座って、釣りをするかかし…


 湯涌街道のことを書いたばかりだが、その湯涌街道で見つけた、おまけ的話もついでに書こうと思う。おまけという表現は、やや控えめにしたつもり……

 これもほぼカンペキに晴れ渡った五月のある日のことだ。あれと同じ日でないのと問われれば、はい同じ日ですと答えるしかない…… 湯涌街道は正式には「主要地方道金沢・湯涌・福光線」という。しかし、長くて面倒だから湯涌街道でいく。で、場所は金沢市東荒屋町地内なのだが、これもいったいどの辺りなのか見当もつかないだろうから、街道沿いのある場所にする。

 つまり、“湯涌街道の道沿いのある場所”に、かかしが立っていた。いや、座っていた。しかも足を組んでいて、釣竿を持っていた。晴れているのに雨合羽を着せられ、ちょっと暑苦しい感じだったが、遠目には、のんびり釣りを楽しんでいるようにも見えた。脅(おど)しというよりも、絶対にウケ狙い。それはいい。ただ、かかしという視点からすると、いくつかの疑問も生じてくる。だいたい、田植えが過ぎたばかりの田んぼに、かかしは必要なのだろうか?それに、こういう場合のかかしは、本来のかかしと呼んでいいのだろうか?かかしは座っていてもいいのか? かかしは釣竿を持っていてもいいのか?サングラスをかけていてもいいのか?

  晴れ渡って、新緑がきれいで、それでもって、クルマの流れもスムーズな、文句のつけようのないドライブ環境では、こういう場合クルマを降りて、じっくり見つめてみるのが普通だ。心のゆとりがそうさせるわけだが、もしそうしようという思いが起こらなかった場合は、敢えてクルマを停め、胸に手を当てて深呼吸をひとつしてみるのもいいだろう。かかしに対する関心が、まるで湯涌の温泉のように湧き出てくる。

 かつて、「ヒトビト」全盛時代(そんなのあったのかな)に、かかしに関する研究レポートをまとめようとしたことがあった。まったくの取材不足によるネタ欠乏で形を成さなかったのだが、そのとき、ボクは“かかしの語源”の仮説を立てた。かかしは、一本足である。少なくとも昔から見ているものは、竹か木の棒のようなものを地面に突き刺して立っているものだった。だから、ボクはかかしの立っている状態を、“片足(かたあし)”の状態と見た。そして、片足=かたあし→かかあし→かかし……と、その語源を推測したのだった。見事な推測だと自負した。どうだ、参ったか。と、周囲を見回した。誰もいなかったが。ボクはその仮説に、かなりの自信を持ってもいたのだ。誰かに話すと、「なるほどそうかも知れんねえ。まあ、どうでもいいけど」と、後半は別にして、前半の言葉だけみると、それなりに評価を得ていた。

  しかし、それから数ヶ月が過ぎたある日、ボクはある本の中で、かかしの語源に関する記述と出会う。唖然とさせられた。ボクの仮説はものの見事に崩される。まるで、ゴジラが東京の街をズタズタにしていったみたいに、ボクの「片足→かかし」論は、木端微塵(こっぱみじん)に粉砕(ふんさい)された。

 かかしの語源はもっと奥が深かった。かかしは「嗅がし」の意味ではあるまいか?という話だ。昔、獣の肉を焼いて串刺しにしたものを田畑に刺しておいた。その臭いを嗅がせて、鳥獣を退散させるためだ。農作物を荒らそうとする鳥獣を近寄らせないために、彼らの肉の臭いを嗅がせる……。もっともらしい。実にもっともらしい。もちろん、広辞苑にもそのことは書かれていた。

  「片足→かかし」論の軽薄さに気付くと、ボクは再び周囲を見回した。広辞苑には、かかしの意味について、こういう記述もあった。“みかけばかりもっともらしくて役に立たない人。みかけだおし。”ますます肩身が狭くなって、今度は周囲を見回すことも控えた。かかしの話は、実はこれだけでは終わらないのだが、今回はこれくらいにしてやめとこう……


「座って、釣りをするかかし…」への1件のフィードバック

  1. この案山子、最初は立って、竿出していたんですよん・・・。
    さらにスゴいのは、この竿先にテグス(釣り糸)もぶらさがってたりするんですぜ。

    ・・・針はついてねーけどww。

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