石動山。かつての記憶


 かなりの久しぶりさで、石動山(せきどうざん)に行ってきた。

 中能登町の仕事に関わることになりそうなので、記憶の財産を再確認しておこうと思ったからだ。

 初めて石動山に上がったのは、今から二十年前だ。

 当時まだ合併する前の鹿島町からの依頼で、標高565mの頂上下に造られた「石動山資料館」という小さな展示館の仕事をしていた。

 役場での、資料や展示の企画などの打ち合わせはよかったが、一旦山に上がると、なかなか飲料も食料も手に入らないから、途中の「すしべん」で買い出しをし、山に入る。それがまたそれなりに楽しかったりした。

 六月初めの、暑い日の昼前だった。

 途中で敢えて鹿島バイパス(現在の国道159号線)を離れ、元の国道である道(現在は県道)に入った。

 この道は前からずっと好きで、宿場町的な匂いにはかなり惚れ込んでいたのだ。

 家々の佇まいや樹木にも趣があるし、道の緩い上り下りやカーブなども、たまらなくいい気分にさせてくれた。

 合併して同じ中能登町になったが、JR線を挟んで海側になる旧鹿西町(ろくせいまち)や鳥屋町などでも、現在の幹線道を離れ、旧道に入れば、見事な佇まいの家々や寺院があったりして驚かされる。

 はっきり言って注目度としては低い中能登町だが、こういった素朴な風景を財産として活かしていけば…と、考えてしまう。

 話がそれたが、今回も二宮という地区にある入り口から上がった。

 この道はいきなり、ダンプカー群との遭遇を覚悟しなければならない課題をもつのだが、正式な入り口なので、そこは我慢して行くしかない。

 入り口に立つ石柱は、金沢長町に資料館がある前田土佐守が建てたものと後に聞かされた。よくクルマが当たるのか傷の修復跡が生々しい。

 ダンプカー群から解放されて静かになったと思っても、油断はできない。

 雑草で幅が狭められた山道をひたすら走って行く。交差はかなり厳しい。前に来た時よりも雑草の処理がされていないと感じる。

 そのことも後で以前行われていた「石動山マラソン」が廃止となり、除草も行われなくなったからだと聞かされた。

 実は昔からこういう道を走ることに慣れていたが、二十年前の仕事の時には、応援を頼んだ若手社員たちが来るのを嫌がった。

 それはこの道のせいだった。特に初冬の雪の降り始めの頃には、かなりの危険度もあって、こっちも気を遣った。

 しかし、あの当時は除草がされ、道もすっきりとして今よりはかなり広く感じられたのだ。今だったら誰も来てくれないかも知れない。

 先に言っておくと、今はこの道を使わなくても鹿島バイパスのアルプラザのある交差点を金沢方面からだと右折して真っ直ぐ氷見方向へ向かうと、途中で石動山への道が左に延びている。

 決して近いという雰囲気ではないが、今であれば緑がふんだんの景色もきれいだ。

 山頂への歩道の入り口に立つ「石動山」と彫られた石碑の横を通り過ぎ、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)の碑が立つ前の駐車場にクルマを止める。

