見た。

ところで最近、チャンポン麺に乾燥したキャベツが入ったやつをよく食べている。それにモヤシをドサッと入れて野菜ラーメンらしくすると、塩味の美味いラーメンになる。モヤシは「雪国もやし」というやつを使う。なにしろパッケージのロゴの上に、「高い理念」と記されていて、その仰々しさが心を揺さぶった。高い理念・・・マイルスに通じるではないか?

話はそれたが、放送されたものは、73年6月20日、東京新宿厚生年金会館ホールでのコンサート。約10日後の7月1日にNHKの「世界の音楽」という番組で放送された。そして、その7月1日こそが、金沢公演の日だった。だから当夜、金沢市観光会館の最前列ど真ん中で、マイルスをかじり尽くすように見ていたボクはこの番組を見ていない。こんな番組があったことも知らなかった。

部屋に当時の膨大な資料(イベント用に収集した)が置いてある。探すのが面倒だからやめておくが、後の音楽展開の起点となっていったエレクトリック・マイルスの全盛期とも言うべき当時のコンサートには賛否両論があり、ボクは生意気にも後者の方に属していた。そのあたりのことやイベントのエピソードなどは『マイルスから始まった…』で詳しく書いた。

それから30年後に、かつて金沢公演に近い音源を求め再現を試みるという無謀なイベントを企画し、かなり入れ込んでいたボクとしては、このライブ映像は超宝物に近い存在だったのだが、実は8年前すでに入手していたのでもある。名古屋のジャズ愛好家の方からもらっていた。イベントの企画に共鳴していただいたのだ。

金沢での伝説のコンサートは、実はこの頃のマイルスに録音がなく、微妙な記憶に留まっていた。その全貌を伝えてくれたのが、このDVD(NHKの番組映像)だったというわけだ。それまでにも海賊盤などで、時期的に近い演奏を確認していたが、映像は完璧にそれを超えるものを伝えてくれた。

金沢公演の新聞広告もあり、後日の夕刊に掲載されたコンサート評記事もあった。コンサート評の筆者は故奥井進氏だ。そして、コンサートの写真は北國新聞から買った。その他、当夜観光会館に乗りこんだマイルスファンが撮った写真も多く提供してもらい、それらの複写もさせてもらった。それらの写真は、金沢市尾山町のジャズクラブ「Bokunen」などに上げた。店内で見ることが出来る。

中居のコンサート評はというと、前にも書いたが決してよくはなかった。19歳のジャズリスナーは、その音量とロックビートに我を失い、最前列真正面に陣取っていながら、ただただマイルスのカッコよさに圧倒されていただけだった。

しかし、8年前、いただいたDVDを見た時、マイルスの額や鼻先から落ちる汗を見て、ボクはかなりハゲしく感動したのを思い出した。そして今回、より鮮明になった画像から、もう一度マイルスの強い意気込みを感じ取った。若いメンバーたちを鼓舞していくコンポーザーとしてのマイルスに、あらためて果てしのない凄さを感じた。

当時、ジャズ的匂いは、サックスのデイブ・リーブマンにしか感じなかった青臭いボクは、その後のジャズ的マイルスへの再認識へと進む。

 ボクの中には、この時代以降、ジャズはジャズ的ではなくなったという認識がある。つまり触発される音楽ではなくなり、現在に至っては癒やし音楽みたいになってしまったと感じている。そういう性格も当然発祥からあったし、それもそれなりに悪くないのだが、今も映像を再生させながら、もう40年になろうかとしている時の流れに戸惑っている。

当時のマイルスのサウンドのように、自由なセッションから創り上げていく手法は、ボク自身の仕事やその他物事の進め方にも通じている。こんなことをマイルスから学んだなどとは思っていないが、どこかにそんな気配を感じて嬉しくもなる。いい歳になっても、こういう感覚は変わらないのだ・・・

 ※写真一部 NHKテレビ画面より・・・

主計町の春

 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……

ジャズイベント/30th-MILES in KANAZAWA

部屋の整理をしていたら、懐かしいものが出てきた。2002年12月21日の日付が記されたカセットテープ。

当時2年がかりでやっていた自主企画・自主運営イベントを紹介するNHK-FMの録音テープだ。翌年の本番に向けたイベントの準備などを追って、ボクを取材してくれていたNHK金沢放送局のT野アナともう一人女性アナ(名前忘れた)の番組に、ボクがゲスト出演し30分ほど語っている。土曜午後の東海北陸向けの特別番組で、録音してくれたのは、金沢・柿木畠、喫茶「ヒッコリー」のマスター水野弘一さんだ。

 ボクが企画していたのは、ジャズ界のリーダー、マイルス・デイビスが1973年7月1日に金沢で行ったコンサートを振り返り、常にジャズシーンをリードしてきたマイルスが、当時金沢でどのような演奏をしていたのかを再確認しよう!というイベントだった。

簡単に書いてしまったが、たぶん、ジャズのことなんか知らないの…という人には、どうでもいい話だろうし、自分でもこのことをきちんと伝えることのむずかしさは骨の髄まで痛感している。最近ジャズが好きになったの…という人にも全く解りづらいだろう。つまり、ボクはそんなことをやろうとしていた。

30年前のコンサートを再現するようなイベントというと、誰でもコピーバンドを入れたらいいと思うに違いない。しかし、コピーバンドではダメだった。マイルス・デイビスそのものでないとダメだった。しかし、マイルスはもうすでにこの世にいない。もし生きていたとしても、もう演奏スタイルは違うし、それに根本的にボクがマイルスを金沢へ呼ぶなんてことは不可能だった。

で、どうするかと言うと、残されたレコードやCDをとおして、当時の演奏を再確認するしかないのだが、1973年の日本公演ツアーは“正規”録音がされていなかった。だから、その前後の録音モノから金沢での演奏スタイルを想像するしかなかった。

