ジャズはジャズ的に聴く


三月下旬のNHK-BSで、上原ひろみがピアノを弾きまくっていた。

七九年生まれだから、もう三十歳は過ぎたのに、相変わらず可愛い笑顔をトレードマークにして、本当に楽しくて、楽しくてたまらないのです!というふうに鍵盤を叩きまくっていた。スタジオのインタビューでは、地震被災者たちのことを気遣いながら……

初めて彼女の演奏を聴いたのは彼女がまだ十代の頃だ。十七歳であのチック・コリアと協演している。明らかに普通のジャズピアニストにはない何かを彼女は持っていた。そして、彼女の音楽スタイルは、彼女の成長そのものよりも急角度で高度に、広角になり、ボクが最も好きなタイプのひとつともなって、いつ聴いても心も身体も解放させてくれる輝きを持つようになっていった。

それはピアニストとしての技術はもちろんだが、メロディやリズムを生み出す楽想や感性、演奏時のパフォーマンス(体の動きや表情)、そして即興性の追求など、すべてボク自身のサイクルを刺激するものであったということだ。

そして、それらの中でも、彼女が言うところの即興性というコトがボクには凄く重要で、即興でしか伝わらないスリルみたいなものは、いつもボクを刺激していた。彼女の演奏には、ボクの大好きな「単なるジャズではない、ジャズ的音楽」のエキスを感じたりする瞬間がたくさんあった。

「ジャズよりも、ジャズ的音楽の方が、よりジャズなのだ」と、自分でもよく分からないことをボクは考えたりしているが、最近ではラーメン屋でも居酒屋でもジャズ(一般的に言うモダンジャズだ)を聴かされているから、もうかつてジャズが醸し出していた濃いエキスは、豚骨スープや筋煮込み汁などの中に吸い込まれていき、かなり薄められている。

それも別に聴きたくもないシチュエーションでのジャズだから、どんどん垂れ流し的聞き流し的状況になっていくのである。

そんなときに聴く上原ひろみの演奏は刺激的で、ジャズは瞬間的に生まれる感性によって創造されるものなのだということを、あらためて教えてくれた。背筋がピンと伸びて、再び希望の道を与えられた迷い人の心境に近いものを感じたりした。

ボクにとって、ジャズは“ライブ”なのだ。特に冒険的なライブ感が感じられないとジャズ的ではない。だからスタジオ録音が悪いというのではないが、ライブ感があるかないかで、少なくともボクの評価は全く異なってしまう。

こんなことを言っていると、今世の中で一般的に愛されているジャズの評価とは全くかけ離れた話をしているように聞こえるかも知れない。街角で流れているジャズには人を普通に癒してくれるスイング感があるし、そのどこが悪いのだと言われると答えに窮する。それはそれでいいとしか言えない。

しかし…、なのだ…。

ジャズの世界では有名なエピソードだが、ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンとのレコーディング時のやり取りが、ジャズのジャズたる所以を物語る……

自分のソロ演奏に満足できないで、何度もやり直したいと言うコルトレーンを、師匠格にあたるエリントンが、窘(たしな)めるという話である。

ジャズは即興性の強い音楽であり、その時その時の感じ方や演奏者の個性によってスタイルが変わっていっても不思議ではない。と言うよりも、そうだからこそジャズである。ところがコルトレーンは、再生テープを聴きながらやり直したいと言い出した。エリントンが答える…、そのままの演奏でいいのだよと。

もちろんコルトレーンだって、頭の中ではそんなことが分かっていないはずはない。ただ、エリントンの知性にあふれた強い個性に対して、当時の自分にはまだまだ満足できないもどかしさがあったのだろう…と、ボクは思っている。自分自身が許せなかった。超マジメに音楽を追究したジョン・コルトレーンという、後の泣く子も黙る偉大なミュージシャンは、こうして完成していったのかもしれない。

ところで、今では偏屈者と位置づけされるであろうジャズ愛好家が、ボクの周囲には何人もいる。自分では気が付いていないが、その偏屈ぶりは実に鮮明である。

今は金沢香林坊日銀ウラにある「ヨーク」の、亡き奥井進マスターにヘバリ付いていた連中(自分も含め)などは、その偏屈ぶりを今でも保持している。先日も、金沢市C岡町在住のY稜という偏屈者と久々に語ったが、彼はこの21世紀の世に、セシル・テイラーという超レアなジャズピアニストを聴いていると言っていた。ジャズの歴史には燦然と輝く異色の巨匠ではあるが、今では化石みたいな存在(言い過ぎか)として、久々に耳にした名だった。近いうちにCDを借りようと思っている。

ヨークの正面の壁には、今は亡き奥井進さんの写真が飾られてある。

雑誌掲載用に撮影された、よそ行きスタイルの奥井さんが店の椅子に腰を下ろしてレコードジャケットを見ている写真なのだが、持っているレコード自体が凄い。

サン・ラという、ジャズ界の奇才とも言えるミュージシャンのレコードなのである。そんなことはあり得ないが、若い娘だったら、サン・ラが好きと口にしただけで縁談も断られるであろう。逆に言えば、そういう音楽にカラダが慣れてしまっている自分たちも危ないのだが・・・・・・

奥井さんは何かレコードを持ってというカメラマンのリクエストに、なんとそのサン・ラを選んだ。もともと好きだったのは間違いないが、こういう時、普通のジャズ喫茶のマスターだったら、俗にいう名盤を手にするだろう。しかし、奥井さんは違っていた。

そう言えば、ジャズ的…と言う言葉は、ボクが奥井さんのために造った言葉だった。ジャズ的音楽、ジャズ的日常、ジャズ的人生……。自由に、のびのびと自分の個性を生き方(日常)に反映させていく奥井さんらしい言葉だと、ボクは我ながらのネーミングに満足していた。

一見ミーハーにも見える上原ひろみのピアノから、久しぶりに感じた心地よい刺激が、いろいろなものを思い起こさせてくれたのだった………

※上原ひろみのショットは、NHK-BSテレビジョンより


「ジャズはジャズ的に聴く」への3件のフィードバック

  1. ・・・いろいろと懐かしく読ませていただきました。
    気がつけば、なぜか久しくYORKにもお邪魔していません。

    もちろん、行きたくないわけではないのですが、
    いや、むしろとても行きたいのではありますが、
    今、自分のまわりでは、公私ともに目まぐるしくモノゴトが動きつつあり、
    それに翻弄されている自分自身が、ほとほと情けなかったりします。

    YORKでまた、ゆっくりできる日が来ることを切に願っています。
    その時はまた、ぜひつきあってください・・・。

  2. トレーンとエリントンの逸話、、、
    エリック・ドルフィーの名言を思い出させますなぁ、、、( ̄。 ̄ )トオオイメ
                  ↓
    When you hear music after it’s over, It’s gone in the air.
    You can never capture it again.

    祥稜 拝

  3. 神経そのものが忘れているわけではないけど、
    脳の記憶が飛んでしまっているということがある。
    ジャズは、オレたちの身体の芯に息づいているから、
    オレたちの生命とともに共生してるんだな・・・。
    オレたちの中ではもう進歩はしないだろうけど、
    でも、オレたちのジャズは、ジャズ的なジャズだった。
    そのことは確かだったと思う…

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