 一帯の美しく整備された姿は、二十年前から着々と進められてきたものだ。

 初夏に近い日差しが、石動山を被うブナの緑を輝かせている。

 久しぶりに来たぞという思いが、自分を少し煽っているのが分かる。

 さっそく、伊須流岐比古神社の石段を上った。

 夫婦だろうか、スケッチブックを広げた二人が何か話をしながら、奥の拝殿に向かって手を動かしている。挨拶すると、にこやかに二人が言葉を返してくれた。

 さらに広い素朴な石段を上ると拝殿だ。真上から陽が差しこんでいる。

 この薄暗さと明るさのコントラストが、かつて写真撮影の時にはカメラマンを困らせたことを思い出す。

 ぐっと気持ちが引き締まったところで、拝殿の裏側へと回った。

 ここはある意味、石動山の歴史の酷さを伝える場のように感じられるところで、薄気味悪いが、どうしても見たいと思ってしまう場所だ。

 奥に大師堂跡の白い木柱が立つ。しかし、その周辺には崩れた墓石や、首がとれた石仏が並ぶ。いや、それらも倒れているものの方が多い。

 まったく廃墟の様相を呈しているが、これらには手を付けないらしい。神仏分離令や廃仏毀釈の洗礼なのだろう。

 かつて、比叡山などと並び称された石動山の無言の抵抗のようにも見える。

 奥には五重塔跡を見下ろすが、戦国時代の戦火によって焼失して以来、その権威を恐れて再建されなかったということだ。

 権威を恐れたのは、この地を一旦滅ぼした前田家らしい。

 この火災で黒焦げになった建物の一部木材は、資料館に展示した。

 拝殿前に戻り、そこから日差しを浴びながら少し下って、大宮坊という大きな建物を覗く。

 前に来た時は、建築工事中だった建物だ。

 大宮坊は石動山の中心的な坊であり、寺務を取り仕切る役所みたいなところだったという。

 当時のまま、当時の大工の子孫によって復元されたということだ。

 「中へ、どうぞ」 奥から女性の声がした。

 出て来たT口さんは、石動山のボランティアガイドだった。

 山の下の二宮という地区にお住まいがあり、大宮坊で周辺の歴史などを伝える案内人をされている。

 かつて資料館の仕事をした者だと自己紹介し、T口さんからいろいろな話を聞いた。

 そして、二十年前、鹿島町役場の教育委員会に勤務され、資料館開設の担当だったY本さんが元気でいらっしゃることも聞いた。

 Y本さんというのは、当時のボクには不思議な人だった。自宅が資料館のすぐ近くにあり、先祖は伊須流岐比古神社の氏子か何かであったのだろうかと想像させた。

 しかし、T口さんから聞いたのは意外な話だった。

 かつては(といっても、いつ頃か聞かなかった)、この石動山に数十軒の家があり、大きな集落を成していたということだった。

 開拓民として入山した人たちのうち多くが山を去ったが、Y本家はこの地に残ったらしい。

 当然だが、今でも当時のY本さんの顔ははっきりと覚えている。

 T口さんと三十分近く話して、最後に資料館へ。

 外で犬と一緒にいた管理人の方に、中を見たいと告げ、受付で二百円を支払った。

 展示室は二階にある。上る階段の壁には、写真パネルが並ぶ。残念だが、当時と変わっているような気はしない。

 展示室の中も特に変わったという感じはなかった。

 T口さんから、能登半島地震の時に、展示ケースの天井が落ち、仏像の足元かが折れてしまったという話を聞かされていた。

 その仏像たちはケースの床に寝かされている。

 基本どおり、時代の流れを軸にして展示ストーリーを組んでいった当時のことが浮かんでくる。

 いくつもの財産があったはずなのだが、とにかく石動山から一旦離れていったものが多過ぎた。それと、あるモノ、そして帰って来たモノも、保存状態が悪かった。

 しかし、ここに展示されているものすべてに、明確な記憶があり、その手触り感などが蘇ってくるように感じた。

 学芸担当の方(残念ながら名前が出てこない)と一緒に書いた展示解説のテキストにも、強い愛着があった。

 とにかく、この場所での展示作業は楽しかった。結局、多く関わったのはスタッフ二人とボクだけだったが、毎日夕方になると、石動山を下りるのがいやになったのだ。

 一階に展示されている懐かしい地元の神輿に触れて、それからトイレも借りて資料館を出た。またぶらぶらと歩き出す。

 そう言えば昼飯をまだ食べていない…。

 時計は一時半を過ぎ、二時近くになっている。時間も計算せず、弁当も持たずに来るとこういうことになる。

 そんなことは、二十年前にはしっかりとアタマに入っていたのに、不覚にも第一回目に来た時と同じ過ち?をおかしていた。

 急に腹が減ってきた。駐車場に戻る。

 そして、最後に整備された公園の写真を一枚撮りクルマを走らせた。

 ほどなく、Y本さんの家の前を通過。Y本さんのお母上だろうか、畑で腰を折り、何か作業をされていた。

 その姿を見た瞬間、石動山に関するボクの中の記憶の財産が、完全に復活したような思いがした。

 そして、また中能登にやって来る機会をいただいたのだと思った。

 帰り道は二宮に下らなかった。なぜか、ゆっくりと走れる芹川に抜ける道を選んでいたのだ……


“石動山。かつての記憶” への1件の返信

  1. ほとんど知らない場所ですが、
    とにかく歴史の重みを感じさせる
    凄い所だということだけは分かった気がします。
    まだまだ知らないいいところが
    たくさんあるんですね。
    今度調べて行ってみたいと思います。

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