話は、ますますややこしくなる…… なんで、録音が残されていないか? そんなこと知るか…と、ここまできて開き直るのも申し訳ないから、もうちょっと書こう。


マイルス・デイビスというミュージシャンは、とてつもない創造者だった。常に変化し続けていた。マイルスの音楽は、いつも先を行っていて、実験的で批評しにくく、ライブ自体が彼の創造活動になっていて、スタジオでの録音ですらも即興型のライブ形式で出来上がっていた。それも73年あたりでは、もうスタジオでの録音はほとんどなくなっていたのだ。つまり、マイルスはもうステージでの演奏でしか、自分の音楽を表現できなくなっていて、一曲が何十分にも及ぶ演奏で、聴き手にメッセージをぶつけていたと言っていい。ちょっと、一休みしよう…

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マイルスが金沢にやってきた当時、ボクは午前中家の手伝い(アルバイト)をし、午後からは、当時大手町にあった市立図書館で受験勉強に打ち込むという、刑務所で言えば模範囚に値する優良浪人生だった。

余談だが、この頃のボクの切り替えの素早さには、自分でも凄いものを感じていた。アタマを丸刈りにし(といっても、元野球部だったから特に傍目の違和感はなかっただろうが)、裾が閉まった綿パンにTシャツ、素足にサンダル履きというスタイルで、時間をキッチリと配分し毎日を過ごしていた。図書館での勉強スタイルも予備校組よりはるかに効率的にこなしていたし、勉強時間は昼から夕方までと決めていて、帰りにYORKに寄ったりすることは、ボクの中では正しい息抜き兼充電のひとときでもあった。マスターの今は亡き奥井進さんとは、その頃すでに親しくなっていたから、YORKではかなりのんびりできたと言っていい。

      ※コンサートの夜のことを語る奥井さん

実はマイルスのコンサートを振り返る時、奥井さんが地元紙の夕刊に書いたコンサート評の記事がボクにとって貴重な資料となった。当時ボクはジャズがかなり解り始めた頃だったから、マイルスがロック志向に走っていることに大いに不満を持っていた。分かりやすく言うと、ロックはガキの音楽なのに、なぜ偉大なマイルスがロック志向になっているのか…などと、生意気なことを思っていたのだ。実際には、マイルスの演奏スタイルはロックをベースにしたサウンドになってはいたが、そんな安直な解釈だけでは説明できないものだった。さらに高い次元の音楽が創造されていたのだ。

そのことを、われらが奥井さんは見抜いていた。そして、素直にあのコンサートでのマイルスのサウンドに驚いたことを新聞に書いていた。

何のMCもないオープニング。緞帳が上がるのと同時に始まった演奏。大音量が音の風になって、最前列ど真ん中にいたボクの顔面にぶち当たり吹き抜けていく。一気に緊張を強いられたボクは、そのまま金縛りにあったかのようにして時間を忘れていた。

ボクはかつての感触を蘇らせた。奥井さんのコンサート評から、たしかにそうだったと振り返ることができた。

奥井さんは、ボクが企画したイベントのプレの第1回目に出演してくれて、ボクとトークセッションをやってくれている。二人で語ると、普段はほとんど漫才みたいになるのだが、この時だけは妙に真面目にやっていて、後で可笑しくなったのを覚えている。プレの2回目にも、観客席の真ん中に腰を据えて、金沢のジャズシーンの中心人物らしく、ボクのやっていることを見守ってくれていた。

しかし、本番まであと3週間ほどという日の夕刻だった。

2003年6月17日、ボクを残して奥井さんは帰らぬ人となってしまった。食道ガンだった。“絶対、本番には会場に来てや”“行けるか、分からんぞ”そんな会話が最後になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりの話は、73年7月初めからの朝日新聞金沢版の『金沢アンダンテ』というコーナーに一週間連載で寄稿した。奥井さんの死とボクのこのイベントへの思いは、とにかく頑張っていた自分の中で、深く繋がっていたと言っていい。

カセットテープの中では、ボクは30年前のコンサートのことを話している。そして、その再体験をしようとするイベントについても、その目的ややり方などについて語っている。ついでに書いておくが、我ながらいい声だ。女性アナウンサーからもそう言ってもらえた。

30年前の音を再現しようという試みは、想像していた以上に広く多くの人たちの共感を呼んだみたいだった。自分自身でも努力したが、1973年7月初め前後のマイルス音楽が録音された、俗にいう“海賊版”CDなどが手に入ってきた。当時のコンサートの写真(隠し撮り)も出てきた。凄かったのは、名古屋のジャズクラブ(店ではなく、愛好家の集まり)の方から企画を評価していただき、当時のライブ映像が入ったDVDや写真、パンフレット類などが届いたことだった。

YORKの仲間たちのネットワークも強力で、手伝ってくれるメンバーも増えてきていた。そして、なんといってもイベントのもうひとつの目玉になったのが、スーパーオーディオの存在だった。マイルスの圧倒的な音を再現するには、生半可なオーディオでは不十分で、しかもいいオーディオを揃えると言っても物理的に不可能なことだった。

会場は、閉館となった映画館を改造して運営し始めていた「香林坊ハーバー」。実はボクのイベントが本格的な使い始めと言ってもよかった。不備だらけだった。

映画館にはもともとスピーカーがある。しかも「ALTEC」というとてつもなく高級メーカーのものが残されていた。しかし、ボクのイベントでは、それをはるかに凌ぐスーパーオーディオが準備された。高岡にある「audio shop abc」のオーナー飴谷太さんが、その名の通りの太っ腹で無料レンタルしてくれたのだ。メーカーはマッキントッシュ。総額2000万は超えるであろうマッキントッシュのスーパーな機材がステージに並んだ。

