中居ヒサシのワケについて
この写真は、拙著に自分の名前を書いているところだ。
つまり著者としてサインなんぞをしているという図々しい光景?なのである。
ここに書かれているのは、もちろん「中居ヒサシ」だ。
「中居寿」を、「中居ヒサシ」にした理由をときどき聞かれることがある。
なぜ、中居寿ではダメなのかとも聞かれる。なぜ、中居ヒサシがいいのかとは聞かれない。
どうも「中居寿」ではシャープさに欠けるようなイメージがあり、もともと少し物足りなく感じていた。
漢字三文字でいえば、椎名誠、村上龍、高倉健、北野武、加藤茶など、なんだか目で捉えただけで何かを感じさせる名前というのがあるが、ボクの場合はそんなイメージではない。
どこか締まりがない。「中居」も平坦で淡白だし、「寿」はおめでたいだけだ。
そして、繋げてみると、平坦で淡白でおめでたいということになり、そのことの意味することやイメージは、まったく自分の正体とかけ離れているではないかと感じていた。
それで、ボクは図々しくも本の著者という一応の立場として、「中居ヒサシ」を選んだわけだ。
拙著の読者からのメールには、“ 作家としての中居さんは名前がカタカナ(ヒサシ)だったんですね ”と、特別なメッセージがあったりした。
そういうのを読むと、“ そうか、そうだったんだよなあ~。ここはやっぱァ、カタカナのヒサシなんだよなあ~”と、妙に激しく納得せざるを得なかった。
ところで、ボクにはもうひとつ「N居・コトブキ」という名前もあったりして、実は中居ヒサシの登場以来、本名も含めて三つの名前ができたことになる。
N居・コトブキという名前は、ジャズ、活字、その他日々の雑話系で深い付き合いを続けているあるオトコが付けた。プライベート冊子の中で、そのオトコがボクのことをそう書いたのだ。
このネーミングはなかなか好評?で、実はボクも高校時代、持ち物にそのような書き方をしていたことがあった。
だから、特に違和感もなかったのだが、「・」が入って、そのあとに「コトブキ」が来るとは予想していなかった。
このネーミングに喜んだのは、当時(今から18年ほど前)のボクのスタッフたちだ。
今はもういいお母さんたちになっているが、その頃は感性豊かなクリエイターたちで、このネーミングの絶妙な組み合わせに、ひたすらニタニタしていたのを覚えている。
ボクもN居・コトブキを得てからは、文章の書き方を含めた、日々の過ごし方にバリエーションが増えた感じがして、知っている人は知っている、あのN居節を誕生させたのだ……と言っても何のことかよくはわからないだろうが。
その後、ちょっとだけまじめな?雑誌「ヒトビト」を出すようになってからは、雑誌としてのクオリティにも妙な自覚が生まれて、N居・コトブキ的表現だけでは済まされぬぞという、柄にもない理性を含んだ思いに追い込まれた。
N居・コトブキでないとすれば、中居寿しかない。そして、中居寿は、N居・コトブキをかすかに滲ませたりしながらも、その中間的ポジションを目指したのである。
今、中居ヒサシになったわけだが、中居ヒサシのポジションは、中居寿より上なのか、下なのか。右なのか、左なのか。とにかくまだよく分かっていない。
なにしろ、中居ヒサシは作家?なのであるから、一般的には最も上にいるのが普通だろう。
その点、中居寿はただの会社の人間だ。どう見ても、中居ヒサシの方が上になる。
こんなことを考えていると、人の名前というのは不思議なものだなと思う。
せっかくの「中居ヒサシ」なのである。
ますますこの目を鋭くし、脳ミソにはさらに柔軟剤を混入させ、指先の動きもシャープにして、雑文づくりに励もうと思う……
いや、君は右上32.5度の位置にいる『N居・コトブキ』の一面を捨て去るべきではない!
それが君の文芸活動の原点ではある! d(・_・)キッパリ!
だって! N居の次にドットがくるげんぞ!!!
それがどうした?って話しやわな。。。
祥稜 拝
その通り!!!!!
ドットを捨ててはイケマセン。
上とか下とか右とか左とかじゃなくて
3人とも手つないで歩いているカンジがします。
どなたがいなくなっても困ります。
もちろん淡白でめでたい中居寿さんも。
オレもそろそろ更生の道を歩みたいしな…
まあ、N居・コトブキは永遠に不滅なんだけどね。
中居ヒサシが、そう言ってるんだわ。