カーネーションと古い鍬と母のこと


 赤いカーネーションが、窓辺に置かれている。ボクにはもう母親はいないが、子どもたちが自分たちの母親のために買ってきたものだ。

 ふと、母が死んでから何年が過ぎただろうか…と思った。実は、ボクは人が死んでから何年が過ぎたかということに関して、非常に記憶力の弱いニンゲンだ。

 父のことも母のことも、実兄のことも、義兄のことも、後輩のことも確かな答えが出てこない。およそ何年ぐらい前というのは分かるが、どうしても正式な年月は出てこないのだ。ただ、そうかといって、当然のことながら、その人たちのことを忘れていることはなく、いつもボクの中には大切な存在として残っている。

 母の日にカーネーションを贈ったりするようになったのは、結婚してからだ。それまではほとんど何もしたことはなく、畑仕事の際に使う麦藁帽子のようなものを買ってあげたことがあったが、母はそれをほとんど使わなかった。恥ずかしかったのだろう。

 母が一般的に言うおしゃれとかをしている姿を、ボクは一度も見たことはなかった。ボクは母が四十歳の時に生まれた子で、元来漁師だった家に嫁に来た気丈夫な母の姿しか知らなかった。小さい頃はただ一日中働きっ放しの母しか知らず、世の母親とはすべてこんなものなんだろうと思っていた。

 ところが、ある時、友達の母親を見てショックを受けた。その母親は化粧をしていた。当たり前と言えばそれまでだが、母親というものは化粧などする人種ではないと思っていたので、完璧に驚いていた。

 母は、たぶん友人たちの母親の中でも最も齢を食った一人だったかもしれない。化粧どころか、手もカサカサで顔はしっかり日焼けしていた。着ているものも女らしいというか、そういう類の小ぎれいなものではなかった。

 授業参観に母が来ると、何人かの友達が“ばあちゃんが来とらんか?”と聞いてきた。中学の時、骨盤骨折で入院していた時も、母が来ると同部屋のおじさんたちから、“ばあちゃん来たぞ”と言われた。今ではそれも仕方なかったろうと思うが、その当時は何となくイヤだった。恥ずかしかった……

 東京の大学に行くようになって、ボクの母親像は変わる。日常的に身近にいなくなることによって変わっていくというのは皮肉だが、現実はそういうものなのかも知れない。一年に何回しか顔を見ない母の存在は、自分でも驚くほどに大きなものになっていく。子供の頃に母に求めていたものが、何気ないことから蘇ってきたりする。

 周辺の状況はほとんど覚えていないが、まだ保育所に行くようになったばかりのことだろうか…。

 ある日、家からかなり離れたところで遊んでいたボクは、目の前を走り過ぎていくトラックの荷台に母の姿を見つけた。何人かの女の人たちと一緒に母もボクを見ていた。

 ボクは母がどこか遠くへ行ってしまうと思ったに違いない。とにかく一目散に走りだした。わんわんと泣き喚きながら、トラックを追いかけはじめていた。その当時のトラックだから、それほどスピードが出ることもなかったのだろう。ボクはそれから百メートル以上走った。

 トラックが止まった。運転手がボクを見つけたのか、荷台にいた誰かが運転手に止まるように頼んだのか、とにかくトラックはボクのかなり前で止まり、ボクは何人かの人に担ぎあげられるようにして荷台に立っていた。

 母たちは、金沢の大野港に水揚げされる魚の処理などで動員されていたのだろうと思う。かつて一時代を築いた漁業の達人たちの村・内灘だ。大漁の知らせが入ると、魚の処理に慣れた女たちが召集され、港へと運ばれていったのだろう。

 それからどうなったかは、とにかく断片的にしか覚えておらず、ボクは港の近くの知り合い(ボク自身は全く知らなかったが)の家に置いて行かれた。はっきりと覚えているのは、その家のそれほど明るくない居間で、同じ年頃の娘さんらしき少女と、タマゴごはんをひたすら食べていたことだ。湿った冷やご飯にかけられた生タマゴの味も忘れてはいない。

 大人になってから、母の存在はこの話が原点になった。あの時ボクは真剣に母がいなくなると思っていたに違いない…と思うようになった。母を追って必死に走っていた自分を、生来の甘えん坊なのだと思うようにしていたのかも知れない。

 母は、ばあさんになってからやさしくなった。もともと持ち合わせていたのかも知れないが、見た目にも、はっきりとやさしさが感じられるようになった。いつもニコニコするようになり、照れ隠しのような笑い方なのだが、ボクはその表情にはじめて母の幸福感を思ったりした。朝から晩まで働き続け、何の楽しみもなかったような母にようやく静かな日々が訪れたのだ。

