今回の京都(1/4) 詩仙堂から


小有洞

 今回の京都は、詩仙堂の小さな門から、いきなり始まったような気がする。

 京都東インターから山科あたりの混雑も、南禅寺周辺の慌ただしい気配も、一乗寺という土地に近付いていくうちに、何となく目的地への予感みたいなものに変わっていた。そして、狭い道へと右折して登りに差しかかった頃からは、それは現実のものとなった。

 小有洞(しょうゆうどう)の門というのが正式らしいが、その小さな門は苔むした屋根にさらに夏草を茂らせ、背景の緑と溶け込んで見える。門の奥へと緩く登る石段の参道もシンプルで美しい。

 時計は午前11時過ぎ。まだ人もまばらだと石段を登る。石段を登ってすぐに通路は直角に折れ、さらに門をくぐって堂の中へ。

 人はまばらと思っていたが、やはりそれなりにいた。小さな、そして至って質素な庭に向かい座っている。

 凹凸窠(おうとつか)というのが全体の名称であり、詩仙堂というのはその一室のことをさす……ということが、パンフレットを開けてすぐに分かった。凹凸窠というのは、で こぼこした土地に建つ住いを意味するのだそうだ。

 そのことは、庭に下りてみるとよく分かる。堂は小さいが、庭は意外にも広い。しかも堂から離れれば離れるほど、下っていくことになっている。小さな堂は、庭木に阻まれて屋根が見える程度だ。

 獅子おどしの音が痛快に響き渡っていて、10月半ばとはいえ、秋にはほど遠い完璧な緑の中に吸い込まれていく。ところどころに咲く花たちも上品だ。

 もともとは徳川家の臣であった、石川丈山(じょうさん)という人が造営した。人生の最後を、と言っても30余年という長い年月を、清貧の中に文人として過ごし、90歳まで生きたとある。隷書、漢詩の大家、煎茶の開祖とも紹介されている。

 そんな丈山の生きざまは、もう一度堂に戻り、庭を見た時に薄っすらと想像できた。座敷の細く見える柱も、小さな灯篭も、清貧の中で学ぼうとする丈山そのものに見えてくる。

 書き忘れていたが、造営されたのは江戸初期の寛永18年(1641)。丈山、59歳の時。まさに今の自分と同じ歳。

 愚かにも、今からの30年をこれほどに濃いものにできるかと自問するが、答は当然、できませんだ。

 帰りにもう一度、小有洞の門の外から石段を振り返る。また静かな時に来いと、丈山が言ってくれているような、いないような……、とにかくどちらにせよ、また行くことになるのは間違いないとだけ思った……

堂

石垣上品な花獅子おどし花の道灯篭と柱庵質素な庭


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