香林坊に会社があった頃~その2


 

その1を書いてから、この話には多くの反響があり、早くつづき、つまりその2を書けといった内容のメールなどが多くきた。反響が多くて、それなりに話のタネになるのは嬉しいのだが、早く書けと言われると、なかなかその気にならないのが性格上の特徴で、そのまましばらく放っておいたことになる。

で、いざ書こうかと思うと、またあれこれいろいろと考えてしまい、とりあえず書き始めるのだが、書き切れなくなったら、その3に回すことにする。

その1の終わりに、YORKが日銀ウラにやって来た頃のことを書こうか…と書いたが、まずやはりその話を始めよう。

ボクがヨシダ宣伝に入社したのが、七〇年代の終わり頃。その十年ほど前、富山からやって来た奥井進さんが店長となって、YORKが片町にオープンした。正式には、一九六九年の十二月二十二日のことだ。

今はなくなったが、カメラのB丹堂という店の二階、狭く暗い階段を上がったところに店はあった。細長く、それなりに広い店内にはピアノが置かれ、ジャズがガンガン流れていた。奥井さんとボクとの出会いは、それから少し後になるが、その辺りの話は長くなるので別の機会にしておこう。

それから一五年後の同じ十二月、YORKは香林坊日銀ウラへと移転する。この出来事は、ボクの人生の中でもかなり重要で、今振り返ってもトテツもない大きなものをもたらしてくれたとはっきり言える。

実は、会社に入ってサラリーマン生活に妙に馴染んでくると、ボクは一時YORKから遠ざかるようになっていた。行っても、女の子を連れて行ったりして、奥井さんは喜んだかも知れないが、ボクは何だか真面目なリスナーではなくなっていた気がする。

会社の連中と飲む機会などが増えて、それがそのままカラオケやら、気取ったパブやらへの志向に変わっていた。ジャズを聴くのはクルマの中だけ、いや、クルマの中でもジャズばかり聴いていないという時期もある。何を聴いていたか、それは秘密だ…。

旅をしたり、山へ行ったりするのは変わってなかった。本を読むことも変わってなかった。仕事の中で、文章も書いていた。だが、その頃YORKに足を向けなかったのは本当になぜなのだろう…。やはり、何となく…なのだとしか言えない。

香林坊にYORKが来るという話は、ジャズ好きの友人から聞いたと思う。それをはじめて耳にした時、ボクは正直言うとガッカリした。片町のYORKが、YORKなのだと勝手に位置付けていたボクとしては、香林坊に移り狭い店になってしまうことで、ジャズの本格的な店ではなくなるという思いがあったのだ。

その辺りのことも書けば長くなるので別の機会にするが、ただ言えるのは、ボクの自分勝手な思いであったに過ぎない。大袈裟だが、ジャズという音楽を取り巻く環境が大きく変わっていたということもあっただろう。ジャズに求める、突っ張り精神みたいなものがかっこ悪くなり、表向きマイルスやコルトレーンを聴いていながら、家でこっそり天地真理も聴いている。真理ちゃん、大好き!…などといった輩が増えていた。

YORKが香林坊日銀ウラにやって来ると、ボクの日常は全くカンペキに変わった。奥井さんが店にやって来る夕方の五時半から六時頃にかけて、ふらりと店へ行ってみる。六時を過ぎていれば店は完全に開いていて、そうでなくても奥井さんはボクを迎え入れてくれた。

神宮寺の自宅から、カメラをぶら下げてのんびり歩いてくる奥井さんは、まず店の掃除などを簡単に済ませる。先に買い物に行ったりもする。近くの本屋にも行く。

まだ仕事の合間であるボクは、ずっと親しんできたいつものコーヒーを頼み、夕刊に目を通す。その前に交わす言葉は、「なんか、面白いことあったけ?」で、この言葉はその後もずっと奥井さんとの慣用句みたいになっていく。晩期の見舞いの時にも、まずどちらかともなくこの言葉が出ていた。

そんな間に、まじめそうな酒屋のおとっツァンが注文を聞きに来て、ひょうきんな氷屋のあんチャンが氷を運んできては、その日の出来事などを語って行った。特に氷屋のあんチャンの話は、時に二十分ほどの長編になったりして、軽トラの中の氷が融けないかと心配したりもした。