『マイルスを訊(き)け』という、マイルス・デイビスのバイブルとも言える本の著者中山康樹氏からも激励と、金沢公演での裏話が詰まった長いメールをいただいた。

さらに、本番の数日前、今度は全国版のNHKラジオ番組でインタビューを受け、それが放送されると、全国そして、アメリカ在住の日本人ジャズファンの方からも電話が入った。みな、やろうとしていることに驚いていると異口同音に話してくれた。

会場のロビーには、写真や当時のコンサートグッズなどが展示され、受付を担当してくれる仲間たちがいた。缶ビールなどの飲み物も出した。入場は無料だったが、協力金みたいな名目で飲み物を買ってもらった。飲み物は家から持ってきてくれたものも含めて、カンパされたものばかりだった。

本番は、2003年の7月5,6日、二日間にわたって行われた。初日がマイルスの名盤を時間軸で流し、特にトークは入れずにただひたすら聴くという趣向にした。二日目はボクがステージに立ち、マイルス音楽の遍歴やコンサートのことなどを話した。時効だから言うが、ステージでは突発的に、金沢へ来る一週間ほど前の新宿厚生年金ホールでの映像も流した。これにはみなも唖然とした表情で見入っていた。

香林坊ハーバーは、前年のプレも含めてのべ4日使ったが、定員60名のところに、毎日160名ほどの人たちが来てくれた。皆、こんなイベントがなぜできたのかと不思議がっていた。

ボク自身も実に不思議な感覚だった。もっと注目されてもいいんじゃないかとも思ったりしたが、このあたりが自分自身のキャパだろうと納得していた。

 書くのを忘れていたが、イベントのタイトルは「30th memorial- MILES DAVIS  in KANAZAWA」。他人から見ればどうでもいいようなことに没頭し、自ら企画して自ら制作して、自ら進行運営をやってしまった、自分の原点にあったようなイベントだった。そして、奥井進という、ボクにとっては何だか分からないけども重要なニンゲンの存在を失うことへの恐ろしさから、逃避するために一生懸命になっていた日々でもあった…のかも知れない。

この後、ボクはジャズを中心にしたいくつかのイベントを企画した。その中で多くの人たちと出会った。ただ、今、ボクの中にある冷め切らない熱は、あのマイルスの時に温められたものに違いないと思っている……

 

マイルスの話は以下にも。

マイルス・デイビス没後20年特別番組

“ I Want MILES ”のとき

秋のはじめのジャズ雑話-1

「 JAZZ AT 紺屋坂 vol2 」スナップ集

熱演する出演者たち。みな、なかなかいい顔してる。

■金沢工業大学軽音楽部「MAJO」

■金沢ラテンジャズオーケストラ

■金沢市立兼六中学校吹奏楽部

■石川県立工業高校吹奏楽部

■デキシー・ユニオン・ジャズ・バンド

■アイユール

 

 

 

 

 

「 JAZZ AT 紺屋坂 (2) ちょい柔らかい話編 」

 

 「JAZZ AT 紺屋坂vol.2」の初日。

 ボクはそれとはまったく関係ない用事で朝の四時半に起き、五時過ぎにはクルマを走らせていた。行き先は新潟。前日は金沢で用事があり、どうしても出発を当日の朝にした。余計な疲労がたまることは分かっていたが仕方なかった。

 そう言えば、前夜のメールのやり取りで、体調を悪くしているYに大事にしろとメッセージを送っておいた。他人のこと言えた状況ではないくせに。

 とまあ、そんなことで一日は始まったが、新潟に一時間半ほどいて、すぐにトンボ帰りした。金沢に戻ったのが二時半頃。会社にクルマを置き、会場の紺屋坂まで歩く間に、「金沢ジャズストリート」の街なかライブをちらっと聴いたが、ゆっくりもしていられず、慌ただしい中、会場入りした。昼飯は結局食えず。朝もコンビニの乾いた菓子パン二個だけで、情けなさは果てしなかった。

 四時から初日の本番。出るのはまず、兼六中学校吹奏楽部に県立工業高校吹奏楽部という二回目を迎えた「JAZZ AT 紺屋坂」の、ある意味での目玉だ。ジャズとしての演奏内容は期待していないが、とにかく一回出てもらって、さらに来年も出てもらい、ジャズに目覚めてもらおうという魂胆。両学校側からも“出たい”という強い意欲が感じられ、参加となった。  

 新聞にもこのニュースは大きく取り上げてもらった。前日の取材で自分としては少々言ってることに違和感を持ったりしたが、こうなったら、とことん行こうと決めたのだった。詳しいことは、「JAZZ AT 紺屋坂1 やや固い話編」に書いた。

 その次が、一回目に引き続いてのデキシー・ユニオン・ジャズ・バンドだ。何の心配も要らない完熟オトッつァんバンド。ひたすら“お好きにどうぞ”と告げておいた。初日のトリは、これもまた一回目に引き続いての登場となるアイユール。直接のライブとしては久々だが、こちらも心配無用で、むしろ久々だから楽しみでもあった。

 今回は音響も照明も昨年より質を高め、司会も金沢大学放送研究会に打診。是非やらせてくださいとの要望に応えた。未来のアナウンサーたちの鍛錬の場的匂いをチラつかせ、その初々しさで盛り上げてもらおうとしたのだが、やはり仕込み不足で物足りなかった。次回への課題のひとつだ。

 初日の本番── 兼六中学校は、演奏曲が全くもって完璧にジャズではないという点で、いくら綺麗事を並べても、企画人として、今ひとつ気恥ずかしいものがあった。思わず赤面してしまった、というほどではなかったにしろ、それに近いものがあり、ボクは白クマのようにひたすら会場を右往左往していた。もちろん、これからジャズに目覚めてくれればいいのだが、運動会で演奏するマーチや、トトロの何とかではなあ…… いや、しかし、校長先生はじめ、ご父兄の方々の熱い声援もあって、よいステージであったのは言うまでもない。後日、顧問の先生を訪ねると「来年は必ずジャズの曲をやります」と言ってくれたので、期待していよう。

