たけし氏の“振り子理論”に励まされ


「yomyom」19号は、北野武氏の冒頭エッセイがスタートダッシュをつけてくれた。それ以降はいつものように毎夜数ページずつの“牛歩型”本読み状態になったが、出だしの爽快さはあとにいい流れを作ってくれる。

ところで、北野武氏(以下、たけし氏とする)は、ツービート時代から崇拝していた人物の一人だ。が、今は辛うじてTBS土曜夜の『ニュースキャスター』などで見るギャグタイムでしかその名残を確認できず、ボクにとってはかなり物足りない。例えばあの番組も、そのために見ているようなものだ。司会の安住アナとの息がいい具合に合っているのは、二人が明治のOBだからだろう(と、勝手に思ったりしている)。

あの二人は異質なものがいい感じで絡み合う理想コンビのひとつである。ボケに対して朴訥に、諭すように話していく真面目な突っ込みは心地よい響きを持っていたりする。微笑ましくもなる。

ついでに書くと、もうひとつのパターンである、やたらと気が短く、ボケに対してひたすら怒鳴りながら突っ込んでいくタイプもいい。最近見なくなったが、トミーズの掛け合いなどは最高に好きだった。涙が出るくらいに嬉しくなったりする。もっとやれ、もっとやれと煽りたくなる。ダウン・タウンも漫才屋だった頃はそれに近かったが、突っ込みの方が妙に利口ぶるようになるとウザくなっていく。

漫才の話になったので、もう一つついでに書くと、リアルキッズはいったいどうなったのだろうか。老成した天才少年漫才は、他を圧するおかしさと大らかさに満ちていたのだが、もういい大人になって“普通”になってしまったのだろうか。彼らの消息も知りたい。あのボケの方は、とてつもない逸材だったと思っている…

そんなことはとりあえず置いといて……だ。たけし氏のエッセイのタイトルは『本が誘う、本屋は遊郭』となっていた。

その内容は、『書店の中を歩き回って、普段興味のなかったような本を手にする。思わぬ本との出会いもあるし、なんだこの馬鹿な本、こんなものを買うやつがいるのか、なんて茶化しながら見て回るのが、またいい。』といったものである。

そんなこと自体にも共感したりする部分は多いのだが、書き出しにある、『おいらには「振り子理論」という考え方があって、バカな事と知的な事を振り子の様に行ったり来たりしているんだ。』というあたりには、もっと腹の底から共感した。頭のてっぺんに、何かがピリピリと走っていくような快感も味わった。

知的とかという表現にはちょっと違和感を持つが、言わんとすることは大いに理解できる。ボクとしては、さすがたけし氏はいいこと言ってくれるなあ…と、両手を合わせそうになった。実にいいタイミングであった。

 というのも、最近というか、一昨年の終わり頃からボクはかなり迷走気味なのである。自分の在り方みたいなものにまで余計な思いが走ったりしている。

たけし氏の「振り子理論」は、そんな迷走状態のボクに対する檄(ゲキ)のように思えて、ハッとした。今のボクにとっての振り子とは、公と私なのである。別の言い方をすれば、仕事と自己(あまり適切な表現ではないが)なのかもしれないが、とにかく振り子のように片方に振れれば振れるほど、もう片方にも大きく振れていく。例えば、仕事にだけ振って、そこでずっと止めておいてくれというのは無理な相談なのだ。

半世紀以上も生きてきて、今更何か自分を変えるようなものを植え付けようとしたところで無理だ。自分の考え方・感じ方があって、それが自分のやり方になってきた。どんな環境になっても、そんな自分のスタンスは根本的に変えられない。

最近自分の目が行き届かなくなって、このままいたら、自分の手から逃げて行ってしまいそうだと感じる“コト”が多くなってきた。さまざまなヒトビト(人々ではない)とのやりとりもそうだし、自分自身の行動もそうだ。

