hisashinakai
ボクらの不発弾事件
先日の、東京・不発弾処理の記事。
不発弾のことなら、黙っていられない。
早速、本題に入る……小学校四年の頃のことだ。
その十数年前、ボクたちの育った内灘の砂浜は、
アメリカ軍の砲弾試射場として接収されていた。
特にわがゴンゲン(権現)森の海岸は、着弾地点になっていて、
そこでは座り込む地元の母ちゃんたちのそばで、
轟音、そして地響きとともに砂塵が舞っていたのだ。
この事件は、日本中を揺るがし、当時の貧乏な漁村は一躍有名になった。
しかし、ボクらはそんなことなど、な~んにも知らないまま育ち、
一応子供としての社会的地位?を得るようになると、
ごくごく普通に砂浜で遊ぶようになっていた。
夏休み終わりがけのある日。
ボクと、一つ年上のTと、もうひとつ年上のYは、
砂浜に埋まっていた不発弾を見つける。
信じてもらえないかもしれないが、ボクたちの砂浜には、
このような不発弾がいっぱい?埋まっていて、
ボクらはこれらを「バクダン」と呼んでいた。
今から思えば、当たり前すぎる呼び方だが、
その響きは、子供心にもなかなか痺れるものがあった。
ボクたちが見つけたバクダンは、いつも見るものとは
少し変形?して見えていた。
後部の方が抜け落ち、そこには芯棒のようなものがあった。
その棒が、子供心にも持ち運びの利便性を認識させていたのだった。
夏休みの終わり頃と言うのは、
少年たちにとって、夢や希望が一度に消え失せ、
もうすぐ訪れる二学期への疑念や、極度の脱力感に襲われる時だ。
……誰言うとなく、このバクダンを持って帰ろうということになる。
ボクたちは代わる代わる持つところを変えながら、
ゴンゲン森を抜け、砂丘の畑の中を歩いた。
当然だが、何度も何度も足を止め、バクダンを砂の上に放り投げ、
自分たちもその度にドスンと座り込んでいた。
普通であれば、三十分ほどの行程が、その何倍もの時間を要した。
そして、夕暮れ近くになって、ようやくYの家の後ろの崖に辿り着き、
そこにバクダンを埋めたのだった。
数日後、全く何事も無かったかのように二学期が始まった。
しかし、学校で久しぶりに友人たちの顔を見てしまうと、
あの“偉業”について、黙ってはいられなくなった……。
そのまた数日後、Yの家の前に二台の軍用トラックが止まる。
数人の自衛隊員が、ボクたちが埋めたバクダンを調べている。
そして、バクダンは、そのままトラックに載せられて行ってしまった。
当然、当たり前のように、ボクたちは超大目玉を喰らった。
もし、もし、あれがああなって、こうなっていたらと考えると、
今でも背筋が寒くなるのである。
ついでに、最近知った話だが、昔使われていたバクダン、
いや砲弾にはテスト用に砂が詰められていたものもあったそうだ。
それには、SANDの頭文字「S」と記されていたらしい……