 二番手の県立工業高校も、総体的には兼六中に似たものがあったが、そこはやはり高校生。より自由な、音楽を楽しむ雰囲気が感じられた。特にラストには、定番中の定番、映画『スイングガールズ』スタイルの『シング・シング・シング』を演ってくれたが、ドラムの女の子(ほとんどメンバーは女子)が元気よくて、聴く側も盛り上がった。ライブ自体の雰囲気も十分理解できただろうから、こちらも来年に期待しよう。

 中高校生たちの出演でよかったのは、聴き手を増やしてくれることだ。本番前にイス席がほぼ満杯状態になるというのは、非常にいいことだ。やはり、スタートはこうでなくてはいけない。しかも、そのまま残ってくれる人も多くいて、なかなかの企画効果であった。

 デキシー・ユニオン・ジャズ・バンドの演奏が始まる頃には、日も暮れ始め、いい雰囲気になってきた。相変わらず息の合ったデキシーランドジャズを聴かせてくれるメンバーの皆さんには、ただただ感嘆するばかり。演奏の上手さはもちろんだが、おしゃべりにも、すべてのパフォーマンスにも、ショーマンシップが満ち満ちている。二日目のパフォーマンスでも聴き手を十分に楽しませてくれた。企画人としては、さまざまな可能性を見出せるバンドで、いろいろと企画の中に充て込んでいきたい存在だ。

 そして、アイユールだ。彼らは、聴くたびに上手くなっているような感じを受ける。リーダーのIさんのギターは言うまでもなく、ボーカルのYさんの歌声は絶対的に個性を増した。Yさん流の、ひとつの世界を作りつつあると感じた。そして、テナーサックス、ベースと絡めた四人編成による演奏スタイルは、かなり完成度を高めているとボクは思ったのだ。

 紺屋坂のジャズライブを象徴する演奏スタイルは、アイユールにあるのかも知れないなあと、ボクは思った。ボクの横で聴いていた商店街関係者の方も、「ナカイさん、いいグループ探してきてくれましたね」と言ってくれた。

 夜になって、「JAZZ AT 紺屋坂」はその魅力を発揮し始めた。会場である「ホテル兼六城下町」の建物、その奥に見える兼六園の森と古い木造建築、ほぼまん丸に近い美形の月も浮かんで、アイユールのアコースティックサウンドと、Yさんのシンプルな歌声がライブに活き活きとした空気を注ぎ込んでいく。何かが見えてきた感じがした…… アイユールも二日目に再登場してくれ、そこでも見事な演奏を聴かせてくれた。

 二日目にはさらに、金沢工大軽音楽部のMAJOというモダンジャズのコンボが参加してくれ、トップを務めてくれた。エレクトリック・ピアノのケーブルか何かを忘れて取りに戻るというハプニングはあったが、何とか本番に間に合った。演奏ははっきり言って発展途上。しかし、意欲がありそうで、チック・コリアのむずかしい曲『スペイン』にチャレンジするなど期待が持てた。来年も声をかけようと思う。

 そして、金沢ラテン・ジャズ・オーケストラ。芸術村で活動している新しいバンドだ。ほとんど練習だけの活動のようだったが、演奏内容はレベルが高く、練習そのものをベースにしている分、技術的にも優れたものがあると感じた。リーダーのアルトサックスやトランペットのソロが印象に残っている。ある意味、デキシー・ユニオンに近いパフォーマンス性も感じられ、これからの付き合いが楽しみになってきた。

 二日間をとおして、天候に恵まれた。特に二日目には雨の心配があり、少しでも雨が落ちてきたら、即中止と決めていたが、ほとんどその心配は無用に終わった。誰が晴らしてくれたんだろう…… とにかく感謝しよう。

 ボクは相変わらず忙しくしていて、打ち上げにも出られなかったが、商店街の人たちは多分満足してくれたと思う。課題も多く見つけられたし、それに向けてボクの仕事も明確になった。ジャズによって人の心が繋がっていくようなイベントになれば凄い、と思う。紺屋坂界隈のヒトビトと、そこに集まるヒトビトに、そのことを伝えていきたい。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、兼六園の紅葉シーズンに合わせてもう一回やる。アイユールに出てもらう。

 その頃には風も冷たくなっているだろうけど、心の少しの部分くらいは温められるだろうと思っている…

「 JAZZ AT 紺屋坂(1) やや硬い話編・・・」

 去年に引き続いて二回目となった「JAZZ AT 紺屋坂」。金沢市の中心部で始まった「金沢ジャズストリート」に合わせて始めたものだ。

 本体である後者のスタート時にも少し関わり、大学ビッグバンドを呼ぶことを提案させてもらったが、初回の大好評の割りには、今年の二回目には主なビッグバンドは参加していなかった。それは多分、東京などの大学ビッグバンドを呼ぶと、人数と距離の関係で経費がかさむからだったのだろう。ボク自身にとっては、母校のビッグバンドの連中と交わした約束は見事に破れていってしまい、大変申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、去年のことでよく理解できたが、やはり、大学ビッグバンドの優秀な連中を集めることは、今風のジャズの息吹を知る上で重要なのではないだろうか?と、ボクは思っている。国際的なジャズイベントを目指すならいざ知らず、国内の、いや県民や市民を対象として、街なかの賑わいを図るという趣旨であれば、わざわざアメリカなどからプロを呼ばなくても、大学生の意気のいいビッグバンドの演奏で十分だ。と言うよりその方が最も適している。