たとえば、昨年の春、金沢主計(かずえ)町のお茶屋さんを舞台にした『茶屋ラボ』という企画をスタートさせたが、結局関わっていく時間が乏しくなり、アタマも体も回り切らずの尻切れトンボになってしまった。自分自身もそうだったが、周りからもかなりの期待や羨望が注がれていたはずだった。特にボクにとっては、これまであまり関わりたくなかった世界だったが、その分また違う新しいものを創り出してみようという意欲もあって、楽しみのひとつにもしていた。まさに振り子の一方側だったのだ。

しかし、世の中そんなにうまくは回してくれない。当てにしていたサポートもいなくなり、今の自分だけではパワーの限界も見えてきた。ただやり過ごしていくしかなく、とうとうというか、やはりというか、この話はボクの手から離れていこうとしている。

そんなことが目に見える形で現れてくるのはまだしも、ボクの中にはまだまだいろいろなことが燻(くすぶ)っている。特に面白いヒトビトとの接点の中で生まれてきたコト(仕事とは直接呼びたくない)には、自分をとことん試してみたい気持ちが大きい。

先日も面白いことがあった。あるお店のリニューアルの話で、オーナーの奥さんの夢を聞かせてもらった。その夢と店づくりとをリンクさせたいと奥さんは考えていた。おどおどしながら、そのことをいつボクに切り出そうか、どういうふうに切り出そうかと考えている雰囲気が伝わってきていた。

ボクはその夢と、自分自身がやれることとの接点を探した。何でもないことだった。すぐに答えらしきものが見つかり、ボクはそれほど筋道を整理しないまま語り出した。語りながら筋道を整理しようという、いつものやり方だった。

すぐに意気投合した。それはまだまだ具体性を帯びたものとは言えなかったが、何となく方向性のようなものだけは示せるものになっていった。つまり商品販売を抜きにした個性的な部分を作るということで、その部分に活かせる特異な趣味の世界が、奥さんにはあるということだった。

ボクはそのことをオーナーにも話し、オーナー自身にもある若い頃の趣味から発展した仕事の世界をどこかで表現しましょうと提案した。それがどういうものなのかはまだ分からないが、少なくとも伝統工芸とは真逆の境地にあるその世界に、絶対面白い何かが潜んでいると思い始めた。これで打ち合わせが一気に面白くなった。ギャグが通じるようにもなった。

ボクの中にあるのは、いつもこうした自分自身の中のエネルギーというか、楽しみというか、そういう類のコトを軸の一部にして考えていくスタンスだ。だから、それらが感じられないと、ボクの仕事ではなくなる。誰か代わりの人に振ってあげればいいことになる。勇み足もしなくて済む。

たけし氏の“振り子理論”は、途中で左右だけでなく前後や斜め左右、斜め前後といった具合に収拾がつかなくなっていったが、それはそれなりに面白く楽しい時間をもたらしてくれた。アッと言う間に読み終えたが、活字を追いながら、ボクは自分が読んでいた活字以上に、自分の思いを巡らしていたように思う。

かつて、たけし氏の「コマネチ!」という研究本みたいなやつを読んだが、その時も思えば、振り子になっていたような気がする。

そう言えば、新幹線の中に忘れそうになり、立ち上がった際、隣の席にいた女子学生風の女の子に声をかけられたことがあった。彼女は体を傾け、ボクの座席の前のネットからその本を取り出すと、渡す前に表紙を目にし、吹き出すように笑った。表紙は、もろ“たけし”であり、“コマネチ”のロゴが踊っていた。

「おネエちゃん。笑っちゃいけないよ…。この本には深くて重い人の世の道が説かれているのだからね……」

……などとは言わなかったが、それに近い顔付きをして、ボクは「ありがとう」と答えた。そして、最後は笑い返した。

たけし氏という超強烈な“風”を得て、久々にボクの“振り子理論”は元気付いた。自信を持って、これからも図々しく振れてやろうと思う。なんか言われたら、「なんだ、バカやろー」と言ってしまえばいいのだから………


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