カテゴリー別アーカイブ: モロモロ研究編

香林坊日銀ウラ界隈における…こと

 金沢・香林坊の中心に建つ日本銀行金沢支店が、近い将来移転する……

 そんな話が “街のうわさ” になっているよと某氏が言う。だが、もう新聞にもデカデカと載っているし、偉い人たちも公の場で語っているから、すでに“街のうわさ”どころではないですよ… と言い返したりはしなかった。

 “街のうわさ”という表現が気に入ったからだ。

 コールマン・ホーキンスの『ジェリコの戦い』に入っている、「街のうわさ」(It’s the Talk of the town)という曲を咄嗟に思い出していた。

 あのアルバムは昔からのお気に入りで、ホーキンスのテナーはもちろんだが、トミー・フラナガンのピアノも相変わらずで、初めて聴いた十代の頃には、メジャー・ホリーのあのハミングしながら弾くベースソロが、新鮮というか、かなり印象深かった。

 それで日銀に戻るが、新聞には金沢支店は六十年の歳月を経て、かなりガタが来ているという風に書かれていた。だが、六十年などというのは大したことではないと思うし、どう見ても頑丈そうに見える。

 畏れながら、日銀金沢支店はボクにとって香林坊にあるからこそ意味がある。だから、それがどこかへ引っ越してしまうというのは非常に寂しいのである。何しろ、ボクの人生におけるサラリーマン風雲篇は、まさに「香林坊日銀ウラ界隈」によって成立していた。

 会社はもともとが日銀横の坂道を下った突き当りにあった。そして、人生最高のオアシスであり、ジャズと酒もしくは珈琲…その他モロモロの聖地だった「YORKヨーク」は、その坂を途中で九十度に曲がって少し歩いたところにあった。

 その狭い道には日銀の高い擁壁が立ち、その壁が緩く曲がっていくのに合わせて、YORKのスタンドサイン(モンクの横顔)が見えてくるのである。

 ボクにとって、日常生活の基盤はこの界隈に凝縮されていた。会社もYORKも毎日通っていた場所だ。

 もう亡くなって久しいが、マスター・奥井進さんと過ごした貴重な時間は、ボクの脳ミソのかなりの部分に染みついている。

  そもそも、まず「香林坊日銀ウラ界隈」という呼び名がどうしてできたかについて書いておかねばならない(…というほどでもないことは十分了解しているが)。

 

 ……今から二十年ほど前であろうか、YORKで俄か俳句ブームが起こり、それを先生もしくは師匠格であるマスター奥井さんが批評するといったことが、特に何の脈絡もなく行われていた。

 ほとんどが初心者であったが、YORKに集まる文化人たちはさすがに何事においても隅に置けず、その作品も、何と言うか…、とにかく非凡極まる感性に満ちあふれたものばかりであったと(少なくともボクは)感じていた。

 奥井さん自身も俳句は独学であったが、日頃から研究に余念がなく、自ら「酔生虫(すいせいむし)」という俳号で句作にいそしんでいた。

 ところで「酔生虫」の言葉の由来については、広辞苑等の信頼できる辞書で「酔生夢死」を調べれば明解で、読んで字のごとくだから敢えて解説しない。

 そして、当時のボクはというと、仕事漬けによる滅私状況から脱却するため、「私的エネルギー追求紙『ポレポレ通信』」なる雑文集を自主発行し始めていた。

 そのよき理解者たちであり、熱心な読者たちこそ、YORKの常連の人たち(ヒトビトと呼んでいた)であった。

 ……話はいつものように長くなったが、この『ポレポレ通信』の紙上で、俳句研究会?の作品を紹介していこうという企画がスタートする。

  そして、(ややチカラを込めて言うが…)そのコーナータイトルこそが、『香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情』であった。

 このフレーズは発作的な感じで浮かんできた。奥井さんはそれを聞いて特になんとも言わなかったが、日銀ウラという呼び方はその後何気ない会話の中によく使われるようになっていった。

 もともと『ポレポレ通信』なるものは月刊であり、YORKではそれを見越して皆さんが自作の俳句を店に置いていった。それらを月に一回まとめて奥井さんが批評する。先にも書いたが、客たちは生徒(門下生)さんであり、奥井さんは先生である。

 ボクの文章中にも奥井さんは“酔生虫先生”として登場した。そして、この先生はいたって厳しいのである。

 というよりも、生徒さんたちがあまり先生の言うことを聞かず、先生としては厄介な生徒ばかりでねえ…というシチュエーションでの展開にしていた傾向もあった?

 個性的な生徒さんたちの作品をいくつか紹介しよう。

 いつも話題に上り、ボクもいつも楽しみにしていたのが、I平さんという風流人の作品だった。I平さんの句は毎度の如く深く考察し、時には笑い、時にはしみじみとし、時には途方に暮れた…?

 ちちくびは冬枯れしかな冷奴  

 雪に臥し尿つれなくも春一瞬 

 妻は杖なぐる様して雪払う

 風邪ひくな南部ふうりん里心

 啼き飽きてあっけらかんと蝉骸(せみむくろ)

 最初の句は先生もよく理解できず、直接一平さんに聞いてくれと言われた問題作。

 二番目の句はそのとおりで、小便に溶けてゆく雪を見ていると、まるで春の訪れを見ているようだったが、その小便も尽きてしまうと…みたいな感じ。

 三句目はI平さんの日常、夏が過ぎているのにまだ吊られたままの風鈴を詠んだ四番目の句や、蝉骸の潔さみたいなことを詠んだ五番目の句など、このあたりは、I平さんの独壇場。単純に凄い人だと思わせた。

 I平さんはいつも夜遅くにYORKに現れた。YORKの客らしい知識人であり、独特の感性を持った才人だった。

 会話も面白く、飲みながら楽しい話を聞かせてくれた。亡くなってからもう何年も過ぎている。

 こうした類の俳句から、紅三点の女性俳人による麗しい句など、バラエティーに富んだ香林坊日銀ウラ界隈の俳句事情だったが、時には、羽目を外した句もあり、これがまた界隈事情に楽しい時間をもたらしてくれた。例えば……

 多飲麦酒百花繚乱便器華

 汚い話で申し訳ないが、これはYORKのトイレから出てきた飲み過ぎの某門下生が即興で読んだ一句である。ジャズ的だが、敢えて説明しない。

 妙な自信がついてくると、もともと発想の豊かな生徒さんたちは独自の世界?を切り開いていった。こういう漢字だけの句など、とにかく創作意欲も能力も高まっていく。

 しかし、奥井さん、いや酔生虫先生はトイレを汚されたこともあって? 漢字だけの句? そんなこたア、どうでもいいんです……と一刀両断に切り捨てる。すかさずこの瞬間を文章にするのである。

 こうしたことが、「香林坊日銀ウラ界隈における俳句事情」の象徴的な光景であった。かなり楽しかった。

 俳句の出来がよかろうと悪かろうと、うす暗い店の中にジャズが流れ、その音の風にタバコの煙が揺れていた。

 香林坊から日銀がなくなり、この麗しい思い出とか記憶とかに彩られた日銀ウラ界隈もなくなる。

 街のうわさの中に、別にどうでもいいけどねという空気感もあれば、その後の使い道に期待するといった空気感もある。

 どちらでもいい。街が変わっていくのは当たり前だ。ただ、俳句事情は衰退しても、YORKヨークはまだまだ静かに佇んでいてほしい。

 そして、次にできる建物が何であっても、~ウラ界隈という呼び方は多分しないだろうと思っている………

  