 「ジャズストリート」の話を初めて聞かされた時、金沢は“学都”とか“文化都市”と、自分たちから名乗っているわけだから、ジャズをきちんと勉強するような、そんな環境も作ればどうかとも提案した。それによって、全国で金太郎飴みたいに広がっているジャズなどの音楽イベントに、金沢らしい特色を付けられるのではないかとも思った。

 ところが、答えは“ノー”だった。そんな難しいことはどうでもよくて、普段あまりジャズなど聴く機会のない人たちにも、楽しく聴いてもらい、街に賑わいを作ることが主目的なのだとあらためて聞かされた。

 つまり、ジャズがどういう歴史的背景の中から生まれ、ジャズメンたちがどのようにしてジャズを今日のような最も創造的な音楽(せいぜい80年代までかな?)にまで成長させたかなどについてはどうでもよくて、とにかく街なかで何かやっていれば人が集まって来る── それがジャズだとかと言っておくと、“なんかカッコよさそうでない? 行って見っかいね”といった人たちが寄って来るし、マスコミも騒いで、街なかが賑やかになった、よかった、よかった的に話がまとまる── といった感じだったのだ。

 だからこそ、大学ビッグバンドがよいと、ボクは思ったのだが、どうも“ジャズ的ジャズ”を感じ取れない人たちには、その辺のところが理解されにくいのだと諦めるしかなかった。

 こうなったら、その路線を貫いてやろう。それほど大袈裟な話でもないが、いい年をしてボクは心を決めた。

 「JAZZ AT 紺屋坂」は、そんなボクの思いを背景にして第二回目を迎えたのだ。金沢城兼六園商店会という組織の主催であり、商店街活性化事業のお金を主にして実現しているのだが、こういう時こそ、公私混同型の潜在的能力を有したニンゲンの勝負になるとボクは思っている。そのとおりやっていくための原動力がそこにある。こういう類のイベントに自分が積極的に関わっていくなど、つい一年ほど前まで考えてもみなかった。やりたいという思いは少しあったが、自分自身の徒労ばかり考えていた。しかし、いい助監督との出会いがボクの背中を押した。やれそうな気がしてきた。ボクは一歩前に出ることができ、その勢いのまま歩き始めた。今はもう助監督はいなくなったが、背中にあった支えが外れたのに気が付かないふりをして、とにかくやっている。

 というわけで、ボクはこのイベントをこれから発展させていきたいと考えている。むずかしく考えるのはやめにして、自分自身も試しながら? それなりにやっていく。

 実を言うと、今ちょっと関心を持っているのが、10月10日に明治大学周辺で開催される「お茶の水ジャズ」だ。実行委員会と明治大学が主催し、地元の商店街などが協力している。2008年から始まっているが、イベントとしての質も非常にいいものだと聞いた。しかし、今年こそ行って来ようと計画していたのに、先客があった。関西の学生たちが自主的に企画運営するクラシックの音楽祭に行くことにしてあったのだ。

 東京と金沢ではスケールが違い過ぎるが、「東京ジャズ」という国際的なジャズイベントが行われている中で、「お茶の水ジャズ」という、さらに小さな単位のジャズイベントも行われているという点に注目している。なかなかいい感じだ。

 ところで、11月の紅葉シーズン、兼六園の無料開放時期に合わせて、今年もう一回、一晩きりの「JAZZ AT 紺屋坂」をやるつもりだ。

 ちょっと肌寒くて、演奏者も辛いかも知れないけど、聴いてくれる人たちの心をホットにする自信はある。柄にもなく、キザなことを言ってしまった…

水かけ神輿と一箱古本市

8月最後の日曜日は、猛暑もなんのその、とにかくひたすら慌ただしい一日であった。

まず、10時に始まる『第1回一箱古本市』に出店するために、九時半頃、主計町の源法院という小さな寺に出かけた。

この古本市は、2005年、今注目を浴びている東京・谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まり、金沢のあうん堂さんたちがこちらにも呼ぼうと企画したものだ。駅弁売り用の木箱が一個千円で配られ、それに古本などを好きなだけ並べるだけという、シンプルを絵に描いたような売り方をする。谷根千のさまざまな面白いコト・モノに興味を持ち始めてきた最近、あうん堂のご主人Hさんからご案内いただき、まずこれを取っ掛かりにしようと決めたのだ。

主たる店番担当のKは、ボクより少し遅れて会場に到着した。彼の友人であるOクンも後から来ることになっていた。しかし、ボクはゆっくりとはしていられない。すぐに主計町から柿木畠へと移動しなければならなかった。というのも、柿木畠の人たちが数年前から始めた「水かけ神輿まつり」の様子も窺いに行かねばならなかったからだ。

KとHさんに、場を離れることを告げ、ボクはすぐに歩き出した。

主計町から柿木畠。金沢を知る人であれば、それほど近い距離でないことはすぐに分かるだろう。しかも、すでに気温は猛暑と呼ぶにふさわしいあたりまで達している。案の定、大手町あたりでTシャツは汗でびっしょりになった。かなりの早歩きのせいもあるが、日向も日蔭も関係なく熱風に全身が包まれていく。

柿木畠に着いたが、神輿の姿はなかった。そうかと納得し、広坂の石浦神社へと向かう。歴史はないとは言え、神輿は神輿、神社でお祓いをした上で街に繰り出すのが正しい道だ。こちらがちょっと遅れたせいもあり、神輿とは21世紀美術館で遭遇した。お祓いをすませ、戻りの途中だった。いつもの面々が先頭を歩いていて、手を上げて挨拶してくれる。Mさん、Iさん、Gくんなど、いつもとはちょっと違う出で立ち(Iさんは同じか)で、勇ましい。まだ勢いは付いてないが、これから街に繰り出して水の掛け合いになるのだ。

