主計町の春


 

久しぶりに、主計町の「茶屋ラボ」に行ってきた。

あまり気持ちよいとは言えないくらいの生温い風が、やや強めに吹いていて、埃っぽく、上着をはおる気分にはなかなかなれない午後だった。

大手町の駐車場にクルマを置き、新町通りに出て、久保市乙剣神社から暗がり坂を下る。神社の境内に入ると、不思議に風を感じなくなり、暗がり坂に差しかかると、さらに強い温もりだけを受けるようになった。

木立や主計町の狭い道には風も入って来れないのだろう。少し霞み気味の日差しも強くなったように感じる。坂を下った検番の前に立つ桜の木は、まだ蕾(つぼみ)状態だが、それはそれなりの雰囲気を持っていて、相変わらず姿形もいい。

去年の春、ボクはこの木から無数に散っていく桜の花びらを見た。路面に敷き詰められたような花びらはそれなりに綺麗だったが、あの無数の花びらたちはあの後どこへ行ったのか……。桜の季節の後半になると、いつもそんなことを考えている。今はまだいいが、後で心配事が増えるので、やはり桜には心を許せない。

そう言えば、今年の桜はかなり遅い方だ。ボクがこんなこと言っても仕方がないが、桜は早く来て、ある程度の期間咲き続け、散り始めたら早く行ってくれればいい。桜の騒々しさはそんなに長い時間要らない。と言いつつ、今年は何とか哲学の道を桜を眺めながら歩きたいと思っているのだが、タイミング的に無理だろうか。今年がだめなら来年があるが。

そんなこんなで主計町の細い道をL字型に曲がって、浅野川沿いの道に出るとすぐ左に「茶屋ラボ」はある。もう何度も通っている道だ。と言っても、ひょっとすると今年初めてかも知れない…と一瞬冷や汗。去年の今頃は、こけら落としの「和傘と甲州ワイン」のコラボイベントで奔走していた。

新聞にも大きく取り上げられて、この先大変なことになるのでは…と、ビビってしまったのをはっきりと覚えている。本番はなかなかの内容だったが、それをベースにしてやっていくのには、やはり少々無理があったみたいだ。あれ以来、ぽつりぽつりとイベントをやってはきたが、積極さがなくなり、少しずつオーナーさんとの距離も遠くなっていってしまった。しかし、一時、管理をある人物に委ねるような話もあったが、今はまたフリーな状態に戻っている。

待ち合わせをしていたN川クンはまだ来ていなかった。

手に抱えた上着のポケットから鍵を取り出し、いつも開けにくい格子戸の鍵穴に差し込む。意外なほどに簡単に開いて拍子抜けだったが、以前はよく苦労したから気分がよくなった。

格子戸を開けると、何となく懐かしい匂いがして、すぐに中へと足を踏み入れる。奥にある分電盤のブレーカーを上げて、さっそくトイレを拝借。

このトイレは決まって、来客者に驚いてもらえるところだ。トイレをはじめとして、金沢で活躍する鬼才建築家・平口泰夫氏がデザインした内装は、建築賞も受賞した抜群のセンスで構成されている。茶屋の伝統の中に現代的な感性が息づいているといった、ちょっと定番的な表現しかできないが、まさにそうなのだから仕方がない。

一階のテーブルの上にバッグを置き、押入れの扉を開くと冷蔵庫がある。まさかと思って開けてみると、懐かしい「ハラモワイン」のラベルが付いたワインボトルが三本。フルーティな味が特徴的な美味いワインが寝かせて?ある。冷蔵庫は電源が入っていないから、ちょうどいい具合に寝かせられているのも知れない。そう言えば、少し前だがオーナーから、冷蔵庫のワイン飲んでいいかと電話があったが、その時には飲んでいないのだろうか・・・。

冷蔵庫のワインを見て、これは明日飲めるぞ…とニタリ。実は次の日の晩はここで久々のイベントなのだ。

コンニチワ。外から耳慣れた声が聞こえた。N川クンだ。横に立っているのは、大きなマスクながら見覚えがある。O澤さんです…とN川クンが言う前に、ボクはその正体を見破っていた。O江町でS屋さんを営むO澤さんだった。ちなみにSは魚ではない。

さっそく、この場所のことなら、そしてこの場所の活用のことなら何でもゴザレの説明に入る。

一階の設備をひととおり説明終えると、いよいよ二階への階段へと差しかかる。急で狭くて、しかも直角に曲がる階段は、下る際には要注意。何人かこけるのを見た。すれ違う時には、目と目で見つめ合ってしまうような微妙な距離にもなる。

一階でも感嘆の声が絶えなかったが、二階に上がるとその声は一階の三倍半くらいの頻度になった。

浅野川に面した窓からは、その流れと共に、蕾がそろそろ膨らみ始めそうな桜の木の枝が、手が届きそうなところで風に揺れている。いいではないですか…と言いたいながらも、そんな安直な言葉では表現できないと言った思いが、はっきりと伝わってきた。浅野川のさざ波が光っている。

O澤さんは、茶屋ラボで楽しいことを企んでいるらしい。その楽しいことに、さらに楽しいことを注入しようとボクも考え始めた。ここでやろうとしていることは、普通にありふれたことなのではあるが、その中に個性的な何かを付加していく。それが茶屋ラボ的な趣向なのだ…と、ボクはかつて新聞で語っていた(らしい)。

と、今は粋がっていても仕方ないので、いろいろ説明したり案内したりしながらの三十分ほどだろうか。なかなか有意義で楽しい時間が過ぎていった。

ここへ人を連れてくるといつも感じるのだが、皆さん、それなりによいイメージをもってくれる。当たり前のようで、素直な感想だと思うが、だからこそ、こちらとしても中途半端なことは言えない。管理自体にもそれなりに責任があるし、やはり茶屋建築には注意が必要なのだ。

今回のO澤さんのような個性的で、信頼できる人(ヒトビト的)たちには大いに利用してもらいたい。

二人を見送り、戸締りをして茶屋街の道に出た。浅野川を背にして建物外観をしみじみと見る。

そう言えば、「茶屋ラボ」という呼び方もこのまま続けていいのか…と、思ったりする。次の日の夜、ここで篠笛と一人芝居を鑑賞し、そのあとそれなりにビールやワインなんぞを飲むのだろうが、その時に、ボーっと考えてみようかとも思う。

帰り道、暗がり坂で、もう一度蕾の桜の木を見上げてみようと思った。が、おばさんたちの集団に圧倒されて、しばし我を見失っていた。そうか、春なのであった……


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