金沢的広告景観雑記

寺島邸1L

1.サインにおける「金沢らしさ」

もう25年ほど前の話である。金沢市に歩行者用の本格的な観光サイン計画を提案し、さまざまなプロセスを経て実施が決まった。そして、サイン本体には指揮者の譜面台をモチーフにしたデザインが採用された。その後、そのデザインはどんどんとバリエーションを増していく。イメージが固定化されていき、特に決まり事ができたわけではないが、さらに広く応用、展開されるようになった。金沢らしい空間の一隅で、金沢のサインはどうあるのが好ましいか? ちょっと大袈裟だが、少なくとも、それに近い観点での思慮が生まれた。

その時には気が付いていなかったが、それは間違いなくサインにおける「金沢らしさ」を考える起点にもなっていた。

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金沢には、その歴史文化の匂いを軽視できない空気がある。そのことを踏まえていくと、金沢の観光サインにはそれなりの役割が課せられていることに直面する。そして、その最も端的な要素が、“控えめに”というニュアンスだったように思う。もちろん質感などに対する配慮は言うまでもなく、表示の基準づくりなどについても、地方都市としてはかなり先を行っていたのは間違いない。ただ、狭い路地や歴史空間などにおけるサインのポジションを考える時、そこにはやはり、シンプルであることの重要性が共通認識として存在していった。

元来、金沢にはデザインを議論する環境があった。多くのクリエイターたちは、自身のメッセージと表現手法に苦心しながら、そのことを楽しんでもいた。景観という言葉も使うことはなかったが、このようなことが原点になって、金沢らしい景観という課題を考えるようになっていったのだと思う。

2.低さのこだわり…兼六園周辺などにおける展開

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金沢の代名詞とも言える兼六園周辺ゾーンでは、“控えめに”の典型的な例を見ることができる。近年、金沢城公園や21世紀美術館、しいのき迎賓館などのスポットが人気を集め、さらに歴史博物館など古い施設の再生が計画される中、一帯は「文化の森」と称され整備が進められてきた。

大木が並び豊かな季節感を醸し出す森。用水と散策路。そして憩いの象徴となる広場。それらの中に美術館や博物館などが建つ。言わば、金沢文化を直接的間接的に感受できる場所である。サインも、県と市によって鋭意検討されてきたが、ここでのサインは、既存の継続使用は別として、基本的にすべてが色調や高さに条件を付けたものばかりである。

特にサインの高さについては、特有のこだわりが幅を利かせている。それは、景観を視野に確保するという、非常にシンプルな目的のためだ。

景観を視野に確保するということは、サインはそのための妨げにならない、つまり視界を遮らないということである。そして、それらの考え方をとおして到達したのが、傾斜型の表示面を持つ、高さを抑制したサインである。つまり“譜面台型”の応用であった。

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サインを見る人は、サインの前に立つが、視界は広がっている。周囲の景観や状況を把握しながら情報を得ている。何でもないことだが、素朴にそのことに向き合い、そのことに徹した。さらにここでは、北陸特有の積雪状況についても検討され、平均積雪量を考慮するなどして根拠を持たせている。

高さと言うより、“低さの維持”を基準に置いた考え方だった。サイン自体への積雪も、それ自体にひとつの景観美があると考えた。敢えて強調したわけではないが、表示面に雪が積もった場合でも、それを手で払うという仕草そのものに、金沢らしさがあるとまで考えた。

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このようなサインの考え方には、特に際立ったデザイン性は必要とされない。繰り返すが、前述のように出来るかぎりシンプルであろうとする。そういう意味で、グラフィックの精度は別にして、本体の製作上では特に問題が発生しないようにとも考慮されている。

金沢の街中を流れる無数の用水や庭園などを紹介するサインにも、この考え方は応用され、街歩きの観光客などに親しまれている。

3.元気の表現…片町商店街などにおける展開

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前述のように、金沢では特に文化的な匂いを醸し出すデザインが歓迎される。しかし、商業ゾーンでは、景観への認識をどのように捉えるかが課題であった。

筆者は、金沢市に景観行政のセクションが生まれてすぐ、その仕事に関わるようになったが、市担当者との意見(感覚?)の違いに何度も戸惑った。よくある認識の違いで、良い景観を創るのは大きさや面積や素材でなく良いデザインである……、そのような考えの説得に、多くのエネルギーを費やしていたように思う。実際、調査対象となった地域の住民や商業者などに事例を示すと、自分が予想していたとおりの答えが返ってくることが多かった。

しかし、筆者の考えも決して深かったとは言えない。良いデザインという意味を説明しきれないでいたのも事実だった。景観の仕事はそれほど甘くはなかった。ただ、金沢市は粛々と景観行政を前進させてきている。時折、首を傾げざるを得ない時もあるが、長い歳月を経て、商業サイン環境をもしっかりと「金沢的」にまとめつつあると思う。

ところで、金沢の中心、北陸一の繁華街と言われる片町エリアでは、再開発事業が決まった。新幹線がやって来る都市らしく、その動きにますます加速がついている。それに先立ち、片町商店街では既存アーケードのサイン約100台をLED化し、両面発光の薄型でスマートなものに統一した。夜間は、お店や、商店街が金沢のPRのために掲載した、金沢市のキャッチコピー「いいね金沢」のロゴが浮かび上がっている。(※この一連のサインは、いしかわ広告景観賞・知事賞を受賞)

また、6月のはじめ、同じ片町にコカ・コーラの新しい広告サインが披露された。これも、金沢における広告景観の在り方に、ひとつのヒントを示唆するものとなっている。

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これまでにも議論されてきた「活性化と景観づくり」という、一見相反する繁華街での広告物のデザインに可能性を示したと言える。

ブランド力に負うところはもちろん大きいが、それゆえに誰もがイメージするビジュアルをシンプルにアレンジした広告サインは、大人の手法として評価されるべきだと思う。金沢という厳しい景観環境の中で、大らかにイメージを発信している。また、金沢最大のイベント「金沢百万石まつり」とスケジュールを合わせ、地元片町商店街のイベントの中でお披露目式を開催するなども、広告サインが街や地域と一体化し、歓迎される術を示した絶妙のアイデアであった。

もちろん、そのセレモニーを受け入れた地元も見事というしかない。

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その他の商店街で見られるサインにおいても、すでに整備イメージが定着する中、独自に個性的な展開を図ろうという動きが進んでいる。商店街関係者たちの意識は非常に高いレベルにあると言っていい。だからこそ、金沢の商業サイン環境は進んでいるのだ。

4.自発力の再生…新竪町周辺における展開

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片町から若者の街として人気の竪町を抜け、さらに進むと、今静かに注目を集める「新竪町通り」がある。多分何も知らずに入り口に立った人は、ただの寂れゆく、もしくはすでに寂れてしまった商店街としか見ないだろう。今は三丁目しかないという妙にドラマチックな?町だが、ここもまた若者たちの町である。