 柿木畠は、ボクにとって商店街仕事の原点みたいなところで、楽しく元気に、そしてセンスよくやりましょう…の精神でやってきた大好きなところでもある。そして、何よりも公私混同が実を結んでいった典型的なパターンの代表なのだった。

当時、21世紀美術館がオープンするのに合わせて進めた企画は、かなり自信をもってお薦めできたものだった。商店街の皆さんが凄い勢いで頑張ったし、今は亡き当時のN理事長さんやMさんにはアタマが上がらなかった(今もそうだが…)。そして、企画はさらにその後も広がっていったのだ。

 水かけ神輿は21世紀美術館から知事公舎へとまわって一暴れ(水かけ)し、広坂通りを通って、香林坊アトリオ前、東急ホテル前でも水かけして、せせらぎ通りへと移動していった。その間には何人もの知り合いと出会い、挨拶などを交わした。

時間は限界だった。Kに電話すると「いい雰囲気です」と、なんだか微妙な返事。柿木畠の面々に挨拶し、大和デパ地下で弁当を買いこみ、すぐに主計町の古本市会場へ戻ることに。

バスを利用し主計町にたどり着くと、古本市会場はそれなりに賑わっていた。

 「売れてます」とK。「えっ」と箱を覗くと、拙著『ゴンゲン森と海と砂と少年たちのものがたり』が減っている。基本的には古本市であったが、新刊に近いものもよいというお墨付きがあったので置かせてもらった。Kいわく、「皆さん興味があるらしく、真っ先に手にとってくれるんですヨ」とのことだ。拙著は、たまたまクルマに置いてあった四冊という中途半端な数だったが、早い時間に完売してしまった。こう言う場所へ来るお客さんたちはよい感性を持っている、さすがだなあ……と、数が少なかったことを悔いた。

山関係の本が結構売れた。売れて困った。こんな本買う人はいないだろうと思って、ダシに使っていた『槍・穂高連峰』(山と渓谷社)というかなり古い本が売れた。いや、売れてしまった。しかも最近山好きになったという、若い女性が買っていったらしかった。東大山岳部の部員たちが書いた、かなり滑稽で面白い本だった。冬山の体験などが実に笑える内容で綴られていて、ボクは素朴な装丁とともに愛読書のひとつにしていた。しかし、売れてしまったのでは仕方ない。

そう言えば、スポーツサイクルで颯爽(さっそう)と登場したOクンもまた、最近山を始めたと言っていた。Oクンには、『北アルプス山小屋物語』という山小屋のオヤジの話が満載された本をあげた。

 新田次郎の『小説に書けなかった自伝』という、表装がなく薄汚くなった本も売れた。『剣岳・点の記』でまた人気が復活した新田次郎だが、実は富士山の気象観測所で働いていたことは有名で、気象庁の仕事の傍ら小説を書いていた。そんな新田次郎が有名作家になった後で書いた自伝ということで、ボクは当時異常な関心を持ってこの本を読んだ。というのも、自分自身がサラリーマンをしながら作家になることを夢に描いていたからだ。しかし、ボクはその後になって、この本を読んだことを後悔した。そんな甘いものではなかったと思い始めたからだ。この本を読んでいなければ、ボクは貧乏しながらも一応作家を目指して、頑張ったかも知れない。そんな思いに揺れ動いてもいたのだ。自分勝手なものだ。

新しいものでは辻仁成の小説本も売れた。これは内容がまったく自分に合ってなく途中でやめたものだ。売れて別に文句はないのだが、帯付きのピカピカの本だったのに、Kのやつがなんと200円で売ってしまった。そのことがちょっとショックだった。

 そんなこんなで、箱の中はかなり隙間が目立ち始め、それなりに売り上げがあったが、ボクにとっては、東京千駄木から来ていた「不思議」という店の店主Hさんとの出会いもまた楽しかった。「不思議」と書いて「はてな」と呼ぶ。千代田線千駄木駅からブラブラ歩いてくださいねという古本・古道具の店。Hさんの風貌も親しみやすく、おしゃべり自体も実に面白い。

 ボクは何気に置かれていた『東京文学散歩下町編』という定価100円の本を、300円で買った。今見てもほとんどよくは分からないのだが、1955年発行というところに魅かれて買ってしまった。

それと何と言っても興味を惹いたのが“ガラスペン”だった。竹製の年代がかった柄の部分と、ガラスで作られたペン先とがアンバランスながらに釣り合い、独特なムードを醸し出していた。旅行者風の若い女の子が「ええっ、なぜこんなところにガラスペンがあるの?」と声を上げ、Hさんが千駄木から来ていることを告げると、その女の子は納得した表情を見せた。谷根千の威力をまざまざと見せつけられた瞬間だった。

ボクは釣られるようにガラスペンを買った。包装はペン先がティッシュで包帯のように包まれただけのシンプルさで、それがまた“谷根千的”でいい味を出していた。

狭い境内とその前の狭い道に、人だかりができ、話し声や笑い声が絶えない。

暑い暑い夏の、午後の遅い時間。ちょっとお疲れ気味の店主たちは、それぞれの場を離れたりしながら語り合っていた。女性だけのグループ型、小さな子供を連れた家族型、単独オトッつぁん・オッカさん型など、さまざまな店主の形態があったが、みなそれぞれ立派な個性のもとに輝いていた。

古本市は楽しい。じっとしているのは辛いが、また今度も参加したり、自分で企画してみたりしようかと、秘かに思い始めてしまった。

帰り際、浅野川大橋のたもとに立っていると、西日がもろに顔に当たった。目を開けていられないほどだったが、その眩しさが妙に嬉しかった……

加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…

8月の始めに、加賀市の国道8号線沿いに出来たフットサルコート『AUPA』を初めて訪ねた。8月1日オープンしたばかり、すべてが新しい施設だった。

すべては新しかったが、何よりもカンペキに新鮮だったのは、施設運営会社の代表取締役である、八嶋将輝(やしま しょうき=タイトル写真)さんの存在だった。“さん”付けで呼ぶよりは、“クン”付けで呼びたいくらいにすがすがしい存在感をもった若者だったのだ(失礼)。