この時間は、ボクにとって最高に楽しい、高級クラブ風に言えば“珠玉のひととき”であった。現在の自分の中に沁み込んでいる多くのモノが、このひとときの中で育成されていったのではあるまいかと、かなりの確信で断定できる。

ある一日のひとときを振り返ると、新聞に出ていた魚のアンコウの話を皮切りに、レコード棚の上に置かれている書籍類の中から『食材図鑑』という分厚い本を取り出す。その中の魚編のアンコウが紹介されたページを探し、アンコウについて語り合うのである。

アンコウは当然海の中に居て、魚を食べている。その食べ方というか、餌となる魚の捕らえ方が面白い。アンコウは海中でじっとして、目の前にやって来た魚を、あっという間に口に頬張ってしまうのだ。

ボクと奥井さんの間には、なぜそんなことが簡単に出来てしまうのかが問題となる。そして、図鑑をあらためて見直し、アンコウの正面から撮った写真に見入るのだ。

アンコウの正面から見た顔は、はっきり言ってマヌケそのものだ。分厚い唇(なのか知らないが)に象徴されるあまりのマヌケぶりに、呆れて声も出なくなる。そして、ボクたちは納得する。アンコウの前に来た魚は、このあまりにもマヌケな顔に、不可避的脱力感を禁じ得なくなり、そのまま放心したように立ち尽くす(魚だから、ちょっとニュアンスは違うが)。その魚も呆れて声も出ない。そこをアンコウは図々しくもパクリと頬張ってしまうということなのだ……と、結論付けるのである。

俳句や写真の話題もまた、店では必ず出て来るものだった。奥井さんの俳句や写真には凄くジャズ的なものを感じた。伝統と自由さと、妙な掛け合いや組み合わせや、その世界は独特なものだった。

奥井さんの俳号は、『酔生虫』。もとは『酔生夢死』といって、程頤(ていこう)という中国の古い時代の先生の書に出てくる言葉だ。広辞苑によると、読んで字のごとく、“何のなす所もなく、いたずらに一生を終ること。”とある。その「夢死」の部分を「虫」にしたわけだ。

博学の奥井さんらしい俳号であったが、YORKではその頃俳句ブームとなっていて、奥井さんのもとには俳句好きが集まっていた。中には単なるお客から俳句仲間になった人もいた。

ボクが始めていた私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』の中に、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」というページがあったが、皆が作る俳句を、酔生虫先生が批評していくというパターンで好評を博した。ボクが先生のアシスタントという設定で、ボクの方から先生にあれこれと質問しながら進めていく内容だった。もちろんギャグ満載の楽しいコーナーであったのは言うまでもない。

『ポレポレ通信』が進化した?『ヒトビト』の創刊号の構想は、YORKのカウンターで練っていったものだ。ずっと続けた「ヒトビト的インタビュー」という重要なページでは、その第一回目を奥井さんにさせてもらった。開店前のYORKで、奥井さんは、しみじみと静かに、いろいろなことを話してくれた。昼間に店にいるということがあまりなく、ドアのガラスの外が明るかったのが珍しかった。

香林坊日銀ウラは、YORKの移転によって、ボクにとっても新しい界隈になった。会社からYORKまでが徒歩で約三十秒。六時に店に入って、そのまま夜中の十二時までいたということもたびたびあった。

その後、ヨシダ宣伝がお隣の野々市町に営業部隊を移転させるまで、ボクの日銀ウラ界隈におけるこうした日課は続いた。移転してからも、月に何度かはあった。香林坊はいつの間にか、YORKを連想させる街になっていたのだ。

やはり、YORKの話だけになってしまった。その3につづくかも知れぬ……。


「香林坊に会社があった頃~その2」への2件のフィードバック

  1. 日銀裏のヨークに近づくにつれ、店の中から風の盆の胡弓の音が聞こえて来ました。秋の虫の音と胡弓のハーモニーが、これもジャズのアドリブみたいだねと云っていたのが忘れません。

  2. かつて、片町時代には
    閉店後に「津軽海峡冬景色」を
    ALTECのスピーカーをとおして聴いてた時がありましたね。
    聴いてたというより、
    大合唱していたという雰囲気でした。
    身体の中から染み出てくるようなものに
    単純に反応していた時代でした。
    素晴らしく、ジャズ的な日常だったですね。
    その空気が、香林坊日銀ウラ界隈にも
    流れてきたような…。
    そんな時代だったのかなあ…と、思ったりもします。

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