ただ、竪町と大きく違うのはその気配。竪町がよりトレンド系だとすると、新竪町は“我が道をゆく”系。気負わず自分たちのペースを守っている町なのである。もともと骨董品店などが多くあった通りだが、最近は古い店をアレンジした個性的な商品(作品)を売る店や、ユニークな飲食店ができ、訪れる人たちも個性派が多い。

金沢を普通にイメージした「古い町並み」ではないが、その町並みの中に、隠れた新しさみたいなものを感じさせる。店のファサードやウインドーなどを見ているだけでも楽しめる。金沢には美大をはじめとして、多くの大学があるということを思い浮かべさせてくれる。伝統工芸も、芸能も盛んなのであったと、何となく気付かせてもくれる。こういった通りが生まれ、息づいていくということが、金沢に特有のエネルギーが存在している証なのかも知れない。

54新竪ウインドー

 

 

 

 

 

筆者にも、たまに出かける店があるが、その店をやっている夫婦は、二人とも金沢美大の卒業生だ。しかも、二人とも県外から美大に入り、卒業後も金沢にそのまま住みついている。そういう人間たちの集まりだから、町は思慮深く、サインも実にシンプルに、さり気なく気取らず、さらに自分たち自身と、お店と、通りの雰囲気に溶け込んでいる。もちろん主張もしながら。

古くなった商店街のアーチも、新調される話が進行中らしい。ちなみに、新しいロゴもアーチ自体のデザインも、美大卒の女性クリエイターが担当している。筆者は、こういうパワーのことを“自発力”と呼んでいるが、“自発力”をもった町がいい文化を創り出していく。

かつて金沢には、ジャズや演劇やアートその他ユニークなこだわり人間たちが集う店があった。新竪町にはそんなポテンシャルがあるような気がする。歴史文化の気骨を武器にする金沢にあって、この町は欠かせない存在になっていくだろう。

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5.金沢の金沢による金沢のための表現

3年前、建築家たちが主催するフォーラムで、『トークセッション~「私たちが描く金澤とKANAZAWA」』のコーディネイターをさせていただいた。金沢で活躍する若手(一部古手もいたが)気鋭の、建築家、広告プランナー、映像プロデューサー、コミュニケーション・デザイナー、コピーライター等々に声をかけ、それぞれの立場から金沢の表現手法について語ってもらう企画を立てた。

我々の世界では、金沢が、「金澤」にも、「かなざわ」にも、「カナザワ」にもなる。また「KANAZAWA」になることもある。つまり、金沢はいろいろな顔をもつようになってきている。そのことを考えようとした。そして、セッションをとおして、それぞれが素晴らしい才能とアイデアをもち、日常の仕事の中でそのことを活かしているという頼もしさを感じた。以前、主催者の代表に筆者はこう語っていた。

「街の要素の中で視覚的な部分での建築家の責任が最も大きい。なのに建築家の皆さんは、建築のことしか考えていないのでは? クリエイターの中で、いちばん知的水準が高いのは建築家なのだから、建築家は建築と同時に、街を考えるべきです。そのお手伝いを我々は十分にできますよ…」

酒の席での放言であったが、忘れられてはいなかった。その後、このセッションの成果が十分に活かされてきたわけではないが、景観というものを考えるについても、いかに多様な感性の関与が必要かを痛感する機会となった。

金沢には優秀なクリエイターたちが数多くいる。一般の市民の中にも、ユニークな感性の持ち主が盛り沢山だ。その感性を活用しない手はない。

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金沢と景観。歴史文化都市なのであるから、その関係は深く永遠に続くものである。新幹線による国内からの流入ばかりでなく、観光の国際化もますます進み、金沢の表現はさらに多様化していくことだろう。

我々が関わっていく広告というジャンルにも、その多様性が求められていくのは明白だ。そのことにいち早く着目し、金沢らしい表現の手法を広げていくことが大切である。

 

風景は普遍的な要素の上に面白味をもち、景観は成長していく過程に面白味をもつもの…と思う。そのバランスが大切である。そういうふうに考えていくと、金沢の課題は大きいものになる。両者が重要な役割のもとに共存しているからだ。

100年と言わず、10年後の金沢を想像するだけでも、それなりになかなかスリルがある。そのスリルを楽しみながら、もう少し金沢を見ていきたいと思う。

 

※この文章は、サイン専門誌「SIGNS 2013-Autumn」に寄稿したものの原文です。

湯涌江戸村「ケムダシ」談

 金沢の山里・二俣で、19世紀の初めに建てられたという旧S田家屋敷。

 今でも二俣で続けられている大らかな紙漉きの、その源を示すお屋敷だ。

 まだ公開されていないが、かつて旧江戸村時代に隅々まで見せていただいていて、今回化粧直しをしたその外観に驚いた。

 さらに驚いたのは、屋根の正面に作られているソレ(写真)。

 曲線的な、というより、カンペキに曲線形の優雅な美しさに見惚れる…

 新築の頃にはこんな風だったのかと思うと、200年近く前の二俣辺りの空気が欲しくなる。

 で、村長のT屋先生に「アレは、何て言うんですか?」とお尋ねした。

 アレとは、つまりソレのことである。

 すると先生が、「ケムダシだよ…」と言われる。

 「それって、煙を出すという意味の…?」 「そう…」。

 はっきり言って、あまりにも安直な答えだったので、こっちは半信半疑気味。

 このまま引き下がってはいけないのだと思い、もう一度お聞きした。

  「あそこから煙を出すから、煙出し(ケムダシ)なんだよ…」

 先生は何でもないような顔で、何回同じことを聞くのだと言わんばかりに答えられた。

 そう言われれば、何でもないことなのだ。

 煙を出すから「ケムダシ」で別に悪いわけではない。

 文句があるなら、表へ出ろ! と言われる前に、すでに表にいる。

 そんなわけで、世のモノゴトは至って簡単な仕組みで出来ているのである…ということを、あらためて痛感させられた、春の晴れたある日の、午後のやや遅い時間の、ほんのひと時の出来事であったのだ。

