カテゴリー別アーカイブ: 母のこと編

母の笠を吊るした足軽屋敷

足軽1

金沢長町の大野庄用水沿いに、二棟の足軽住宅がひっそりと佇んでいる。

二つを合わせて「金沢市足軽資料館」という。

1997年現在地へ移転され、足軽たちの生活や仕事などを紹介する展示計画をさせていただいた。

笠

今も玄関に吊り下げられている古い笠は、当時母が畑作業などで実際に使っていたものだ。

時代考証などというむずかしい話を通さないまま、生活感を出すための演出として笠を吊るした。

ちなみに横にある蓑については記憶がない。

母は、何も言わずに自分の笠を譲ってくれた。

しかし、後日代わりにとちょっとおしゃれな麦藁帽子を買って行ったが、結局一度もその帽子を被った母の姿を見ることはなかった。

老いた母にはやはり派手だったのだろうかと思った。

そして、何だか申し訳ない気持ちになったまま、それからしばらくして母は畑にも出られない身体となってしまった………

 

ところで、加賀藩の足軽たちは庭付きの一軒家に住んでいて、城下にはいくつかの足軽町が形成されていた。

庭があったのは野菜や果物などの食料を自給するためだ。

展示されている二棟は、清水家と高西家という。

特に屋敷道明先生と調査に出かけた清水家では、刀箪笥が現代まで使われていたり、古い証文などが見つかったりと楽しい思い出がある。

清水家の方は実際に住まわれていて、その分、資料が残されていたのだろう。

高西家からは展示資料らしきものは出てなく、展示は加賀藩の足軽に関する解説が主になった。

納戸

屋敷先生から教えていただいた足軽たちの日常は、まさに生活感が生々しいくらいに伝わってきて興味深かった。

内職などで何とか家計をやりくりしながらも、家族寄り添い平和な毎日を過ごしていた様子が想像できた。

納戸1

参考にと新潟県新発田市に残されていた足軽の住まいを見に行ったが、それはまさに長屋であり、加賀藩の足軽たちの境遇がいかに恵まれていたのかを知った。

そして、さらに驚いたのは、戦後の住宅がこの足軽屋敷の間取りなどを参考に造られたといった話だった。

たしかにオープン前日、周辺住民に公開された時、何人かの見学の方が「昔のうちもこんなんやったねえ」と語り合っていた。

納戸(なんど)などの部屋の呼び方も懐かしく、自分自身でも子供の頃の生活空間の温もりのようなものが蘇ってくるような気がしていた。

この後、近所の長屋門が残る高田家の仕事も続いた。

そして、長町の武家文化紹介に少しだけだが貢献できたような、そんな錯覚が今も続いているのだ………………

メモ

誕生日~暖かい午後の焚き火

58回目の誕生日となった日は、朝から美しく晴れ渡り、空気もほんわかと暖かくて、当事者としてはまるで人徳がそのまま表現されたのかと、錯覚を起こしてしまいそうな一日であった。

