永光寺の開創七百年


羽咋市の古刹・永光寺(ようこうじ)が、開創七百年の特別拝観を始めた。四月一日から十一月末までの長期開催だ。

昨年の秋に訪れ、そのことは聞いていたが、二日土曜日の新聞にもちょっと大きく取り上げられていて、早速三日の日曜日に出かけてきた。

晴れてはいたが、風が冷たかった。真面目に下にクルマを止め、いつものように石畳の坂道を、まだまだ咲きそうにもない“千年桜”の枝先にちらりと目をやったりしながら歩いた。鯉たちが泳ぐ四角い池は、いつになく透きとおっていて、鯉たちも元気そうに見えた。花粉をいっぱい貯め込んだような杉たちの群れが不気味だった。

山門の下の急階段も、いつものように休息することなく昇った。いつもより息が切れてる気がしたが、空気が冷えているせいにして、仁王像たちと数ヶ月ぶりの再会の挨拶をする。そしてすぐに受付へと向かった。

いつもより高い拝観料を払い終えると、今説明が始まったばかりだからと奥へと案内される。一番奥の部屋の襖が開けられ、中に入ると先客が二組いた。

その奥に弱い照明の当てられた透明の箱が置いてある。その中にお目当ての「毘沙門天坐像」が見えた。既に説明は進んでいて、先客の四人は真剣にそれに聞き入っている。

毘沙門天と言うと、ボクにとってはすぐに上杉謙信が頭に浮かぶ。普通は立っているものだが、坐った毘沙門天というのは珍しい。それは永光寺を開いた瑩山(けいざん)禅師の意志が反映されたものらしく、実際に禅師が最初の一刀と最後の三刀を刻んだと伝えられているらしい。黒々としていて表情は見づらいが、凛々しい顔をしている。説明によると、全体の中で、顔だけが緻密に彫られているということだった。写真撮ってもよろしいんでしょうか?と尋ねると、撮影禁止という注意書きもありませんし、そっと撮ってもらっても構いませんよ的な言葉が返ってきた。ストロボをたかずに、少し離れてシャッターを三度だけ押した。七百年の歴史で初公開ということだった。

それから一旦外に出て、今度は廻廊の階段を上り、伝燈院で開山・瑩山禅師の坐像を見せていただいた。これも今回の企画だ。堂に入る前に小さな釣鐘があり、その鐘を先客の一人が撞いた。軽やかないい音だった。この鐘を鳴らしてから入る決まりになっているらしいのだが、そのことの説明がユーモアに富んでいて面白おかしかった。

瑩山禅師の坐像と言うと、実は輪島門前の総持寺で同じものを見たことがある。禅の里交流館の展示計画をやらせてもらっていた時、能登半島地震後の総持寺で秘蔵物の撮影をしたのだが、本堂にあたる場所の奥に並べられた坐像数体を撮影した。前にも書いたかもしれないが、蚊に食われながらの貴重な体験だった。言うまでもないが、総持寺の開創は永光寺の後であり、開山は同じ瑩山禅師である。ただ、寺宝の写真集で見たイメージと、今回遠目ながらも見させていただいたイメージから、やはり永光寺のものの方が立派に見える。ボクなりの素直な感想だ。

周辺を歩き、また部屋に戻って熱いお茶とお菓子をいただく。冷え切っていた身体に熱いお茶が沁みていく。 本堂にお参りし、帰り際に事務長さんに挨拶。はじめて名刺を交わした。総持寺関係の仕事の際、間接的にお世話になった話と、かなり前に羽咋市の観光の仕事で見学に来た話などを、今頃になって長々と説明させてもらった。向こうも驚いて、また資料を用意してくださるとのことだった。

お世辞抜きにして、ボクはこの永光寺の素晴らしさは絶対広く知ってもらうべきだと思っている。個人的にはひっそりと楽しみたい気もしているが、そのことをまた認識した日だった。今度は桜が咲く頃に来るかな…と考えながら、ゆっくりと石畳の道を帰路についた午後だった・・・・


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