湯涌江戸村にいた

湯涌江戸村。もう10年以上前だったか…

現在の場所への移転計画が進められている中、その計画書の中の30ページほどを受け持った。

仰々しい仕組みの仕事ではあったが、なかなか刺激的な仕事でもあった。

その中でも、フィールドワークは特に刺激が濃く、印象は深い。

眩しすぎるほどの新緑に包まれた白川や、荘川などの保存施設を見学に行った時などは、

得意の想像力で、時空の狭間にいるような錯覚に陥った。

アタマの中での会話は、なぜか東北の言葉で進められていて、囲炉裏の煙の向こうには、おしんがいたような気がする。

閉鎖された旧の江戸村では、明かりのない屋敷の中で震え上がるような霊感や、不謹慎ながら、盗人気分なども味わったりした。

解体が始まると、ある大きな屋敷の中の足場に上らせていただいた。

そして、そこで見た内側構造の素朴さや大胆さ、さらに、巧みさや力強さに胸が躍った。

解体中であったから、グロテスクさがより一層目に焼きついた。

数えきれないほどの季節を経て染み付いた、材料そのものの匂いも刺激的だった。

風雪に耐え抜き、そこに生活する人たちを代々守ってきた、昔の屋敷の逞しさみたいなものも感じた。

つい先日の、春らしく晴れたある日。

美しく装いを変えていく江戸村の屋敷たちを見ていた。

あの時見ていた荒々しい解体の光景は、すぐには甦ってこないが、しばらくすると、自分の中で鮮明に再生されはじめた。

今はみな、きれいになり過ぎて? 落ち着き払い、ちょっと澄ました感じさえする。

しかし、それはそれなりに、またいい風景でもある。

外観よりも中に入って見る生活空間が、より印象深いからだ。

民衆の歴史は、やはり生活空間にあるのだ。と、かなり過分に偉ぶっている。

屋敷から目を離すと、高台からの眺望も文句なしの清く正しい山里風景。

ここは能登ではないから、里山とは呼ばない。と、勝手にまた偉ぶる。

そして、この眺望、温泉街とは逆方向なのがいいのだろうと、勝手に納得する。

そして、なぜかのんびりとし、しばらく静かに眺めている。

 

そう言えば、お会いした江戸村村長のT屋先生とも、かなりの久しぶり的再会であった。

夢二館館長のO田先生といい、江戸村村長のT屋先生といい、お付き合いのある先生方が湯涌で頑張っていらっしゃる。

あと一人、Aという“自然の民”系プランナーの友人もいるのだが、彼の存在もこれから湯涌では必要になってくるだろう。

が、しかし、今湯涌は得体の知れない、妙な、つまりその、何と言うか軽薄な風に吹かれている? と聞く。

偉そうなことは言えないが、こののどかさはそれに耐えられるのだろうか?

いや、耐えなくてもいいのだろうか?

太陽が西に傾き、斜面から伸びたゼンマイに鋭く陽光が当たっている。風も冷たくなってきた。

これから始まりそうなことに、少しいい気分になったりしながら、一緒に行った二人と帰路についたのであった……

日本に京都があって

 久しぶりの京都。

 いつ以来だろうかと考えてみたら、去年の秋の終わりに醍醐寺へ来ていたから、大したご無沙汰でもないことに気付く。

 天気は快晴。だが日陰では寒い。前日まで春から初夏みたいな陽気で緩んでいた体が、久しぶりの冷気に引き締まる。

 目的は、京都駅前のキャンパスクラブで開催される日本サイン学会の「デザインフォーラム」。

 サインデザインを学問的に考える会で、ボクは会員ではないが、いろいろと関係している人たちがいて、もちろん仕事の上でも大事な会なので、時折参加している。

 京都で開かれるフォーラムには、これが二度目の参加だ。今回のテーマは、「古都から考える日本の景観づくり」。

 京都と金沢と奈良という、三つの“古都”からそれぞれの取り組みの発表があった。ちょっと金沢を古都と呼んでいいのかと後ろめたさもあったが、考え方の根本は一緒だろう。

 行政の担当者や大学教授、そして業界の発表はいつもどおりだったが、京都のというより、日本の代表的観光名所・先斗町の地元からの発表は興味深かった。

 特にお店のサインを整理しなくても、十分におつりがくるくらい優れた風景をもっているのだが、京都市が景観対策に力を入れ始めて、その流れに乗ったといった具合だ。

 あの狭い道にはみ出すようにして、かなり乱立状態にあったお店のサインが、行政からの指導の下で地元によって整理されたという、活動としては理想的なパターンの報告だった。

 大袈裟だが、世の中の不思議な仕組みが、日本一の歴史都市の一画で具現化されている。

 古い街ほど、新しい。古くなったものも、かつては新しかったということを、現代が証明している。

 先斗町の話を聞いていると、自分たちの存在が文化そのものだと自負している人たちは強いのだと感じてくる。

 街を美しくしようという作業を、さり気なくやってのけている。

 東京理科大の先生が講演したテーマの「CIVIC PRIDE(シビック・プライド)」という概念に合致している。

 実にカッコいい。要は未来に引き継いでいくために今を美しくしておこうということなのだろう。

 京都の至る所で『日本に京都があって良かった』というコピーの入ったポスターを目にした。

 明治維新で日本は別の国に生まれ変わったが、首都を京都へ戻さなかったことは結果オーライ的に良かったのかもしれない。

 京都の1000年以上に及ぶ歴史文化がそのことによって守られたのだと思う。

 京都が東京のようになっていたらと想像すると、背筋が寒くなる。やはり、日本に京都があって本当に良かったのだ。

 ところで、金沢はどうなんだろう…?

 ボクはたまたま金沢市が景観対策の部署を立ち上げた時から、三年間ほど駆り出されて関係する仕事に参画した。

 その時に感じたのは、景観という言葉への妙な“よそよそしさ”で、景観には、“いい”とか“悪い”という形容詞しか付かないような気がした。

 ボクの身近にあったのは風景という言葉で、風景には“切ない”や“寂しい”や、“愉しい”や“爽やかな”などといった形容詞が付く……。

 だから、根本的にはあまり力が入らなかったということだ。

 その反対にとでも言おうか、ボクは広告業界のニンゲンのくせに、自分の業界を批判するような論文を書いて、賞までいただいたが、その時審査委員長から、勇気を讃えられた?ような記憶がある。

 それはどうでもいい話だが、とにかくそういうことで夕方までフォーラムは続き、夜は夜で四条烏丸あたりの居酒屋で飲み一日は終わった。

 烏丸のホテルまで歩く帰り道は、何となく寒さも和らいだ気がしたが、飲んでいたせいだろう。

 ホテルのカフェでコーヒーを大きいサイズで頼み、ボーっとしてから、部屋に入ったのは11時頃。まあ早い時間だ。

 京都に、特に京都のこの辺りに何となく馴れた感じでいられるのは、長女が四条に住んでいたからだ。

 四条烏丸まで歩いて五分という環境に住んでいた長女は贅沢をしていたと思うが、長女もバイト代を部屋代にあてたりして、自分なりに頑張っていた。

 今は、桂に次女がいて、京都との縁は不思議と長く続いている。

 快晴の翌朝は、ちょっと早起きして京都駅へと向かった。

 出張・京都は、小さな寺ひとつ訪れることもなく帰路に、というわけだ。

 せめて春の京都の日差しを浴びながら、京都らしい名前の入ったバスターミナルの表示でも見ておこうと、駅前の日陰から日向へと足を伸ばす。

 日向はさすがに暖かい。特にどうということもなく、時計を見る。

 桜を見に来れるかは分からないが、どっちにしても、また来ることになるだろうと改札へと向かった……

休日はアイロンだ

 休日、自分でカッターシャツにアイロンをかける。

 家人がいない時を見計らって座布団の上に正座をし、左手にシャツ、右手にアイロンを徐(おもむろ)に持って、その特に右手を動かす。

 どうしてもアイロンがうまくできないシャツはクリーニングに出すが、簡単に出来そうなものは自分でやる。

 その仕分けは、多分シャツの素材などにあるのだろうと思うが、むずかしいことは分からない。

 アイロンが好きになったわけは、たぶん無心になれるからだ。

 焚火やギターなんかと同じで、一点集中型の無心状態になって、軽くて落ち着いた気分になる。

 軽いという表現は100パーセント言い得ていないが、カラダもアタマも何だか解放されたような感じになり、ヒトとしていい状態になっていくのだ。

 アイロンはそれ自体が、スーッとシャツの上を滑っていくという、あの感触がたまらない。

 その時には、口で軽く「スーッ」と言ったりもする。

 長嶋茂雄が、バットを振る時はシューッときたボールに、パシーンとバットを当てる…などと言っていたように、アイロンもシャツをパッと広げたら、その上にアイロンをサッと置き、そのままスーッと滑らせていく…なのだ。