午前中は会社で会議があり、苦虫をつぶしたような顔でとおしたが、帰り際には草津で働き始めた次女から誕生日定番型のメールが届いていたりもして、一気に気持ちも緩んだ。

今日は何をするのかと聞いてきたが、そのときは天気もいいので歩きにでも行くかなと答えておいた。

誕生日だからと言っても、特に変わったことがあるわけではない。

午後になり、歩きに行くよりも、昨年から裏の無目的空き地に放置されてある、解体したオープンデッキの廃材を処分しなければなるまいと思いたつ。

処分すると言うのは、燃やすことである。

そして、同じく昨年枯らしてしまった木も、いっしょに燃やそうと考えた。

その木は、内灘のこの地に家を建てる時、母が隣地との境界線に沿って植えてくれたものだった。

母はその木を「モクデ」と読んでいたが、詳しいことは知らない。

隣りの畑が駐車場になる際に、どうしても移植しなければならなくなり、かなりきつかったが半日がかりでやった。

しかし、その時のやり方か、後の処置がよくなかったのだろう。両方もありうる。

移植一年目は葉も茂り、白い花も咲かせたが、翌年つまり昨年には全く葉も出なくなり、あっという間に生気を失っていった。

専門家に頼んでおけば問題なかったのだろうが、母もどこかから枝を切ってきて挿し木しただけのものだったから、安易に考えてしまったのだ。

四月の初めに、ただ無残に立ち尽くしているだけのその木を根元から切り落とした。

ひょっとして、また新たな芽が吹き出し、そこから元のように葉を茂らせてくれたらと秘かな期待もしている。

細かく折っておいたその木にまず火をつけた。

心の中で、母にすみませんと謝り、それから、それらがすべて灰になるのを見極めて、デッキの廃材を組み合わせていった。

20度を超える乾燥した空気の中で、焚火はすぐに大きくなり、デッキの廃材も半分以上は燃やし尽くした。

まだ半分は残っているが、なかなか一度に燃やせる量ではない。

この家に住むようになってから、よく焚火をした。

今はうしろの斜面も美しく整備されているが、かつてはニセアカシヤの雑木林であり、その枝が大きく被さってきていて、弱いニセアカシアの枝は強風のあとなど折れて落ちてきた。

それらを拾い集め、家の紙系のゴミなどと一緒に燃やした。

もともとが焚火大好きニンゲンでもあったので、月一回ぐらいの楽しみにもなった。

じっくり火と向き合っていると、アタマの中からすべてがなくなったり、逆にアイデアがいろいろと浮かんだりと楽しい体験ができる。

焚火をする時には、必ずポケットに文庫本を一冊差し込んでおくことも忘れない。

今回は、今ずっと読み続けて四冊目に入っている、民俗学の宮本常一のものを読みながら火の番をした。

焚火の前で、昔の山村の暮らしを読み、思い浮かべるのはなかなかいいものだ。

三時間ほどして、一応一区切り。

いつも思うのだが、あれだけの木片が、燃えてしまうとこれほどまでに少なくなってしまうのかと不思議さを感じる。

うちの無目的空き地にも隣地にも、だいこんの花が咲きまくっていた。

じっくり見てみると、白やうす紫の花びらが素朴に美しい。

中には立派な大根が地上から顔を出しているものもある。

放っておいても何かが生まれてくる“自然さ”を感じる。

そして、春はもうひとつ、嬉しいものを届けてくれた。

家の横でひっそりと存在する、膝くらいの丈しかない木々に花が咲き始めていたのだ。

これも母が植えてくれていたものだった。

家が建ってから、家の横の砂場にどっしりと座り込んで作業をしていた母の姿が懐かしい。

ボクもそれから、せめて花くらいは家の周りに植えようと思うようになり、そうしている。

この木は大事に育てていかなければならない。

ところで、この前気が付いたのだが、この文章で「無目的空き地」と書いている裏の場所なのだが、ついこの前まで「多目的空き地」だったはずで、いつの間にか変わってしまっている。

自分がそうしているだけなのだから、今更何を?なのだが、つまり、何となく近頃は無目的と多目的との境目が難しくなっている…、そんな気がするのだ。

まあ、それはそれとして、誕生日に焚火をする。それだけでもなかなかいいものなのであった……

 

 

 

 

 

カーネーションと古い鍬と母のこと

 赤いカーネーションが、窓辺に置かれている。ボクにはもう母親はいないが、子どもたちが自分たちの母親のために買ってきたものだ。

 ふと、母が死んでから何年が過ぎただろうか…と思った。実は、ボクは人が死んでから何年が過ぎたかということに関して、非常に記憶力の弱いニンゲンだ。

 父のことも母のことも、実兄のことも、義兄のことも、後輩のことも確かな答えが出てこない。およそ何年ぐらい前というのは分かるが、どうしても正式な年月は出てこないのだ。ただ、そうかといって、当然のことながら、その人たちのことを忘れていることはなく、いつもボクの中には大切な存在として残っている。