輪島の廃校の話でも書いたが、ボクにとって、ワクワクさせてくれる“何か”との出会いは、いつも行動の原点にある。私的な場合は、その出会いから自分の楽しみを感じ取り、仕事の場合は、相手が求めるものを探し、創り上げていくことに、いつも気持ちを注いできた。八嶋さんとの出会いは正式には後者であったが、いつもの公私混同型思考がベースだ。そして、それ以降のつながりは続いている。

八嶋さんは、来年の1月に30歳になるというセーネンであり、まだ1歳になっていないという子供を持つ父親でもある。サッカーに情熱を注ぎ、海外でも修行してきたという筋金入りだが、言葉や表情からその自信が感じ取れる。そして、スポーツマンらしい謙虚さもまたいい感じだ。地元に戻って、NPO法人スポーツクラブ「リオペードラ加賀」を立上げ、少年サッカーの指導者はもちろん、スポーツイベントの企画運営に携わっている。そして、このボクもそんな中に、少しは入れてもらえそうになってきた。

 初めて訪問した日、夕方になっても激しい暑さが続いていた。西に傾いた陽の光を受けながら、多くの少年たちがコートの中でボールを蹴っていた。額というより、顔中から吹き出た汗が首筋を流れていく、その様がはっきりと感じ取れるくらいの熱気が周囲を被っていた。

スポーツはいつも何かを感じさせてくれる。

少年たちの汗と真剣な表情を見ていると、世代は違うが、大学時代の夏合宿のことを思い出した。体育会の準硬式野球部に所属していたボクは、四年の間に一度だけ夏の強化合宿を経験している。その他の三年は運よく全日本大会に出場していて、その遠征のために夏の強化合宿はなかった。しかし、三年生の時は全日本に出場できず、地獄の夏合宿が待っていたのだ。

場所は、なんと石川県の小松だった。小松末広球場が練習グラウンドになり、寝泊まりは体育館の中の宿泊施設を利用した。食事は近くの店だったろうか、仕出し料理が届けられていた。

一週間くらいの日程だったが、雨どころか、曇りの日もまったくなかった。激しい日差しの下での強化合宿。朝の6時から夕方の6時まで、朝食と昼食の時間がそれぞれ一時間はあったが、それ以外は球場にいて、ひたすら練習に明け暮れた。外野手だったボクは、個人ノックになると、ボールに飛びつくようにして、わざと芝生の上に倒れ込むのを楽しみにしていた。いや、楽しみなんて言えるほどではなく、せいぜいそれをすることによって、ほんの一瞬でもカラダを休められるということに愚かな喜びを感じていた。それほど思考能力も失っていたのかも知れなかった。

昼飯をかき込むようにしてすませると、球場の外にある松林だったろうか、とにかくかすかに日陰があり、風が通りそうな場所を求めては、少しでも有意義な休息時間を過ごすことに専念した。カラダはパンパンに張り、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。球場のちょっとした階段を昇るのもきつく、春合宿とはまったく違う夏合宿の厳しさに参っていたのを覚えている。

最終日、練習は早めに切り上げられ、みなで銭湯へと歩いて行った。狭い宿舎の風呂とは違い、解放感いっぱいの銭湯であるはずだったが、誰もしゃべる元気がなく異様な静けさだった。その夜の打ち上げでは、一瞬にして気配が逆転したのは言うまでもないが…

  ジュニア野球の監督をしている後輩も言っていたが、今の子供たちは健康第一に育てられていて、練習中の水分補給も当たり前になっている。だから、ときどき腹の中でポチャポチャと音をさせながら走っている子供もいたりするらしい。7月に金沢で開かれたジュニア野球の大会で来ていた、愛知県のチームの指導者も同じようなことを言っていて、いろんな意味での精神力は、昔の子供たちの方がはるかに強いでしょうと話していた。水が飲めない辛さを、今の子供たちは知らないのだ。便所の水や田んぼの水を口に含む…そんなスリルいっぱいの美味さ?も知らないのだ。

いつものように話はそれてきたが、スポーツはたしかにスマートになった。着ているものもかっこいいし、プレーも上手い。しかし、何かがおかしくもなっている。松井秀喜選手に関する仕事をさせてもらっていて、ある著名な高校野球指導者の方とゆっくり話をさせてもらったことがあるが、たとえば選手たちの親たちの方に気を使わなければならないなどは論外だ、と思う。いろんな意味でのサポートは必要だが、スポーツ自体の厳しさとか虚しさとかといった“耐える部分”を、もうちょっと含んでいかないとダメなんではないだろうか…と、思ったりするのだ。

八嶋さんと話していて、八嶋さんが直接そのようなことを口にしたわけではないが、ボクは彼のもつ、スポーツをやるニンゲンとしてのすがすがしさから、スポーツを楽しむエキスみたいなものを感じ取った。泥臭く努力してきたニンゲンでないと、本当の楽しさは伝えられない。そのエキスが八嶋さんには全身に詰まっている。そんな気がした。

ボクたちが苦しかった合宿の話などで、今でも盛り上がり、互いにケナし合ったり、褒め合ったり(あまりないが)できる楽しさを維持しているのも、あの極限的な過酷さがあったからだろう。時代は変わったが、スポーツから厳しさや虚しさをとったら、やはり何も残らない。

  ところで、うちの会社には、元だが、優秀なサッカー選手もいたり、中途半端に若くて威勢だけはいいという輩もいるので、ここはひとつフットサルチームなんぞを作り、『AUPA』に乗り込んでみようかと思うのだが、どんな按配だろうか。あのサッカー少年たちから笑われるだけかな……