 不思議なことには、この時に無心状態が生まれ、まるで悟りが開けていくような面持ちになっている。

 今頃の季節ならば、ほんわかとしたスチームもいい味を出す。

 この温もりや湿り気は、ちょっとイガラッぽくなっている喉なんかにも按配がよく、風邪防止の役割も果たすという重宝者でもある。

 だいたいこういった場合は、ヨーヨー・マあたりのチェロ独奏なんかをBGMにするのがいい。やはり弦楽器の弓弾きのように滑る音がマッチする。

 普段はジャズばかり聴いているが、ジャズのようにシンコペーションが強い音楽は、アイロンには向かない。オオッといきなりブレーキを掛けられたのでは、せっかく伸びたシャツの皺もまたぶり返すことになる。

 つまりアイロンには、リズムがない音楽がよく、これは無心状態をつくる上でも大切な要素と言える。

 シャツは本来ならば三枚ぐらいが適当だ。しかし、一週間のうち働きに出る日は最低五日ある。時には五枚一度にアイロン…ということになったりもする。

 長期戦になるかなと思う時は、途中にハンカチ・タイムを挟むのがいい。

 ハンカチは実にコンパクトで、その成果もすぐに表れるし、かなりの度合いで癒されたりする。

 四枚目に入ってしばらくすると、思いがけず無心になれている。こういった場合の無心には、特別な意味があったりもして嬉しくなる……?

 アイロンがすべて終わる頃には、両足ともにかなりのシビレ状態になっているのが普通だ。

 しかし、このシビレこそが、無心に、アイロン一筋に精神を統一してきた証であり、敢えて下品に足をパンパンと叩いたりなどしない。

 立ち上がって、窓外の風景に目をやり、窓を開けて冷気に触れていると足のシビレがいつの間にか消えていくのだ。

 そして、またいつの間にか、自分がアイロンをかけていたという事実すらも忘れていく。

 これが、アイロンの凄さなのだろうと思う。

 特に大したことをしでかしたわけでもないのに、この充実感は何なのだろうとも思う。

 そして、もう何十年も使ってきたアイロンに、感謝なのだ……

ビールは体育実技だ

もう一ヶ月も前になるんだと思いながら、7月30日の深夜、京都四条の某ホテル8階817号室で綴っていた文章を読み返している。

狭い机に向かって、『ビールの科学』という本の読後感想文を書こうとしていて、途中でやめた。

その一時間ほど前まで、高台寺の近くの「T界」という、いかにも京都らしい古い佇まいのお店で、ひたすら冷たいビールと好奇心をくすぐるクリエイティブな料理をいただいていた。

案内してくれたのは、F見クンというクリエイターで、その店は彼の会社の社長さんがオーナーらしかった。

F見クンは、店内の襖や壁、座布団などに施されている、非常に繊細なプリントを手掛けていた。

金沢美大に入った頃から大学院を卒業するまでは、ボクの会社でアルバイトをしている。

なかなか機転が利いて、突っ込みも鋭い優秀なスタッフだったが、本業が染色という特異な分野だったこともあり、結局その能力を活かせる会社に就職した。

それ以来だから、もう十年近く会っていなかったことになるが、「T界」から八坂神社を抜け、四条通を烏丸まで語りながら歩いた。いい時間だった。

彼の創作や実直で子煩悩な人柄については、また今度4000字ほどに簡単にまとめて書くことにしよう。

 

ホテルに戻ってシャワーをすると、37度の猛暑に耐えてきた体が汗臭さから解放された。

それにしても、午後三時すぎ、烏丸御池から四条烏丸まで歩いた時に見た人々の表情たるや、あれはすでに苦痛を通り越し、最早、どうにでもしてよ的茹だり顔であった。さすが京都だ。

これからビールのことを書こうとしているのだからと、外から買って来た缶ビールをまず一本開ける。

缶の半分ほどを飲んでから、風呂上がりの汗をもう一度拭き、さらにまた缶ビールを手にすると、あっという間に一本が空になった。

昔、今日みたいな猛暑の京都で、四条のビルの屋上広告塔に付いていたデジタル温度表示が40℃を示しているのを見て驚いたことがある。

四条大橋の上から、何人かの人がその表示を指さしていた。

その時のボクは、四条通りのN村証券京都支店の前で「からくり時計」をじっくり観察した後だった。

当時、金沢の某商店街に提案しようとしていた「からくり時計」については、その時も伏見の商店街へ行ったりして、なぜか京都が先進地だったのだ。

で、四条大橋を渡った後、八坂神社に向かい、八坂から高台寺などを経て、清水寺まで歩いた。

ここまで来れば、最早観光でしかなく、仕事成果はカメラの中にしっかり納まっていたのだ。

とにかく暑かった。扇子を一つ持ってはいたが、扇いでも熱風が顔に当たるぐらいで、とても涼気を感じるなどといった雰囲気ではなかった。

ただ、その頃のボクは、野球と山岳と失恋とで鍛えた体力と忍耐力(根性)には自信があり、生半可なことではヘコたれることもなかったのだ。

そのことを支えていた大きな力?のひとつに、“汗をかけばビール”という安直だが心強い依存物があった。

これは、山でもよくあることで、例えば朝四時に麓の小屋を出発し、同九時近くに中継点の山小屋に着くと、そこでまず缶ビールを空けた。

喉が渇けばビールといった感じで、飲み物=ビールが普通になった。

しかし、一旦飲むと、その後が辛くなってくる。

特に長い行程を歩くときや、岩場の連続などといった時は、ビールを飲んだことを後悔したりした。

京都でも同じだった。

午前中からではなかったが、特に高台寺から清水にかけては、赤い大きな和傘が見えてくると、毛氈の敷かれた床几に腰を下ろし、中ジョッキの生を注文する。

傘があっても、具合悪く日陰になっていない所もあったりするが、それでもとりあえず中ジョッキだった。

当然、アタマはカンペキにボーッとしていた。

 

そんなことを思い出しながら、『ビールの科学』をもう一度手に取った。

そして、表紙を見ながらじっと考えた。

結局、この本はボクにとって何だったのだろうか?