 母の日にカーネーションを贈ったりするようになったのは、結婚してからだ。それまではほとんど何もしたことはなく、畑仕事の際に使う麦藁帽子のようなものを買ってあげたことがあったが、母はそれをほとんど使わなかった。恥ずかしかったのだろう。

 母が一般的に言うおしゃれとかをしている姿を、ボクは一度も見たことはなかった。ボクは母が四十歳の時に生まれた子で、元来漁師だった家に嫁に来た気丈夫な母の姿しか知らなかった。小さい頃はただ一日中働きっ放しの母しか知らず、世の母親とはすべてこんなものなんだろうと思っていた。

 ところが、ある時、友達の母親を見てショックを受けた。その母親は化粧をしていた。当たり前と言えばそれまでだが、母親というものは化粧などする人種ではないと思っていたので、完璧に驚いていた。

 母は、たぶん友人たちの母親の中でも最も齢を食った一人だったかもしれない。化粧どころか、手もカサカサで顔はしっかり日焼けしていた。着ているものも女らしいというか、そういう類の小ぎれいなものではなかった。

 授業参観に母が来ると、何人かの友達が“ばあちゃんが来とらんか?”と聞いてきた。中学の時、骨盤骨折で入院していた時も、母が来ると同部屋のおじさんたちから、“ばあちゃん来たぞ”と言われた。今ではそれも仕方なかったろうと思うが、その当時は何となくイヤだった。恥ずかしかった……

 東京の大学に行くようになって、ボクの母親像は変わる。日常的に身近にいなくなることによって変わっていくというのは皮肉だが、現実はそういうものなのかも知れない。一年に何回しか顔を見ない母の存在は、自分でも驚くほどに大きなものになっていく。子供の頃に母に求めていたものが、何気ないことから蘇ってきたりする。

 周辺の状況はほとんど覚えていないが、まだ保育所に行くようになったばかりのことだろうか…。

 ある日、家からかなり離れたところで遊んでいたボクは、目の前を走り過ぎていくトラックの荷台に母の姿を見つけた。何人かの女の人たちと一緒に母もボクを見ていた。

 ボクは母がどこか遠くへ行ってしまうと思ったに違いない。とにかく一目散に走りだした。わんわんと泣き喚きながら、トラックを追いかけはじめていた。その当時のトラックだから、それほどスピードが出ることもなかったのだろう。ボクはそれから百メートル以上走った。

 トラックが止まった。運転手がボクを見つけたのか、荷台にいた誰かが運転手に止まるように頼んだのか、とにかくトラックはボクのかなり前で止まり、ボクは何人かの人に担ぎあげられるようにして荷台に立っていた。

 母たちは、金沢の大野港に水揚げされる魚の処理などで動員されていたのだろうと思う。かつて一時代を築いた漁業の達人たちの村・内灘だ。大漁の知らせが入ると、魚の処理に慣れた女たちが召集され、港へと運ばれていったのだろう。

 それからどうなったかは、とにかく断片的にしか覚えておらず、ボクは港の近くの知り合い(ボク自身は全く知らなかったが)の家に置いて行かれた。はっきりと覚えているのは、その家のそれほど明るくない居間で、同じ年頃の娘さんらしき少女と、タマゴごはんをひたすら食べていたことだ。湿った冷やご飯にかけられた生タマゴの味も忘れてはいない。

 大人になってから、母の存在はこの話が原点になった。あの時ボクは真剣に母がいなくなると思っていたに違いない…と思うようになった。母を追って必死に走っていた自分を、生来の甘えん坊なのだと思うようにしていたのかも知れない。

 母は、ばあさんになってからやさしくなった。もともと持ち合わせていたのかも知れないが、見た目にも、はっきりとやさしさが感じられるようになった。いつもニコニコするようになり、照れ隠しのような笑い方なのだが、ボクはその表情にはじめて母の幸福感を思ったりした。朝から晩まで働き続け、何の楽しみもなかったような母にようやく静かな日々が訪れたのだ。

