ドラマー少年だった頃
小学校高学年の頃、我が家の後ろに繋がる撚糸工場の空きスペースに、ギターのアンプやドラムセットが置かれていた。高校生だった兄が“エレキバンド”をやり始めた頃で、休みになると、そのスペースが練習場になっていた。
エレキバンドはそれなりにどころか、かなりうるさく、練習場を探すだけでもむずかしい。今ならスタジオを借りれば済むが、時代的(60年代中頃)にも地理的にも、当然そんな場所など身近ではない。だから、撚糸工場という盆と正月以外一年中機械が動いている場所は、ある意味、バンドの音を吸収してくれる格好の練習場でもあったのだ。
ギターはもの心付く頃から触っていたが、ドラムセットを初めて見た時は胸がときめいた。バスドラの正面に描かれた「Pearl」の文字もカッコよかった。だから、叩いてみたくて仕方がない。
当然、誰もいない時を見つけて軽く叩いてみる。ませガキだったので、見よう見まねで何とか形になる。もともと家には洋楽ばかり流れていたが、当時の兄はとにかくベンチャーズだった。聴いているだけの頃は、ビートルズだったのだが、自分がギターを弾き出すとベンチャーズになった。当然のごとく、ボクの耳にも自然にベンチャーズが入り込むようになる。
バンドをやっているせいか、ベンチャーズを聴くのは特にライブ盤が多かった。当時は“実況録音盤”と言っていたが、スタジオ録音と比べると全く音質が違う。ライブになるとギターがFUZZを使った重い音になってサウンドが厚くなるのである。
兄は金沢やその周辺でのコンサートには欠かさず行っていて、よく話を聞かされた。ベンチャーズはとにかく巧い。四人がステージ上、横一列に並ぶ。うろうろと歩き回ったりせず、ただひたすら、余裕さえ感じさせながら名演を披露する。そんな感じだった。
ステージのパフォーマンスとして、兄が興奮しながら話していたのが、ベースの弦をドラムのスティックで叩きながらの演奏で、その様子を伝える写真や音は、じっと聴き入ったのを思い出す。このパフォーマンスは、ベンチャーズの十八番だったのだ。
ボクはその頃(小学校の高学年)に、兄の友人に連れられて、アストロノウツというバンドのコンサートに行った経験がある。兄が急に行けなくなり、代わりに連れて行ってもらったのだ。『太陽の彼方』という超ビッグヒットをもつバンドだったが、その時の生エレキサウンドのインパクトは凄かった。
話を戻そう。
いつの間にか、それなりに、ボクはドラムの基礎中の基礎を身に付けていった。
ある時、兄が弾くギターに合わせて叩いてみるチャンスが訪れる。曲はエレキサウンズのバイブルとも言うべき、『パイプライン』だった。自分でも驚くほどに“サマ”になって?いた。兄のバンドのリード・ギターリストMさんがやって来て、セッション風の練習が始まった。Mさんは、ちょっと長髪のカッコいいお兄さんだったが、ギターも抜群に巧かった。
ベースはいなかったが、リードとリズムの二本のギターが揃うだけで、音は一気に厚みを増す。アンプもかなり大きめのものを使っていたので、初めて二人まとめたギターの音を聴いた時は耳が痛くなった。
もう一度『パイプライン』が始まる。所謂“テケテケ”なのだが、ライブのイメージでは“ズグズグ”といった感じで重い。そのあとにお決まりのフレーズが繰り返され、コードをジャーン、ジャーンと弾いてMさんがお馴染みのメロディを弾きはじめた。
参加していいのかどうか分からないまま、スティックを持って二人を見ていると、兄が顔をこちらに向けて催促してくる。邪魔してはいけないと思いつつも、それなりに自信をもっている自分がいることも事実だった。
兄の顔がちょっときつくなり、早く入って来いという目付きになった。恐る恐る右手のスティックでシンバルを小刻みに叩きながら、左手のスティックはスネアに。何秒かして、兄の顔を見ながらMさんがかすかに笑った。いや、笑ってくれた。
このことが勇気づけた。ベンチャーズは、いつもライブ盤しか聴いていないから、スタジオ録音の『パイプライン』のように、柔らかいサウンドは馴染んでいない。だから、ボクもライブ盤で聞こえてくるように、シンバルにもスネアにも力を入れた。
“ン、タタ、ン、タ”のリズムに、タイミングよく“タカタンタ”を入れたりして調子が出てきた。
Mさんの表情がまた緩んだ。やったなと思うと、バスドラにもハイハットのリズム感にも自信が出てくる。曲が『ダイヤモンドヘッド』に変わっても、基本はほとんど変わらない。