何となく覚えているのは、コクとキレのこと。

ウグウグッ、ウッグゥ~と喉を鳴らしながら飲みこんで、胃にまですべて到着したかなと思った瞬間に、ウッ、ウップァァァ~と濃い息を吐く。

このウグウグがコクで、ウパ~がキレだということで、これがビールの決め手だということだった。

なるほどとかなり激しく納得した。

あとは、皆で楽しくやる時にはビールがいいということ。

シャンパンも炭酸が入っているから、乾杯に使われるが、ビールはいかにもめでたい系や、憂さ晴らし系にもってこいだということ。

これもひたすら納得した。

それ以外は、ホップがどうのこうのとか、麦芽がどうだとかと言われても、大いなる納得には結び付かなかった。

つまり、途中からかなり読むのも辛くなり、とりあえず一応…的に読み終えたが、アタマには何も残っていない。

ボクは思うのだが、ビールはしみじみ飲むものでもないから、何も考えなくてもいいのではないかと。

それに、ビールには科学は似合わないのではないかとも。

ビールに合うのは、科学ではなく、体育実技とか英会話ではないかとも。

そんなわけで、『ビールの科学』の読後感想文は、やはり書けないと言う結論に至り、これから体育実技的に、缶ビールを思いっきり力強く開けようかと思った次第なのであった………

 

男女兼用トイレの臭いと日本の将来について

かつて、“ヒトビト的モロモロ研究会”という、かなりというか、はっきり言って完璧にいい加減な研究会?の親方をやっていた。

当然、定期会合などを開くわけでもなく、ただウスラぼんやりと「まちやむらやモノやコトやひと」などを酒の肴にし、そのうち一応「ヒトビト」誌上にコラム的に発表する?というものだった。

メンバーはボクと、ついでにやってるみたいなもう一人と、その都度の数人だけ。ほとんどボク独りでやっていたと言っていい。

基本的には世の中のどうでもいいようなことを、ただいたずらに深く掘り下げ、自分たちの限りなき満足感のためにだけやっていたのだが、時折それが思いも寄らぬ方向へと発展することもあった。

例えば、「オトコなら床屋へ行こう」というコラムは、理容業界の関係者の目に止まり、その後の業界イベントの企画依頼に繋がった。地元業界誌の座談会のコーディネーターをしたり、理容学校で生徒たちの前で話したりもした。ウソみたいなホントの話で、申し訳ない限りだった。

そして、その後に書いたのが、今回の話につながる「オトコも座ってオシッコするべきよね~」というタイトルのコラムだ。

この話は、当時京都の出版社に勤務し、小誌に寄稿してくれていた二人の“はんなりお姉さま”のうちの、一人のお姉さまの方が突然口走り、そこから始まったものである。

タイトル写真にある問題の男女兼用トイレ。最近では洋式の男女兼用が一般的になっている。

かつては、和式の男女兼用も普通であったが、今は洋式が圧倒的に多いのではないだろうか。

本題に入る前に、話はどんどんと脇にそれていくが、洋式と和式の男女兼用には、文化の違いを匂わす大きな要素が隠れているのをご存じだろうか。

使用中にドアをノックされた場合、一般的な洋式では体が正面を向いていることが多く、ノックを返せばすむ。もちろん、ちょっと広めのところでは返事をしなければならないこともあるが、その場合でもそれほど大きな声を出す必要はない。

しかし、和式になると、態勢は逆になり、ドアの方にケツ(あるいは尻を)を向けているケースが多くなる。そのために、日本人の多くは、「入ってまァ~す」などと、やや大きめの声を出さなければならない状況にあった(そうでもないという人もいるかもしれないが、一応そういうことにしておいてほしい)。

もちろん、黙したまま、ドアがガチャガチャ鳴るのに脅え、ひたすら早く立ち去ってくれと祈ってきた日本人も多かっただろう。

人が近づくと、やたらと咳払いばかりしてきた日本人もいたに違いない。

ここにまず欧米人の合理的な考え方が見えてくる。

そして、さらに話を脇にそらすと、もしドアに鍵がかかってなかったり、鍵が壊れていたりした場合、思わずドアを開けてしまった客人に対して、洋式では「コンニチワ」と挨拶が出来るのに対して、和式の場合は、汚い(もちろんオトコの場合だが)ケツ(あるいは尻)を晒すだけになるという、かなり情けない状況が待っているのでもある。

さらにこの場合、洋式では自分の排泄物が見えないのに対して、和式ではクッキリすっきり鮮明に、それがそれであることを認識されるという情けなさもあったりするから困ったものだ。

ある男性の証言がある。「実はかつて、新潟市の某ショッピングセンター内トイレにおいて、目撃したことがあります。クッキリとしたあの……」

別な男性の証言。「ある公園の公衆トイレ(大)に入ったら、鍵が壊れていました。しかし、我慢も限界に来ていたので、手で押さえながらしゃがんでいたのですが、そこへ・・・」

証言をかいつまんで言うと、たまたまその公園の近くに相撲部の強い高校があり、その部員たちがランニングしていた。その中の一人が腹の調子が悪かったのか、トイレに駈け込んで来た。そして、ノックもせず、声もかけずに…。小心の男性は、思わず手を放してしまった………

……このような話は、かつて夏目房ノ介氏(漱石の孫で漫画批評家、後に大学教授)も、何かの著書に書いていたと記憶する。

さて、ようやく本題である。ここで取り上げるのは、男女兼用トイレにおける“小用”のやり方、早い話がオシッコの仕方のことだ。

ここからは、ヒトビト第3号に綴った文章を引用しよう………

『 単純に納得できることなのであるが、一般的に女子トイレに比べると男子トイレの方が、はるか彼方的にクサいと言われる。ただオトコとして、もしそのようなことを女性の皆様から面と向かって言われたとしても、

「そりゃあ、そうだヨ。なにしろオトコは小便しながら、ついでに屁もするんだもん」

などと、開き直ってはいけない。自分がいつもそうだからと言って、すべてのオトコがそうとは限らないのだ。

では、男子トイレがクサい本当の理由とは何なのか?

生物学的に、オトコの場合、小便は立ってするという古くからのやり方があって、どうやらそのことが男子トイレのクサさと深く関係してきたと考えられる。

オトコの小便は身体が立った状態から放出されるために、座った状態から放出される女子のものよりも、大気と触れあう時間が長い。だからその臭気の拡散する割合も当然大きくなるワケだ。

そしてさらには、立って小便をするがための男子用便器が、そのクサさを助長する役割を担ってしまったことも考えねばなるまい。

立った状態から勢いよく放出された小便を、しっかりと受け止めなければならない便器。しかし、勢いのある状態で受け止めるということは即ち、「飛び散る」とか「はね返る」といった現象を生む。

