加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…


8月の始めに、加賀市の国道8号線沿いに出来たフットサルコート『AUPA』を初めて訪ねた。8月1日オープンしたばかり、すべてが新しい施設だった。

すべては新しかったが、何よりもカンペキに新鮮だったのは、施設運営会社の代表取締役である、八嶋将輝(やしま しょうき=タイトル写真)さんの存在だった。“さん”付けで呼ぶよりは、“クン”付けで呼びたいくらいにすがすがしい存在感をもった若者だったのだ(失礼)。

輪島の廃校の話でも書いたが、ボクにとって、ワクワクさせてくれる“何か”との出会いは、いつも行動の原点にある。私的な場合は、その出会いから自分の楽しみを感じ取り、仕事の場合は、相手が求めるものを探し、創り上げていくことに、いつも気持ちを注いできた。八嶋さんとの出会いは正式には後者であったが、いつもの公私混同型思考がベースだ。そして、それ以降のつながりは続いている。

八嶋さんは、来年の1月に30歳になるというセーネンであり、まだ1歳になっていないという子供を持つ父親でもある。サッカーに情熱を注ぎ、海外でも修行してきたという筋金入りだが、言葉や表情からその自信が感じ取れる。そして、スポーツマンらしい謙虚さもまたいい感じだ。地元に戻って、NPO法人スポーツクラブ「リオペードラ加賀」を立上げ、少年サッカーの指導者はもちろん、スポーツイベントの企画運営に携わっている。そして、このボクもそんな中に、少しは入れてもらえそうになってきた。

 初めて訪問した日、夕方になっても激しい暑さが続いていた。西に傾いた陽の光を受けながら、多くの少年たちがコートの中でボールを蹴っていた。額というより、顔中から吹き出た汗が首筋を流れていく、その様がはっきりと感じ取れるくらいの熱気が周囲を被っていた。

スポーツはいつも何かを感じさせてくれる。

少年たちの汗と真剣な表情を見ていると、世代は違うが、大学時代の夏合宿のことを思い出した。体育会の準硬式野球部に所属していたボクは、四年の間に一度だけ夏の強化合宿を経験している。その他の三年は運よく全日本大会に出場していて、その遠征のために夏の強化合宿はなかった。しかし、三年生の時は全日本に出場できず、地獄の夏合宿が待っていたのだ。

場所は、なんと石川県の小松だった。小松末広球場が練習グラウンドになり、寝泊まりは体育館の中の宿泊施設を利用した。食事は近くの店だったろうか、仕出し料理が届けられていた。

一週間くらいの日程だったが、雨どころか、曇りの日もまったくなかった。激しい日差しの下での強化合宿。朝の6時から夕方の6時まで、朝食と昼食の時間がそれぞれ一時間はあったが、それ以外は球場にいて、ひたすら練習に明け暮れた。外野手だったボクは、個人ノックになると、ボールに飛びつくようにして、わざと芝生の上に倒れ込むのを楽しみにしていた。いや、楽しみなんて言えるほどではなく、せいぜいそれをすることによって、ほんの一瞬でもカラダを休められるということに愚かな喜びを感じていた。それほど思考能力も失っていたのかも知れなかった。

昼飯をかき込むようにしてすませると、球場の外にある松林だったろうか、とにかくかすかに日陰があり、風が通りそうな場所を求めては、少しでも有意義な休息時間を過ごすことに専念した。カラダはパンパンに張り、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。球場のちょっとした階段を昇るのもきつく、春合宿とはまったく違う夏合宿の厳しさに参っていたのを覚えている。

最終日、練習は早めに切り上げられ、みなで銭湯へと歩いて行った。狭い宿舎の風呂とは違い、解放感いっぱいの銭湯であるはずだったが、誰もしゃべる元気がなく異様な静けさだった。その夜の打ち上げでは、一瞬にして気配が逆転したのは言うまでもないが…

  ジュニア野球の監督をしている後輩も言っていたが、今の子供たちは健康第一に育てられていて、練習中の水分補給も当たり前になっている。だから、ときどき腹の中でポチャポチャと音をさせながら走っている子供もいたりするらしい。7月に金沢で開かれたジュニア野球の大会で来ていた、愛知県のチームの指導者も同じようなことを言っていて、いろんな意味での精神力は、昔の子供たちの方がはるかに強いでしょうと話していた。水が飲めない辛さを、今の子供たちは知らないのだ。便所の水や田んぼの水を口に含む…そんなスリルいっぱいの美味さ?も知らないのだ。

いつものように話はそれてきたが、スポーツはたしかにスマートになった。着ているものもかっこいいし、プレーも上手い。しかし、何かがおかしくもなっている。松井秀喜選手に関する仕事をさせてもらっていて、ある著名な高校野球指導者の方とゆっくり話をさせてもらったことがあるが、たとえば選手たちの親たちの方に気を使わなければならないなどは論外だ、と思う。いろんな意味でのサポートは必要だが、スポーツ自体の厳しさとか虚しさとかといった“耐える部分”を、もうちょっと含んでいかないとダメなんではないだろうか…と、思ったりするのだ。

八嶋さんと話していて、八嶋さんが直接そのようなことを口にしたわけではないが、ボクは彼のもつ、スポーツをやるニンゲンとしてのすがすがしさから、スポーツを楽しむエキスみたいなものを感じ取った。泥臭く努力してきたニンゲンでないと、本当の楽しさは伝えられない。そのエキスが八嶋さんには全身に詰まっている。そんな気がした。

ボクたちが苦しかった合宿の話などで、今でも盛り上がり、互いにケナし合ったり、褒め合ったり(あまりないが)できる楽しさを維持しているのも、あの極限的な過酷さがあったからだろう。時代は変わったが、スポーツから厳しさや虚しさをとったら、やはり何も残らない。

  ところで、うちの会社には、元だが、優秀なサッカー選手もいたり、中途半端に若くて威勢だけはいいという輩もいるので、ここはひとつフットサルチームなんぞを作り、『AUPA』に乗り込んでみようかと思うのだが、どんな按配だろうか。あのサッカー少年たちから笑われるだけかな……


“加賀のサッカー少年が、サッカー青年になって、子供たちに伝えていくこと…” への1件の返信

  1. この話は、前号の
    「輪島の熱い夏に、廃校と出会った…」と繋がっていて、
    本当はひとつの話として書きたかった。
    なんだか、大袈裟に言うと、ふたつのことが
    同じ次元の中で起きたように感じていたからだ。
    それと同じく「深田久弥・山の文化館」の話なども、
    ボク自身を少し前の世界へと戻そうとしているような気がしていて、
    なんだかソワソワさせるのだ。
    N居は、またN居的に歩き始めて、
    もう一度N居的世界に戻るのかも知れないなあ。
    盆休みの間に、じっくり考えてみようかな…

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