こうして、ボクの影武者ドラマー体験は始まった。
再び、突然影武者ドラマーのオファーがかかったのは、それから3年後だったろうか。時間的感覚が鈍っているが、中学の二年生だった…はずだ。兄のバンドは、いつの間にかローリング・ストーンズのコピーバンドに変身していて、地元ではそれなりに売れている雰囲気だった。そして、ドラムの人がケガか何かで叩けなくなったのだ。
グループサウンズの時代、ボクはその頃からジャズも聴き始めていたのだが、いきなり連れて行かれた町はずれの砂取り場の、壊れたバスの中でドラムを叩くことになった。
ボクの生まれ育った町は砂丘地にあり、今から振り返れば、とてつもなく広い砂取り場が周囲にあった。その奥の一画に古びたバスが置かれていて、その中がバンドの練習場だったのである。もともと砂取り作業に来ている人たちの休憩場所だったのだろう。
それは本当に突然やって来た時間で、兄から言われるまま(実際、兄には逆らえなかった)に、晩飯を終えると、その砂取り場のバスへと向かった。
今でもはっきり覚えているが、最初に始めた曲はストーンズの『テルミー』だった。
それなりに明るくされたバスの中で、縦に独りずつ並び、ドラムが最奥。その前にボーカルが立ち、その後ろにベースとギターが二人。みなドラムの方、つまりボクの方を向いていた。
『テルミー』という曲を知っている人なら分かるが、原曲ではイントロにアコースティックな音のギターが入り、すぐ後にドラムが入る。静かな曲なのだが、やはりここでもライブ感覚がベース。
兄がギターを弾きながら力いっぱい叩けと言う。曲が進んでいっても、ドラムが弱いと何度も言われた。すぐに感覚的に分かってきたが、とにかくスネアにスティックを叩きつけるのである。そして連打のところでも、思い切りよく叩くのだ。
『サティスファクション』でも、最初は同じように言われたが、すぐに感覚が体に沁みてきた。ドラムセットが大きく揺れるほどになってくると、ようやく合格点だった。その頃はかなり音楽にのめり込んでいたので、自分のドラムがバンドの勢いを生んでいるみたいな感覚が分かった。レコードで原曲のドラムを聴くより、自分の感覚で叩く方がいいような気がしていた。
暗闇の中に怪しい明かりを洩らすバスというのは、中学二年の中途半端な男の子にとって、かなりスリリングな世界でもあった。なにしろ、野球部の丸坊主アタマ、しかもその頃、どういうわけか生徒会の副会長なんかもやっていて、一応品行方正っぽい印象を放っていた。
実体は、その頃から石原慎太郎なんぞを読み始め、世界を斜視するような、一種のヒロイズムみたいなものに憧れる扱いにくい少年だった。そんな少年だったから、ドラムの世界には自分を満たしてくれる何かがあるような気がしていたのかも知れない。
一週間もやれば、自分でもほとんど違和感がなくなり、かなり決まってきたなという感じになった。そして、そんな時、突然、兄から次の土曜日、となり町の体育館で演奏会やるから出ろと言われた。さすがにびっくりだ。
練習のための影武者ドラマーとして軽く考えていたので、驚いて当然なのだ。ボクはすぐに出られないと答えたが、兄の論理では、皆そのために練習してきた、お前の勝手は許さん…だった。しかし、兄の要請は絶対に受けられなかった。実はその日は生徒会が開催される予定になっていたのだ。生徒会のために部活も遅れていくという、そのことにも気後れがあったのに、生徒会も出ないで、小さな町の体育館でドラムを叩いているなどは、とてもできることではなかった。
結局、その話が出てから、ボクは影武者ドラマーを首になった。兄のバンドが演奏会に出たのかは知らないままだった。
ふと体がドラムを叩いていた頃の動きをすることに気が付くことがある。今もメンバーを変えて活動を続けるベンチャーズの演奏をテレビで見て、CD(廉価盤500円)を購入。名曲『十番街の殺人』が流れてくると、イントロのタムタム、フロアタム(かつてはバスタムタムと呼んでいたような)を同時に叩く動作が自然に出てきた。
生意気に、子供の頃からドラムを叩いていたという話だが、その頃の印象を言葉にすると、“スリル”という表現がぴったり合っていたと思う。スリルとは演奏そのものと、当時のバンドをやっているニンゲンたちへの視線みたいなものとが合体したイメージだ。
ただ、そんなスリルを味わいながら、それ以上の楽しさをも感じ取っていたことだけは間違いない……と、しておこう。