この飛び散った分とか、はね返った分というのが、極めて大きな意味を持つことになる。

ちょっと古い調査の結果だが、それによると、トイレの快適さを左右するのは、やはり「臭気」であって、快適さを失う三大原因は次のものとされている。

1 前の人の大便などの臭気

2 自分の排泄時の臭気

3 こぼれた小便の臭気

自分が出したものより、他人の出したものの方がクサいという1,2の結果は、大いに頷けるところである。

しかし、問題はやはり3なのであって、「こぼれた小便」という情けない響きと共に、いかにも人為的な不快感を滲ませている。

つまり、1,2は、ウンコやおしっこは元来クサいもんなんだから仕方ネエな…と、諦めたりもできるが、3はニンゲン、特にオトコの責任として捨て置けない感じがする。

そして、さらに激しく注目しなければならないのは、3の回答に、「男女兼用便器で小用した際のハネやタレ…」ということが付記されていた点だ。

このように捉えていくと、やはり女子が圧倒的に不利な立場になることは明白だ。』

「オトコはんも、座ってオシッコしまひょ~」という、京都のはんなりお姉さんの声も当然と言える。

実は、ボクは家ではそうしている。四人家族で、ボクだけがオトコであり、我が家のトイレの在り方は、女性用化粧室的ポジションにあるからだ。

しかし、座ってオシッコをするというのは、オトコにとってかなり面倒な行為でもある。

そして、オトコとしては古の時代からの正しい小便の仕方として、女性である母親からも教え込まれてきた「立って小便をする」という行為を捨てきれないのも確かだ。

今更、しゃがんで、いや座ってやれと言われてもなあ……なのだ。

そして、このことが浸透していく過程には、さまざまな懸念も生まれてきている。

再び、「ヒトビト」3号に戻る………

『 オトコにとっては、大便と同じスタイルでいることは、その時トイレへ来た本来の目的を曖昧化させ、小便をしに来ただけだったはずなのに、ついつい大便もしてしまったという行為に結び付く要因になるかも知れない。』のだ。

質実剛健を誇るオトコたちにとっては、その優柔不断さは許せないことだろう。

そして、危惧されはじめたのは、なんといっても「オトコの女性化」だ……と思っている。

最近テレビを見ていて、いわゆるオカマの世界が少し変化しているなと思い始めている人は多いだろう。

たとえば、Mツコ・Dラックスとか、Hるな愛とかは、かなりオトコのエキスを残したままオカマになってしまったような気がする。

かつては、Y咲Tオル(漫画家のオカマ)みたいに、ただ可愛い子ぶって、女(の子)になり切ろうとする気持ち悪いだけのオカマもいたが、最近のあの手の人たちは、やはり完璧なオトコであることを隠さない。いや隠せない。

つまり、彼らはいつの間にかあの手の、あのようなエキスを吸ってしまい、そのことに気がつかないまま、あの手の、あのような世界へと流されていったのではないだろうか?

本質的にかなりオトコっぽかった彼らが、その風貌や言動を変化させないまま、あの手の、あのような世界に染まっていった事実をどう捉えるか?

ここで、ヒトビト的モロモロ研究会としては、大いなる仮説を立てるのである。

彼らの誕生と、男女兼用トイレにおける、男子座り込み小用の問題とはどこかで結び付いているのではないか・・・・と。

つまり、座って小便をするようになって、何となく自分がオトコではなくなっていくような、そんな錯覚に陥るオトコっぽいオトコたちが増えているのでは………と。

彼(彼女?)らは、オトコっぽい要素をたくさん持っていたがために、トイレから出てくる際、いつの間にか自分が内股で歩いていたことにも気が付かなかったのかも知れない。

ボクを含めた多くのオトコたちは、そのことにある日ふと気が付き、女性化から逃れることが出来たのだ。

しかし、女性化はなかなか歯止めがきかない勢いを感じさせている。

果たして、オトコにも、トイレ完全座り込み時代がやってくるのだろうか?

たしかに、兼用トイレにおける臭いの男女不平等は明白である。オトコとしては、女性たちのために、しっかりと便器の淵にケツを押し付け、しっかりと放尿して、終わったら、さっさと流してしまうのがベターなのかも知れない。

しかし、本当にそれでいいのだろうか?

これは、少子化問題にも関連していく大きな要因となる可能性をもっている。なにしろ「オトコ」が少なくなるわけだ。

また逆に、最近の「できちゃった婚」傾向は、ひょっとすると優柔不断なオトコの子たちの出現がもたらしている現象なのかも知れない。

まだまだ先は不透明だが、日本の将来と、男女兼用トイレのあり方その他について、モロモロ研究会はさらに深く考えていく。いや、いこうと思っている。いや、その、いくかも知れない……。とりあえず、そういうことなのであった………

 

※この文章は、私的エネルギー追求誌『ヒトビト』第3号で書き下ろしたものに、最近の新たな研究を付け足し、なるべくこき下ろされないようにと、ゆるやかに加筆したものであります。

 

梅雨明けは、なぜ宣言されなくなったか?

真夏の青空と雲

  どんよりとした空のねずみ色とぴったりマッチする湿気。降り続く雨が描く数えきれない縦の直線。雨粒を受けるあじさいや新緑の葉っぱの絶妙な輝き。廂からぽたりぽたりと落ちてくる雨のしずく。やたらと立派に見える他人の雨傘など、この季節は多感にさせるものであふれている。

 今書くのは、“梅雨明け宣言は、なぜ消えてしまったのか?”に関する自己整理である。自己整理がどういうことを意味するのかは、至って簡単だ。今までいろいろと語ってきたことを、活字でしっかりと残し、自分自身の疑問、そして世の多くの人たちの疑問に少しでもお答えしようということだ。

 これは、ボクのことを少しでも知っている人には、待ちに待った真説の登場ということになろう。

 かつて、何となく耳にしてきたこの話の顛末…、それは今から二十年ほども前の、もちろん季節は梅雨どきだったが、もう晴天の日が二日ほど過ぎたにもかかわらず、いまだ梅雨が明けたというニュースが流れてこないという、そんなある日の夕暮れ時であった。

 ボクは香林坊日銀ウラで、今は亡き奥井進大先生に向かって語っていた……

 ある年の梅雨明け間近、ある地方の気象台の一室で、「もう雨も上がってきたし、太陽もギンギラギンにさり気なくなってきたから、今年は派手にやりましょか?」「うん、そうやな。明日準備して明後日あたり一発カマシたろか……」といった会話が囁かれていた。

 ある年とはいつをさすのか? それはわからない。ボクの推測では昭和三十三年あたりでないだろうかと思う。なにしろ長嶋茂雄が立教大学から読売巨人軍に入団し、世の中は長嶋のあの溌剌としたプレイ、今風に言えばパフォーマンスに酔っていた。日本中が元気になっていった頃だ。

 話は若干寄り道するが、この辺りの話は、作家で詩人のねじめ正一氏が詳しい。かつて氏をトークショーに呼んだ際、氏はいきなり長嶋茂雄の話を切り出した。長嶋茂雄の職業はプロ野球選手ではない。長嶋茂雄の職業は“長嶋茂雄だ!”と氏は言われた。ちょっと意味不明にも聞き取れるが、ボクにはその真意が分かった。氏はさらに、商店街はさつま揚げの味で決まるとも言われていたが、それについても大いに納得した。

 話を戻そう……

 ある年が昭和三十三年として、ある気象台とは、多分関西地区にある気象台だろうと推測する。こんなことは関西人らしい発想だ。そして、そんな時代背景を受けて、その気象台では、全国をアッと言わせようという企画をたてていたのだ。

 それは、気象台の玄関前に紅白幕を張り、タスキを付けた職員がお立ち台に立って、にわか音楽隊のファンファーレのあと、力強く梅雨明け宣言をするといったものだった。つまり、お立ち台から「梅雨明け、宣言!」とやるわけである。これには地域ごとに違った設定があり、音楽隊ではなく和太鼓だったという所もある。なぜ和太鼓なのかというと、人々の話題になるようにと、和太鼓と話題をかけたのだというわけだ。他愛ないおやじギャグのようにも聞こえるが、そのけなげさを笑うわけにはいかない。