 母が体調不良を訴えたのは、父の初七日のあくる日だったと思う。休日の病院へ運び、翌日の朝、様子を見に行った兄から母の異常が知らされてきた。そして、そのまま母は半身不随になり、二度と立ち上がることも歩くこともできなくなった。

 しかし、それからまた母は母なりに長い年月を必死に生き、最期を迎えるまでの間、ボクは完璧に母の子供に戻ることが出来たと思う。そして、亡骸(なきがら)となった母が家を去る日、ボクにとっては最初で最後の、化粧をした母を見ることも出来た……

 ボクの家の物置には、古ぼけた一本の鍬(くわ)が入っている。

 ほとんどの物が現代の道具類である中、その鍬だけが丸みを帯びた木の柄の部分や、朽ちかけた刃の部分に時代がかったものを感じさせている。

 連休の終わり、ボクは二年ぶりに家の周りの空き地に花を植えようと思い、その鍬を持ち出していた。

 母が昔から使ってきた鍬だ。内灘の砂丘が一面の畑だった頃、時々母に連れられて遠くの畑まで歩いた。乾いた畑で鍬を打つ母を常に視界に入れながら、まだ幼かったボクは映画か漫画のヒーローを自演する遊びをしていたように思う。

 空にはヒバリが飛んでいた。ヒバリは巣のある場所から離れたところに降り、そこから地上を走って巣のある場所へと移動する。そうやって、巣の在りかをカムフラージュしているのだということを、ボクはその頃どういうわけか知っていた。母が教えてくれたのかどうかははっきりしないが、ボクは母と一緒にいた畑で、羽を細かく動かしながら鳴くヒバリを見上げていたのだ。

 それからもう少し大きくなり、小学校の高学年くらいになると、ボクがその鍬を持って畑の土をおこすようになっていた。小さいながらも、畑全体を何等分化する線を足で引き、その線に合わせて畑の土を耕していく。それはかなりの労力を要する作業で、ボクはいつも途中でダウンしそうになっていたように思う。

 ボクの担当はきれいな砂の場所で、土をおこすのも無理なくできたが、母が鍬を打つ場所では、たまに雑草や小さな木の根っこが混ざっていた。そんな時には、鍬の手を一度止め、耕した砂の中から草や木の根っこなどを取り出し放り投げる。

 今、自分の家の荒れ気味になった空き地を耕すとき、ボクはかつて母がやっていた、その仕草を自分がやっていることに気付く。そして、ちょっと不思議な感覚で、もう一度鍬を持ち直し、その柄の部分に母の手の感触を感じたりする。

 母はよく言われる苦労人という人種だ。あの時代の人には、よくあるパターンなのかも知れない。大正四年に生まれ、高等小学校を出て神戸の大学教授の家に奉公に出され、うちに嫁に来て、戦争、漁業の衰退による貧困、そして病による夫との死別を経験した。そして、まだ若かった母は、義父(ボクの祖父)に説得され、亡き夫の弟(ボクの父)と再婚する。させられたと言うべきか…。その時代の田舎では、よくある話だとも言われる。

 そんな母だったが、気丈夫な一面だけでひたすら頑張ってきたのだろう。一度だけ、祖父母の前で泣く母を見たことがあったが、幼かったボクはただぽつんと横に座っていた。ボクの存在は大したものでもなかったのだろうが、今でもその時の母の泣き声は、はっきりと耳に残っている。母はまた、祖父にとっても頼りになる存在だったようだ。

 母は、この世での最後の夜を、ボクの長姉である自分の長女と過ごした。すでにその時が来ていると聞かされてからは、兄弟姉妹が交代で付き添っていたのだが、長姉だけは事情があって戻れず、ようやく駆け付けたのだった。

 すでに意識のない母だったが、これで安心したのだろう。早朝、静かに息を引き取った。93歳の秋だった………


「カーネーションと古い鍬と母のこと」への4件のフィードバック

  1. ひょんなところから入りこんできたら、
    切ない母の日のお話に出会いました。
    私には分からない感覚ですが、
    でも感じるものはあります。
    母親って、やはり凄いんだなあ…って、
    あらためて教えてもらった気分です。
    ありがとうございました…

  2. 中居さんのように上手く表現出来ませんが、義父、実父、義母を順番?に見おくり、そして今年の冬も終わろうとする時期に母が、夏前に夫が逝ってしまい心にぽっかり穴が開くとはこういう事かと・・・。いろんな出来事、思い出が頭の中で交錯しています。楽天的で明るくよく笑う私も今凹んでます。時が癒してくれると信じて前向きにガンバ!

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    重過ぎました。
    コメントになって無いですよね。
    雑文集のファンの方ごめなさいです。

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