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黙示~能登半島
「黙示」という言葉を初めて目にしたのは、映画『地獄の黙示録』だ。
そして、その意味を初めて感じ取ったのは、岡田喜秋氏の『常念岳の黙示』というエッセイを読んだ時だ。
東京で生まれ育った著者が、純粋に山に傾倒していき、進学先として信州松本の旧制高等学校を選んだことに共感した。
それは戦争の時代であったからでもあり、その時代の若者たちが、心のどこかに自分の原風景を持っていようとしていたのだろうと想像させた。
そんな殺伐とした時代、安曇野から逞しく美しい常念岳を見つめていたひとりの若者の姿を思い浮かべると、懐かしさの混ざった焦燥のようなものが自分にも忍び寄ってくるようだった。
著者は、常念という哲学的な名前を冠した山に、自分自身の迷いを見透かされ、その山に父親を感じたという。
黙示という言葉に秘められていたものが、とても重く感じられた。そして、どこか切なかった。
黙示する力を持つ大きな存在と言えば、風景をおいて他にないだろうと思う。
さまざまな意味で、風景は私たちに無言の影響力をもたらしている。
たとえば、人が旅を好きになるのは、風景からの黙示にいつの間にか触れていくからなのだろう。
人に自慢できるような大それた旅など、私には経験はないが、旅の瞬間を大切にすることには人並み以上に敏感であり、貪欲であったと思っている。特に風景には素直に向き合おうとしていた。
20代のはじめ信州の上高地を初めて訪れた時、風景へのあこがれと畏敬のようなものを同時に感じ取った。そして、あの時から自分の中の何かが変わっていった。
本格的に山に向かうようになった。山域に足を踏み入れるだけでなく、山にまつわる歴史や民俗的なことにも興味を持ち始めた。街にいても、山のことを考えるようになる。実行できていない計画が常にアタマの中で蠢く毎日を送り、通勤の朝、遠くに見える北アルプスからの誘惑に耐えていた。その誘惑もまた黙示だったのだろう。
しかし、仕事などに追われていくうち、いつの間にか自分の中の山の世界は遠いものになっていく。
2024年の元日。能登半島を大きな地震が襲った。
震源地からは50キロ以上も離れていたが、自分の周辺でも大きな被害が出て、多くの人たちが新たな住まいを求め移動していった。そして、私にとって45年以上も前から親しんできた能登が、もがき苦しんでいた。
能登とは仕事で深く関わってきた。仕事は、自然を活かした観光や歴史文化などに関するものが多かったが、漁業のこともあり、能登=海という結び付きが当たり前のように形づくられていく。
しかし、半島内の移動のために内陸部の道を使っているうち、なんでもない能登の山里風景に心が和むのを感じてもいた。仕事を終えて、金沢方面へ戻る時にも、半島内では敢えて山間の道を通るようになった。説明を求められてもうまく答えられないが、とにかく能登の山里が好きになっていたのだ。
そんな頃、わずかな時間を見つけると、近場の山域を歩くようにもなっていた。自然な流れとして、そのうち能登の山里を歩きたいと思うようにもなる。クルマを停め、山里を眺め、時々は軽く歩いたりもしていた。そこで出会った人たちと言葉を交わすようにもなり、飾り気のない自然体の姿にいつも癒されてきた。
そして、山里を歩くためだけに、初めて能登へと向かった。時間を有効に活用するためにクルマで行き慣れていたある集落を起点にした。集会所にクルマを置かせていただき、山里を縦断して山道に入り、途中の脇道から別な山里に下った。
それは、能登半島が黙示してきたものを確認するための〝歩き〟でもあった。