 そのようにして、実際多くの見物人の前で宣言が初めて実行されるや、見物人からは拍手喝采、一躍そのニュースは翌日の新聞に載り全国へと発信された。

 全国の気象台がそれを真似しようとしたのは言うまでもない。そして、当然のごとく我らが金沢気象台でもそれを行う準備が進められていた。全国初の梅雨明け宣言が実行されてから、それをやらないのは国益に反するとまで言われ、各地の気象台では、より容姿のいい職員、より声のいい職員を選んで宣言させた。

 宣言する職員は、いつの間にか「宣言人(せんげんにん)」と呼ばれるようになり、独身の宣言人などには多くの女性ファンがついた。中にはそれが縁で結婚までしてしまったカップルもいたという。世間では、こういうカップルのことを「梅雨明けカップル」と呼び、“ジメジメしない、さわやかな関係”などと褒めたたえた。

 特に全国に名を知らしめたのは、京都気象台のある宣言人だったといわれている。彼は平安貴族風の衣装でお立ち台に立ち、雅楽の奏でられる中で、華麗に蹴鞠(けまり)を披露した後、その最後のキックで鞠を空中高く蹴り上げ、それが落ちてくるまでの間に、麗しい声で「梅雨明け、宣言!」と叫んだという。そして、体をクルリと一回転させたあと、落ちてきた鞠を左の手のひらで優雅に受け止めたというのだ。見物の輪の中に居た若い女性たちが次々と失神し、病院に担ぎ込まれたのは言うまでもない。

 この華麗な宣言人の出現は、すでにとっくに梅雨が明けてしまっていた九州などの気象台職員たちに衝撃を与えた。中には、もう一度梅雨入りさせ、梅雨明け宣言をやらかそうとした気象台もあったという。しかし、一般市民の反対にあい、それはできなかった。やはり市民にとって梅雨は一日でも早く明けてほしいものだったのだ。

 そして、この梅雨明け宣言ブームはいよいよ北陸へと移ってくる。金沢でも明日あたりがその日だろうという噂が広まると、街中がそわそわし始め、気象台への問い合わせも殺到したという。

 ところが…、当時の金沢気象台には大きな問題があった。それはどう見ても宣言人に相応しい職員がいないということだった。悩んだ末に、気象台の責任者は、職員ではなく用務員をしていたある若者にその務めを任そうとした。職員ではなかったが、彼はまあまあの風貌をしており、背も高く、一見良さそうに思えた。

 責任者は秘かに若者を呼び、宣言人になることを告げた。驚いたのは若者だった。強く辞退した。「わし、そんなこと出来んわいね…」と。責任者はそれでもしつこく若者に説得を試みる。次第にやさしかった口調が命令調になり、最後は強制的に若者を納得させた。

 そして、梅雨明け宣言しようという当日。若者は半ばあきらめの心境のまま出勤し、いつものように庭の掃除などをすませた。職員たちが出勤する前、一度練習しようとして声を出してみたが、なかなかうまくいかない。もともと口ごもって話すような癖もあり、語尾をはっきり言えないのが致命的だった。そして、ついにその時が来る。

 舞台はできていた。新品で糊のきいた紅白幕がビシッバシッと張られていた。風はなく、太陽は容赦ないまでに燦々と照っていた。誰が見ても、もうカンペキに梅雨明けだった。若者は、別に宣言しなくても梅雨明けぐらい、この空を見れば分かるのにと思った。汗が吹き出てくる。その汗が冷や汗に変わっていく……

 若者が責任者から猫背の姿勢を注意されながら、お立ち台に立つ。しかし、正面を向いた瞬間に、すぐにまた猫背になっていた。そんなこととは関係なく、拍手が起こった。歓声も上がった。そしてすぐに訪れる静寂と緊張…。若者の猫背は、二度と元には戻れないかのように硬直して見えた。

 「梅雨、明け、せんげん……」

 か細く力のない声がした。どう考えても宣言というものではなかった。見物人たちからは、もっとしっかりやらんかいとか、女みたいな声出しとんなとか罵声が飛び交った。

 「梅雨明けェ…せんげん……」若者がもう一度言う。猫背は直らず、相変わらず、はっきりしない語尾。そして、悲劇は起きる。

 見物人たちは耳を疑った。「梅雨明けせんげん、やとォ…」口々に怒りをぶつける。「お前、何言うとるんや。こんないい天気なんに、梅雨明けせんてか!」

 「いえ、わし…、今、梅雨明け、せんげん…て、言ってんけど…」「だから、なんで梅雨明けせんがやて、おい、はっきり説明せえま!」「だから、わし、梅雨明けせんげんって、言うたがに…」

 若者はお立ち台から引きずり降ろされると、見物人たちに体を押され、そのまま紅白幕の方まで押し込まれていった。危険を感じた責任者が止めようとして手を伸ばす。その手がまずいことに見物人の一人の右側頭部に当たって、たまたま右側にいた全く関係のない見物人と小競り合いが始まった。小競り合いはまた小競り合いを呼び、さらにまた小競り合いを誘発し、ついに警察の出動に至る大騒動になったのである。

 このニュースは翌日すぐに全国へと発信される。“金沢で梅雨明け宣言失敗!”そして、“金沢では梅雨明け宣言は無理だったのか?”といった見出しが新聞紙上を賑わした。

 詳しくはこう書かれていた。

 “全国でブームをおこしてきた梅雨明け宣言が、金沢では通用しなかった。いや金沢では否定的にとらえられた。金沢気象台が、昨日午前十時三十二分頃に行おうとした梅雨明け宣言の会場で、職員が発した宣言に一部の見物人からおかしいという声が上がり、そのことが発端となって、その見物人たちが暴徒化。職員を追い詰めるなどしながら、さらに乱闘騒ぎをおこした。金沢中警察署から警官十人が出動し、騒ぎは三十分後に収まったが、数人が軽いケガをした……”

 “警察では、職員の発した梅雨明け宣言の、特に「宣言」の部分が不明瞭だったため、金沢の方言である○○せんげん(○○しないの意)と誤解されたことが騒動の原因と見ている。見物人たちの中の生粋の金沢人たちは、職員の発表を「梅雨明けしない」と解釈したらしい。また、金沢気象台では、この職員が正規の気象台職員ではなかったにも関わらず、所謂、宣言人として任命していたことも陳謝した。”

 このようにして、金沢の方言が梅雨明け宣言の全国的なブームに水をさし、この社会現象はすぐに消滅したのである。宣言人が容姿端麗で美声でなければならないという風潮を生んだことも、金沢の悲劇を生み、このようなことで気象台の権威を汚してはいけないという世論も高まった。

 今、梅雨が明ける時、どこでも宣言などしていないのに、なぜか「梅雨明け宣言」と言っているのには、こういった背景がある……という強い仮想的寓話だった。

 話はここでひとまず打ち切るが、久しぶりに延べ三時間を要する執筆となった……

 ※梅雨に関する前出エッセイ 『もうすぐ梅雨明けかな?の日に・・・』 http://htbt.jp/?p=416