 母が体調不良を訴えたのは、父の初七日のあくる日だったと思う。休日の病院へ運び、翌日の朝、様子を見に行った兄から母の異常が知らされてきた。そして、そのまま母は半身不随になり、二度と立ち上がることも歩くこともできなくなった。

 しかし、それからまた母は母なりに長い年月を必死に生き、最期を迎えるまでの間、ボクは完璧に母の子供に戻ることが出来たと思う。そして、亡骸(なきがら)となった母が家を去る日、ボクにとっては最初で最後の、化粧をした母を見ることも出来た……

 ボクの家の物置には、古ぼけた一本の鍬(くわ)が入っている。

 ほとんどの物が現代の道具類である中、その鍬だけが丸みを帯びた木の柄の部分や、朽ちかけた刃の部分に時代がかったものを感じさせている。

 連休の終わり、ボクは二年ぶりに家の周りの空き地に花を植えようと思い、その鍬を持ち出していた。

 母が昔から使ってきた鍬だ。内灘の砂丘が一面の畑だった頃、時々母に連れられて遠くの畑まで歩いた。乾いた畑で鍬を打つ母を常に視界に入れながら、まだ幼かったボクは映画か漫画のヒーローを自演する遊びをしていたように思う。

 空にはヒバリが飛んでいた。ヒバリは巣のある場所から離れたところに降り、そこから地上を走って巣のある場所へと移動する。そうやって、巣の在りかをカムフラージュしているのだということを、ボクはその頃どういうわけか知っていた。母が教えてくれたのかどうかははっきりしないが、ボクは母と一緒にいた畑で、羽を細かく動かしながら鳴くヒバリを見上げていたのだ。

 それからもう少し大きくなり、小学校の高学年くらいになると、ボクがその鍬を持って畑の土をおこすようになっていた。小さいながらも、畑全体を何等分化する線を足で引き、その線に合わせて畑の土を耕していく。それはかなりの労力を要する作業で、ボクはいつも途中でダウンしそうになっていたように思う。

 ボクの担当はきれいな砂の場所で、土をおこすのも無理なくできたが、母が鍬を打つ場所では、たまに雑草や小さな木の根っこが混ざっていた。そんな時には、鍬の手を一度止め、耕した砂の中から草や木の根っこなどを取り出し放り投げる。

 今、自分の家の荒れ気味になった空き地を耕すとき、ボクはかつて母がやっていた、その仕草を自分がやっていることに気付く。そして、ちょっと不思議な感覚で、もう一度鍬を持ち直し、その柄の部分に母の手の感触を感じたりする。

 母はよく言われる苦労人という人種だ。あの時代の人には、よくあるパターンなのかも知れない。大正四年に生まれ、高等小学校を出て神戸の大学教授の家に奉公に出され、うちに嫁に来て、戦争、漁業の衰退による貧困、そして病による夫との死別を経験した。そして、まだ若かった母は、義父(ボクの祖父)に説得され、亡き夫の弟(ボクの父)と再婚する。させられたと言うべきか…。その時代の田舎では、よくある話だとも言われる。

 そんな母だったが、気丈夫な一面だけでひたすら頑張ってきたのだろう。一度だけ、祖父母の前で泣く母を見たことがあったが、幼かったボクはただぽつんと横に座っていた。ボクの存在は大したものでもなかったのだろうが、今でもその時の母の泣き声は、はっきりと耳に残っている。母はまた、祖父にとっても頼りになる存在だったようだ。

 母は、この世での最後の夜を、ボクの長姉である自分の長女と過ごした。すでにその時が来ていると聞かされてからは、兄弟姉妹が交代で付き添っていたのだが、長姉だけは事情があって戻れず、ようやく駆け付けたのだった。

 すでに意識のない母だったが、これで安心したのだろう。早朝、静かに息を引き取った。93歳の秋だった………