会津を旅するということは
会津若松は不思議な街だった。
NHKの『八重の桜』を毎週欠かさず見ているが、その影響もあって、自分の中にも会津という国自体への“同情”みたいなものと、“憧れ”みたいなものが生まれていた。そして、会津を訪れてみて、それがものの見事に自分の中で形になっていくのを感じた。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、戊辰戦争時に会津で起きた出来事は、歴史上、全国どこにも例のないことだという意味のことを書いている。それは、最も不幸な結末に至った国という意味でもあり、読みながら体の中が熱くなったのを覚えている。
圧倒的な数の官軍に迫られ会津藩は、最後の籠城戦を決意した際、婦女子にも城内に入るよう指示を出していた。しかし、食料を浪費してしまうだけと判断した多くの婦女子は、敢えて城に入らなかった。そして、彼女らは敵が迫るに及び自ら命を絶つ。
藩の家老・西郷頼母の妻や娘たちが自刀した話は、あまりにも有名だ。
そして、日本の悲劇を象徴するような、白虎隊の少年たちの死。彼らもまた、自ら若い命を絶っていることが虚しい。
その後、会津藩はその存在をも打ち消されるように、国名も失い、下北半島の端へと移される。しかし、厳しい自然条件のその土地も、決して藩士やその家族たちをやさしく迎えてはくれない。そこでも多くの会津人が命を落とす。
廃藩置県が施行された後も、会津若松には、結局、県庁は置かれなかった。何よりも、“朝敵”とされた不名誉は、誇り高い会津人にとって、どれほど悔しかったことだろう。
会津を観光するというのは、そういった会津の人たちの無念さに浸ることだ。そして、その不運や不幸の中からも、人間は必ず希望を見つけたり、勇気を振り絞るということを発見することだ。そして、さらに、新しい時代の中に、山本覚馬をはじめ多くの偉人を輩出させた会津の魂に触れることでもある。
今回会津で、旧東京帝大や旧京都帝大の総長を務めた山川健次郎などの人物像に触れた。
大河ドラマにもあったように、彼らは戊辰戦争の最中、家族によって家名を守るためや自身の未来を拓くために生かされている。そして、このような逸話が美しいのは、小説や映画の中ではない事実として伝えられているからだ。
会津には、磐梯山もあり、猪苗代湖もあり、いい温泉もある。鶴ヶ城、日新館、御薬園、飯盛山、その他、会津を知る術が多く残されている。
西から追いかけてくる台風を逃げるように、忙しなく会津に向かっていたが、会津は青空で迎えてくれた。
何だか、不思議な勇気を、いっぱいもらったのだ……