輪島の暑い夏と廃校

 

 夏らしい活動が復活し始めている。そんなことをはっきり感じ取る瞬間がある。気持ちの上でも、自分らしいなあと思うことがあったりして、図々しながらも10歳以上若返ったような、我田引水型の錯覚に陥(おちい)ったりする。

 何か考えてくれないか… ボクの仕事の中では、このような問いかけは日常茶飯事のことと言っていいのだが、ここ最近はどうも仕事的匂いがプンプンし過ぎていて面白くなかった。しかし、ここへきて、少しその匂いが変わってきた気がしている。と言うよりも、何だか以前に戻っていくような気がして、N居的アドレナリンがかつてのように騒ぎ始めてきたといった感じなのだ。

それは、ボクの前に現れてくる人やモノや、物語などが、新鮮であったり、奥深かったり、好奇心に満ちていたり、ワクワクさせてくれたりするからで、こういう状況にいると、ボク自身もどんどんその世界へと身体を乗り出していってしまう。ずっとそうやって、仕事的な中にも自分を融け込ませてきた。

 能登半島の先端、輪島の市街地を離れた海沿いの道には、海と人里との深い結びつきを伝える“能登らしい”風景が続く。

真夏の日差しの中、その風景を楽しみながら進んでいくと、小さな高校のグラウンドと校舎が見えてきた。

2002年の春に廃校になった旧県立町野高校だ。グラウンドは雑草がかなりの大きさにまで伸び、かつてプロ野球選手まで輩出した野球部の名残りであるバックネットも錆びついている。

目的地はその場所ではなかったが、その場所を活用できないかというある人の話を聞くために出かけてきた。しかし、その場所をじっくりと眺めてみて、そのあまりの状況に心の方までもが寂しくなってしまった。

話はとても興味深かった。お会いした地元の方は、廃(すた)れ気味になっているこの辺りの活性化に、この廃校の活用をと考えていた。この辺りとは、能登半島ではかなりの人気スポットである「曽々木海岸」のことで、かつてはホテルや旅館、民宿などが数多く営業していたが、今はぐっと数が減っている。古い看板だけが残ったような建物を見ていくと、その状況が想像できる。重い現実感が、明るい真夏の日差しの中なのに、はっきりと目に焼き付いてくる。

しかし、ボクはいつも思っているのだが、地元の人たちが楽しい顔をしていなければ、やって来る人たちも楽しくなれないはずだから、まずは自分たちが楽しくなれることを、どんどんやってみることから始めるべきだと。そのために旧町野高校の校舎やグラウンドを活用させてもらおうという発想から始めれば、最も素直で素朴な意見として切り口が作れる。そう思い、その人にそう話した。

その人は、ボクなんかよりも人生の大先輩にあたり、かなり大局的な見地でモノゴトを考えるタイプの人だった。出来あがりの理想形がすでに頭の中に描かれている雰囲気だった。ボクは“オイラたちやアタイたち”レベルでの活動に、まず活路を見出すべきではないかと思ったのだが、そのことがどれだけ伝わったのかは微妙だった。

紙に描いた絵や綴った文章だけでは、なかなかうまくいかない。それも根本的には大事だが、小さな活動からでもいいから、自分たちが楽しくやれることをやってみればいい。そのためのお手伝いならナンボでもやりますよと、ボクは告げた。告げた後で、ちょっと後悔なんぞもしたが、まあ何とかなるだろう…とも思った。

帰り際に、もう一度、今度はじっくりとグラウンドとその奥の校舎を眺めた。

そうだ、草むしりから始めよう。草むしりは除草(じょそう)だから、男ばかりで女装(じょそう)してやったりするのもいいな。タイトルには「女装で除草大会」的なんだぞの表現を入れて、コンテスト形式にしてもいいなあ。そして、その後、みんなで魚や肉なんぞを冷たいビールなんぞと一緒にいただいたりするのもいいなあ……と思った。

学校の建築物には、耐震のことやらでむずかしい課題があり、再利用というのには厳しい条件が付いて回ることは理解している。しかし、かといって、今のようなままで放置?されていたのでは、周囲のせっかくの美しい風景も蝕(むしば)まれてしまうような感じがする。

ここはひとつ、来年の夏に向けた宿題として、頭の右隅あたりに常に在庫しておこうかと思っている。活きのいい若者とまではいかなくても、元気いっぱいのオトッつァんやオッカさんあたりで、考えていきたい話だ。適度に、そして、それなりに絡ませていただく……

梅雨が明け、聴山房にてペンを走らせた…

またしても加賀市大聖寺を訪れ、

またしても旧大聖寺川沿いの道を歩き、

またしても深田久弥山の文化館の門をくぐった。

道を歩きながら、どこからか聞こえてくる、

優しい笛の音が気になっていた。

そして、門をくぐって足を進めたところで、

その笛の音が、この場所から聞こえていたことを知った。

オカリナの音色だった。

 今日告げられた梅雨明けの空の下、

木立の日陰の中に、オカリナ奏者のKさんが立ち、

その前に何人かの人たちが、そのやさしい音色に耳を傾けていた。

ボクはその人たちから一人離れた場所に立ち、そのミニコンサートのようすを観察し、

それから、先日お会いした事務長のMさんに挨拶した。

演奏が終わると、奥の聴山房(ちょうさんぼう)で、

里山の自然観察と名付けられた写真展を見、美味しいアイスコーヒーをいただいた。

汗が吹き出るほどの暑さに、夏が来たんだということを再認識しながら、

庭の木に止まっているセミたちの、

まだ力強いとは言えない鳴き声を聞いていた。

最後にいただいた、山中の奥から汲んで来たという水もまた、

喉ごしのいい、やさしい味だった…